夏季特別展『欲望の昭和~戦後日本と若者たち』
令和4年7/16(土)~9/11(日)
東北歴史博物館(宮城県多賀城市)
Isn't She LovelyCan't Help Falling in loveFly Me to The MoonBesame MuchoWhat a Wonderful World(They Long to Be) Close to youYou Are the Sunshine of My LifeDon't Know WhyThey Can't Take That Away from MeOver the RainbowHow Deep is Your Love
伊勢という、大和から離れた場所が選ばれたのも、天照大神の放つ禍々しい力を避けようとしてのことではなかったのか。(中 略)日本人は天照大神を恐れ、そこから距離をおこうとしてきた。実際、天照大神は、人々を恐れさせるようなことを繰り返してきたのである。
●今日の一枚 392●
Wes Montgomery
The Incredible Jazz Guitar
OCNブログ人の閉鎖によりgooブログに移籍して1か月となるが、データが正常に移行されたかどうかを少しずつ確認している。やはり、カテゴリ分類などで相当の不具合、混乱があるようだ。暇をみつけて少しずつ整理していかねばなるまい。ところで、その過程で「今日の一枚205」が2つあることが判明。過去のことで別にどうでもよい気もするが、何か落ち着きが悪いので、そのひとつを「392」として再アップしておきたい。
2007年9月26日にアップした記事である。実に親バカな文章で、今となっては恥ずかしい限りであるが、個人的な記録としての意味合いもあるので掲載することをお許し願いたい。
今日から小学六年生の上の息子の修学旅行である。いつもは騒がしい息子であるが、いつもいる人間がいないというのは何かしら淋しいものである。心なしか家全体がひっそりしている。
息子といえば、今週の日曜日に少年野球の大会があり、準決勝で隣の地区の強豪Mチームを7対4で破り、そのまま勢いに乗って優勝した。Mチームは県大会でもベスト4に入る強豪で、今年はこれまでに三度、県大会への代表決定戦で敗れている。特に三度目のときは最終回裏1アウトまで3対1でリードしておきながら、息子の平凡なピッチャーゴロエラーからはじまって、相手の足をからめた攻撃の前に信じられないエラーが続出し、結局ノーヒットで逆転サヨナラ負けを喫したのだった。今回の大会はローカル大会だったが、恐らくはMチームに挑戦できる最後の機会であり、悔いのないようのびのびプレイすることを確認してのぞんだゲームだった。子どもたちは、モットーの小細工はせずに打って打って打ちまくる野球を展開し、息子もチーム初得点となる柵越えホームランを放つことができた。続く決勝では息子が登板し、6対0の完封勝利をあげることが出来た。息子も初めて「最優秀選手賞」をいただき、いつになく得意顔だった。我が鈍くさい息子も努力したのだろうが、昨年秋の新人戦時にはベンチウォーマーだったことを考えれば、まったく信じられないことである。
信じられない、ということで今日の一枚は、ウェス・モンゴメリーの『インクレディブル・ジャズギター』である。
(2007年9月26日)
ウェス・モンゴメリーの1960年録音作品、『インクレディブル・ジャズギター』は、好きな作品の一つである。『フルハウス』などに比べると、ホーンが入っていないせいか、やや電気的な感じがして、ジャズ作品としては劣るような気がしないでもないが、ギター・カルテット特有の味わいがある。アップテンポの曲も悪くないが、私はこのアルバムに収められた③ムーンビームスが大好きだ。私の中では、ビル・エヴァンスのやつと並ぶ双璧といっていい。
夜、音量をしぼって聴くのがいい。日中に大きな音で聴くウェスのギターは非常に明瞭で、輪郭のはっきりした音であるが、夜に音量をしぼって聴くと、闇の中からサウンドが立ち上がってくる雰囲気を味わうことができ、まったく別の趣となる。これからの寒い季節、ホットウイスキーでも片手に、雪景色を見ながら聴いてみるなどというのも一興かもしれない。
今、⑥ In Your Own Sweet Way が流れている。・・・いいなあ。
☆今日の一枚 390☆
Wishbone Ash
The Best of Wishbone Ash
いまどきウィッシュボーン・アッシュなど聴く人間がいるのだろうか。懐メロとして聴くおじさんあるいはおじいさん以外にもはや聴く人のいない博物館行きのロックなのではなかろうか。そう思ったのは、今日カーオーディオのハードディスクに保存しようとして、自動認識システムがタイトルを認識しなかったからだ。
ウィッシュボーン・アッシュをバンドとしてフォローしたことはない。リアルタイムで聴いたこともない。高校生の頃、文化祭で上級生たちのバンドが演奏した「武器よさらば」がずっと耳に残っていた。何という名前のバンドの曲なのかずっとわからなかった。「武器よさらば」という印象的なタイトルだけが耳に残っていた。その曲の入った、『百眼の巨人アーガス』のレコードを入手したのはそれから10年以上も後のことだ。
それにしても癒される。こういうロックは好きだ。ブルーススケールやマイナースケールをはっきりとフィーチャーしたギターの響きに聴きほれる。お洒落だが、シンプルで仰々しさのない好感のもてるサウンドだ。ロックが精神の覚醒をめざした音楽であるとするなら、「癒される」といういい方は好ましいいい方ではないのかもしれない。しかしそれにしても、このひっかかりは何なのだろう。フレーズの端々に心が、あるいは細胞がひっかかる。
このベスト盤を買ったのはもう10年以上前のことだ。ちょっと聴いただけで放っておいたCDだ。けれども、カーオーディオで、あるいは夜の書斎でしばらくの間、ちょくちょく聴くことになりそうだ。
☆今日の一枚 332☆
Wayne Shorter
Native Dancer
なぜか、今週はずっと通勤のクルマの中でこのアルバムを聴いた。CD-Rに焼いたクルマ用のものがたまたまあったのだ。長かった今年の夏。その夏もようやく終わりそうな今日このころであるが、この夏を追想しつつ聴くのになかなかマッチした作品ではないか。水平線まで広がる海とずっと向こうまで続く砂浜、青い空と白い雲の情景がそこに浮かぶようだ。
ウェイン・ショーターの1974年録音作品、『ネイティブ・ダンサー』。ヒット作である。ハービー・ハンコックやミルトン・ナシメントを迎えて作り出されたポップで気持ちの良いサウンドもさることながら、やはりこのアルバムでの聴きものはウェイン・ショーターのソプラノ・サックスの音だ。
優しい音だ。感傷やノスタルジアを感じさせるような内省的な音ではない。音は内側ではなく、外に向かっている。ソプラノ・サックスの響きが、青いく広い空に向かってどこまでもどこまでもまっすぐに伸びていくようだ。ただただすがすがしく、気持ちの良い、さわやかな音だ。僕は思うのだけれど、サックス奏者あまたあれど、ウェイン・ショーターはその音の個性において、完全に傑出している。どんな初心者が聴いても、その違いが明確にわかるほどにだ。このアルバムは、その音の個性が最良の形で表現された作品のひとつといえようか。
今日は秋分の日、高校生の長男はバスケットボールの練習だが、私はこれから、私の実家と妻の実家の墓参りに行かねばならない。今日も、クルマでこのアルバムを聴いていこうか。
●今日の一枚 283●
Wynton Kelly Trio-Wes Montgomery
Smokin' At The Half Note
もう十年近く前のことだが、突然、自転車の旅にでようかと計画したことがあった。恐らくは人生の半分以上を終えた自分自身を、身体を痛めつける中で考え直してみようかと思ったわけだ。先ず手始めに、70㌔程のところにある妻の実家までの道を自転車で走破しようと思い立ったが、峠を3つ程越えるアップダウンの激しいコースと十分な身体的準備もせず敢行したため、当初往復の計画が、片道でダウン。最後の方は足に乳酸がたまり、もう一歩も歩けない始末だった(帰りは車に自転車を積んで帰宅した)。この話を中学生の長男にしたところ、父親を乗り越えようということだろうか、突然自分も挑戦するといいだし、お盆を利用して妻の実家へと自転車で旅立っていった。さすがに若者、往路を4時間ほどで走破し、4~5日の滞在の後、復路も3時間半ほどで走破した。復路は、休みのとれた私も所々車で伴走したが、泣き言ひとついわず走り続ける長男にわが息子ながらなかなかに感心した。まったく親ばかである。
『ハーフノートのウェス・モンゴメリーとウイントン・ケリー・トリオ』(青盤)。イジーリスニングでないウェスだ。1965年のニューヨーク「ハーフ・ノート」でのライブ2曲と同年のスタジオ録音3曲からなる作品である。白熱の演奏だ。ウェスのオクターブ奏法全開なのだが、ギターを弾いた経験のない人にそんなことをいってもリアリティーがないだろう。けれど、ギター奏法の知識などなくとも十分に楽しめる。ギター&ピアノ・ソロ満載の「フォー・オン・シックス」。『インクレディブル・ジャズ・ギター』にも収録されていたが、こちらは一段とノリがよい。落ち目といわれていたケリーも熱いソロを展開し、まさしく白熱だ。
ドラムスのジミー・コブ。もう20年程前だが、一関「ベイシー」でのライブで生演奏を見たことがある。ナット・アダレイのグループでの演奏だったが、理知的でドラムスの求道者然とした外見にすっかり魅了され、まだ若かった私はカッコいい、とあこがれたものだった。
●今日の一枚 267●
Wes Montgomery
Full House
忙しく疲れた一週間だった。仕事も忙しかったが、身体が疲れている。先週の日曜日に長男とテニスをしたのがきいているようだ。先週の日曜日、中学3年生になったテニスのローカル大会があったのだが、惨敗。たまたま会場に居合わせたテニスに詳しい知人にご教示願ったところ、いくつかの問題点を指摘され、その夕方、急遽、市営テニスコートを借り、「老体」に鞭打って長男とサービスとボレーの練習をしたのだ。まったくもって、親ばかである。
* * * * *
今日の一枚は、ウェス・モンゴメリーの1962年録音作品『フルハウス』である。当時のマイルス・デイヴィスのリズムセクションにジョニー・グリフィン(ts)を迎えて演奏されたライブ録音アルバムである。
ライブ録音であることを忘れてしまうようなしっかりした演奏である。バンド全体がまとまっており、サウンドが安定しているので、安心して聴ける。安心して聴けるが、ノリのよさはやはりライブ演奏のなせる業なのだろう。心が躍る。知らず知らずに足でリズムをとっている有様である。
私にとって、ウェスの作品の中では、最初に購入したものだった。買ったのはいつ頃だったろう。1980年代であることは間違いないだろう。CDが出始めの頃のものだ。AADと記されており、決して音質がいいとはいえない。けれども、ずっとこのCDを聴き続けている。古いCDでも演奏の素晴らしさは十分に伝わってくる。演奏自体の質の高さはメディアによって翳らない、ということだろうか。近年、音質の良いCDが次々に発売され、再購入の欲望を刺激されるが、そのことを肝に銘じ思いとどまっている。
「いーぐる」の後藤雅洋氏は、この作品について「メンバーの相性、楽器の組み合わせがいい。ジョニー・グリフィンの黒々としたテナーにウェスのグルーヴィーなギターがからみ、これをウイントン・ケリーのリズミカルなピアノが支えるという構図は、ギター・クインテットの1つの理想形だろう。」と賛辞のことばを記しているが(『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)、なるほど、まったくその通りだと思う。
●今日の一枚 251●
Webster Young
For Lady
確かにいいジャケットだ。山本隆氏は、このジャケットを「ジャズ史上に燦然と輝く名ジャケット」と評した。それはいくら何でもいいすぎではないかと思うのだが、いいジャケットであることは疑いない。マイルス・デイヴィスに影響を受けたコルネット奏者、ウェブスター・ヤングの1957年録音作品。ビリー・ホリディの愛唱曲を集めた、彼の唯一のリーダー作だ。
ウェブスター・ヤングが1940~50年代のマイルスの影響を強く受けているのは誰が聴いてもわかる。訥々とした語り口が好ましい。演奏それ自体に感情移入ができ、安心して聴ける。魂を揺さぶられ、啓発を受けるような種類の音楽ではないが、音楽がゆっくりと身体にしみこんでゆき、何だか気分がいい。波長があうのだ。幸せである。
余談であるが、「幸せってなんだっけ、なんだっけ、ポン酢醤油のあることさ」というのは明石家さんまのCMだった。これは案外、人生の真理(そんなものがあればの話だか)ではないかと思うのだがいかがだろうか。
◎今日の一枚 223◎
Wings
Venus And Mars
懸案の仕事がやっと一区切りついて、今日は達成感と解放感でいっぱいだ。大音響でJazzを聴こうと家路を急いだわけだが、結局再生装置のトレイにのせたのは古いロックアルバムだった。なぜかそういう音楽を聴きたい気持ちになったのだ。いくつかのアルバムをつまみ食い的に再生した後、今日はこれをじっくり聴きたいと思ったのがこのアルバムだ。
ポール・マッカートニー & ウイングスの1975年作品『ヴィーナス & マース』、ジミー・マッカロク(g)と、ジョー・イングリッシュ(ds)を加えた5人体制で制作されたウイングス4枚目のアルバムだ。ロック史上に燦然と輝く名作『バンド・オン・ザ・ラン』のあとをうけた作品である。『ヴィーナス & マース』をきちんと通して聴くのは何年ぶりだろう。このアルバムに接したのはほぼ同時代だったが、今聴くとなかなか良くできた作品であるということを再認識する。若い時分に繰り返し聴いたときより、このアルバムの優れているところが見える気がするのだ。完成度としては、『バンド・オン・ザ・ラン』に勝るとも劣らないのではないか。ポップで、メロディアスで、キャッチーな曲が並び、ホール・マッカートニーのソングライターとしての面目躍如といった感じだ。曲の配列も考え抜かれている。
しかし、CDで聴くとやや冗長な感じがするのは気のせいだろうか。やはりこれはレコード時代の作品なのだという気がする。A面とB面の間の「一休み」は、思いのほか重要なのものだったのではなかろうか。特に、トータルアルバムを意識して作られた作品においては、それがどうしようもないほど顕在化することがある。音楽アルバムを聴くという行為は、曲そのものを聴くということと同時に、聴く者がどのように「時間」を過ごすのかという問題でもある。A面とB面というのはいわば「チャプター」なのであり、我々はその間にトイレに行き、コーヒーを淹れ、レコードを裏返すという儀式を行い、あるいは一旦そこで聴くのをやめたものだ。その時間は、耳を休め、反芻して感想を整理し、これからの展開について想像力を膨らませるための、重要なものだったのではないだろうか。1960年代後半以降のアルバムには、LPレコードという媒体の特質を意識して制作されたものが意外と多い。A面とB面がそれぞれ何らかの意味で完結し、まとまりをもっているのである。その時代のアルバムをCDで聴いて、ちょっとした「違和感」を感じた経験があるのは、私だけではないだろう。
私のもっていた『ヴィーナス & マース』のレコードは、多くのビートルズ関係のLPとともに散逸してしまった。私が大学生で実家にいなかった頃、ビートルズに興味をもった年下のいとこたちが持ち去ってしまったのだ。今も残るビートルズ関係のLPは、10枚程度である。もう一度、このアルバムをLPでちゃんと聴いてみたい。今日しばらくぶりに『ヴィーナス & マース』を聴いて、私は考え込んでしまった。
●今日の一枚 152●
Wes Montgomery
A Day In The Life
ジャズ・ギターの革新者、ウェス・モンゴメリーーの1967年録音作品『ア・ディ・イン・ザ・ライフ』。私にとっては、聴きこめば聴きこむほど、新しい発見や驚きがあるスルメイカのような作品である。
イージー・リスニングの傑作といわれるが、そういういいかたにはやはり抵抗がある。一段低い見られ方のような気がするからである。ジャンルなど関係ない、いいものはいいのだ、という言い方もあるのだろうが、わたしは基本的にそういう相対主義的な見方に与しないことにしている。ある種のジャンルとは、「分野」でなく、レベルであると考えているからだ。もちろん、趣味の音楽鑑賞ともなれば、自分が気持ちよければいいのだ、という考え方も成立するわけだが、一方でやはり音楽のレベルというものは厳然として存在しているのだと思う。そういう意味ではやはり、この作品をイージー・リスニングというレベルに押し込めることには抵抗があるのだ。ポップなナンバーを中心とした選曲とバックのオーケストラの型にはまった演奏がなければ、もっと違う評価があったかもしれない。演奏自体はレベルとしても分野としてもJazzそのものだと思う。
タイトル曲「ア・ディ・イン・ザ・ライフ」の解釈に脱帽だ。