WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

被災地の海水浴場

2022年08月08日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 587◎
Walter Rodrigues,Jr
My Favorite Hymns,Vol. 1
 先日、気仙沼市のお伊勢浜海水浴場が東日本大震災以来12年ぶりに海開きをしたというニュースに接した。お伊勢浜海水浴場は 私の家のすぐそばにある海水浴場だ。本当は、昨年海開きをするはずだったが、コロナ禍でできなかったのだ。今日は休みが取れたので、郵便局に行くついでに立ち寄ってみた。
 平日の、朝の9時過ぎだったのでほとんど海水浴客はいなかった。ついでに、車で5分程度の大谷海水浴場にも行ってみた。
 やはり、平日の朝ということでほとんど海水浴客はいなかった。ちょっと前の土曜日曜は、暑さもあって多少賑わったようだが、大震災前の様相には遠く及ばず「密」でさえなかったようだ。
 もちろん、コロナ禍であることは大きいだろうが、少子化のため子どもずれのファミリーが減ったこと、若者たちが暑く潮風のベタベタしたレジャーをこのまなくなったことなども理由としてあげられるだろう。何より、今の若者たちは、海がある気仙沼に住んでいながら、その成長過程において海水浴を経験してこなかった世代なのだ。もちろん、仕方のないことだ。震災以来、気仙沼の海水浴場はずっと巨大な工事現場の様相を呈していたのだから。
 我々は、海水浴をはじめとする海での活動で、いろいろな冒険をし、失敗し、学び、教えられた。それらは強固な経験や思い出となって、その後の人生を規定する一つとなったようにも思う。海水浴を知らない世代が、新しい気仙沼の街を変えてゆくことになるのだろう。

 今日の一枚は、ウォルター・ロドリゲス・ジュニアの2010年作品、『My Favorite Hymns,Vol.1』である。ウォルター・ロドリゲス・ジュニアは、先日記したように(→こちら)、昨年の入院中に知り、エレガットに興味をもって再びギターを弾きはじめるきっかけとなったギタリストの一人である。この作品も歌心溢れる演奏全開であるが、よりジャージーな演奏が展開され、私的には思わず笑みが零れてしまう。
 今日は暑いが、幸い海風がある。エアコンをかけず、窓を全開にしてちょっとベタついた涼しい風を感じながら、スマホをYAMAHAのサウンドバーにつないで、apple Musicで聴いている。ウォルター・ロドリゲス・ジュニアのギターの響きが涼しい潮風と溶け合い、何ともいえない穏やかな時間を作り上げてくれる。
 

欲望の昭和

2022年07月30日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 585◎
Walter Rodrigues jr.
Close To You

 昨日は、妻と一緒に、東北歴史博物館で開催中の特別展『欲望の昭和』を見学してきた。
 「欲望の実現としての消費」をキーワードに、戦後史を「豊かな人並みの暮らし」の実現から、「自分らしさ」や「自分にとっての豊かさの実現」への変化としてとらえた展示会は、なかなか興味深いものだった。何より、自分が生きてきた時代のモノやコトがたくさん展示されていて、楽しかった。
 自分か生きてきた時代のモノやコトを振り返ることで、現在立っている地点が鮮明になり、勇気のようなものを感じることができた。遠い過去を学問的な視座から展示したものももちろん興味深いが、身近な過去を確認することで人々に勇気を与え、心を穏やかにすることも博物館の重要な機能だろう。このような展示はしばしばやってもらいたいとも思った。
夏季特別展『欲望の昭和~戦後日本と若者たち』
令和4年7/16(土)~9/11(日)
東北歴史博物館(宮城県多賀城市)

 今日の一枚は、ブラジル出身のギタリスト、ウォルター・ロドリゲス・ジュニアの2019年作品『クロス・トゥ・ユー』である。このギタリストを知ったのは、昨年の入院中のことだった。退屈しのぎに You Tube を見ていて巡り合った。ガットギターの音色が美しいと思った。You Tube で見るウォルター・ロドリゲス・ジュニアは、実に楽しそうに音楽を奏でる。ゴダン(godin)のエレガットの音色が美しく響く。退院後、エレガットを購入してソロギターを始めたが、そのきっかけになった一人である。
  2019年作品のこのアルバムは、有名なポップス曲を集めたもので、大変親しみやすい。一曲の演奏時間が短いことで曲のエッセンスが凝縮され、冗長にならずに透明で美しい響きを楽しむことができる。ギターをいたわり慈しむように奏でられる、優しい音色が素晴らしい。暑苦しい夏には、最適の一枚である。
Isn't She Lovely
Can't Help Falling in love
Fly Me to The Moon
Besame Mucho
What a Wonderful World
(They Long to Be) Close to you
You Are the Sunshine of My Life
Don't Know Why
They Can't Take That Away from Me
Over the Rainbow
How Deep is Your Love

菖蒲沢ため池

2022年02月13日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 565◎
Walter Lang Trio
Romantische StraBe

 気仙沼市の階上地区に菖蒲沢ため池がある。大正5年に編纂された『階上村誌』によれば、天文16(1547)年につくられたものらしい。その後、改修・増築され、今日にいたっている。
 菖蒲沢ため池は自宅から徒歩で20分程度、散策も含めて往復90分程度のウォーキングコースである。数基ある広大なため池には、冬ともなれば白鳥やカモが飛来し、土曜日曜にはそれらにパンをちぎって餌をやる市民が断続的に訪れている。最近では、それらの餌を横取りしようとトンビやカラスが集まり、餌をやる時は注意が必要だ。今日も訪れたが、至近距離までトンビやカラスが接近し危険だった。
 近くに三陸道の岩井崎ICや大谷ICもあり、静かで雰囲気もいい。気仙沼市が駐車場や遊歩道をもう少し整備してくれれば、ウォーキングや散策の市民の憩いの場となるだろう。

 今聴いているのは、ウォルター・ラング・トリオの2007年録音盤『ロマンチック街道の彼方』である。気障なタイトルである。風貌もイケメンである。サウンドもスタイリッシュで美しい。気に入らない。そう言いたいところだが、ずっと以前に取り上げた『サウンド・オブ・レインボー』のところでも記したように(→こちら)、甘い感じはせず、硬質なリリシズムを感じさせる作品である。きれいなサウンドだが、きれい系ジャズにあらず。一聴に値する作品である。
 こういう作品は風呂場でゆっくりと寛ぎながら聴きたい。そう、ピアノトリオが流れる銭湯、「友の湯」のように(→こちら)。そういえば、最近行っていないのだが、コロナ禍の中で「友の湯」大丈夫なのだろうか。来週の休日にでも行ってみようか。

USA LIVEを通して聴いてみた

2021年08月21日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 534◎
Wings
Over America
 入院中である。術後の経過はいい。点滴も昨日で終わったようだ。
 退屈だ。ネット動画もつまらない。第一、そんなに見たら制限を超えてしまう。やはり、本を読むか、音楽を聴くかしかないようだ。次に入院するときはkindleを持参しよう。もう購入してあるのだが、今回は間に合わなかったのだ。病室に居ながらにして、本を手に入れることができるのは魅力である。apple musicが大活躍である。ChillやFavorites, Mixのほか、ステーションの機能も利用して楽しんである。ただ、コンピレーションもいいが、時間があるのだから、やはりアルバムをじっくり聴きたい、と思った私はやはり古いタイプのおじさんなのだろう。そんな訳で、昨日の午後から夜にかけて、いくつかの古いロックのアルバムをダウンロードして聴いてみた。病室のベッドに横になり、ただ目をつぶってステレオイヤホンでじっと聴いた。

 今日の一枚は、ポール・マッカートニー&ウイングスのWings Over Americaである。1976年リリース作品である。同時代には、「USAライブ」と呼ばれていたように思う。中学生の頃、手に入れたかったアルバムだったが、3枚組という高価なものでとても手が出なかった。たまたま買うことができた友人からテープに録音してもらい、そのうちエアチェックしたりして、とりあえず満足してしまった。だから、今日に至るまで所有していないし、恐らくは購入することはないだろう。その意味でも、apple musicはありがたい。
 全28曲通して聴いたのは、恐らく初めてだと思う。ジミー・マッカロクの加入によって、よりロック色が濃くなったサウンドは好ましい。このギタリストがヘロイン中毒で亡くなってしまったのは本当に残念だ。オープニングから期待感がこみ上げてくるようなワクワクする演奏が続く。中盤はオベーションを使ったアコースティックな演奏である。やはり、ポール・マッカートニーはアコースティックギターが上手い。Bluebirdには聴き入ってしまった。BlackbirdやYesterdayといったビートルズナンバーが効果的に配されているのもいい。単なる懐メロではなく、新しい演奏として聴くに値するものだ。その優しい響きに、早く退院して自分でギターを弾きたくなった。後半に入っても、「マイ・ラブ」「あの娘におせっかい」と佳曲が続き聴き飽きしない。ただ、最後の数曲がややパワーダウンのような気がした。名曲Band On The Runは、精緻を尽くした構成のオリジナル盤の演奏を水で薄めたようで、ライブの清新さがうまく表出されていなかった気がする。最後の2曲も不完全燃焼で、えっ、これで終わっちゃうの、といった感じだった。

 いずれにしても、アルバム数枚を聴いて、退屈な時間があっという間に過ぎてしまった。入院しているという状況がなければ、経験できなかったことかもしれない。Apple musicにも感謝である。

発熱だ!

2021年07月18日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 518◎
Wynton Kelly
Kelly Great
 発熱である。さっき測ったところ39.0度だった。熱い。熱の所為か頭が痛い。
 昨日、モデルナの2回目を打ったのである。昨日は快調だった。一応、酒は控えた。今日の午前中も何ともなかった。100円均一ショップまで、買い物に行ったほどである。帰ってきて、午後、何となく熱っぽかったので、リビングに横になった。2時過ぎに起きると、顔と頭全体が熱くなっていた。
 不思議な熱である。39.0度の熱の所為で頭が少し痛いが、それ以外は具合悪くないのである。体全体が熱いが、インフルエンザのようにどこかが具合悪いわけではないのだ。だから、多少の活動はできる。さっきも、家庭菜園のトマトたちに水をやったところだ。けれども今日は大人しくしていよう。明日は仕事に行きたい。懸案の問題がいくつかあるのだ。
 薬は飲まない。ロキソニンは腎臓に悪いとのことだ。腎臓の数値が下がっていろのだ。カロナールは大丈夫らしいが、原因がわかっているので、慌てる必要もあるまい。熱は、明日には下がっている筈だ。

 今日の一枚は、ウィントン・ケリーの『ケリー・グレイト』である。伝説の年、1959年の録音である。パーソネルは、リー・モーガン(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ウィントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)である。
 ウィントン・ケリーのピアノは、小気味よいとか趣味がいいと形容される。その通りだ。ちょっとだけアーシーなフィーリングは、今日的にはお洒落といってもいい。そのケリーのアルバムが、伝説の年1959年に録音されたことが興味深い。実験的でも先進的でもなく、身体的でもアヴァンギャルドでもない。ただ、お洒落で小気味よく、趣味のいいアルバムだ。時代精神は一つではない。後付けでジャズ史を一定の価値観のもとに整理して叙述すると、このアルバムは外れるかもしれない。それでもいいアルバムである。

<織田信長>の実像

2020年12月30日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 453◎
Wynton Kelly
Wynton Kelly
 高校で日本史を教えていて、疑問なことの一つが織田信長のことである。私は戦国時代の専攻ではないのだが、いろいろな関りから、1980年代前半ぐらいまでの戦国時代に関する論文をある程度は読んだ経験がある。そこで感じるのは、織田信長は、通常、新しい時代を切り開いた先進的な革新者として位置づけられるが、その領国経営や諸政策において、決して革新的とはいえないということだ(むしろ、後進的な場合すらあるのだ)。例えば、信長に倒された今川氏の方が土地政策や家臣団統制、流通経済政策において、ずっと先進的であった。このことは、高校日本史でこの時代を考える授業をするとき、必ず引っかかっていた問題である。通説と、それを超えらない自分の非力に、身を割かれる思いをすることもあった。
 もう一つ、信長は「天下布武」を掲げて天下統一を目指したというが、「天下」という語が何を意味するのかということについて、ずっと引っかかっていた。学生時代、米原正義先生が授業で(茶の湯に関する講義だった)、史料上の「天下一」という語の検討から、「天下」という語が必ずしも現在的な日本全体を指すわけではないと語ったことが、ずっと気になっいたからである。
 今年読んだ、金子拓『織田信長<天下人>の実像』(講談社現代新書2014)は、そんな疑問に不完全なながらも答えてくれるものだった。金子氏は、織田信長の政策の後進性を認めた上で、神田千里氏らの研究を援用しつつ、信長の「天下布武」の「天下」は、日本全体ではなく、京都周辺の狭い領域を意味するものではないかと語り、信長に領土的野心はなく、天下統一=日本の統一など考えてはいなかったのではないかという結論を導き出した。信長は、室町幕府15代将軍の足利義昭を支えることで、京都周辺の「天下静謐」を目指したというのである。信長の領土拡大についても、戦国・織豊期の先行研究を援用しつつ、「天下静謐」を乱そうとした相手を軍事的に制圧した結果であると位置づけ、制圧した地域についても、中央集権的な方法で統治したわけではなく、旧来的な、その地域の支配者に一任するやり方だったと結論付けた。
 また、足利義昭の追放についても、義昭の立場をわきまえない独善的な強欲さが許しがたかったからであるとし、義昭追放以降も朝廷の守護者として「天下静謐」のために行動していたとする。
 本能寺の変については、四国征伐の頃から「天下静謐」を逸脱し、野心を持ちはじめた信長に対して、明智光秀がそうした信長の動きを頓挫させようとしたのではないかと推論している。
 ややスタティックな論理の感もあるが、史料的裏付けのある部分が多く、先の私の疑問に関しても首肯すべき見解が多いように思う。織田信長に関しては、一般的にも、研究者の間でも、スーパー変革者のイメージが強く、それを書き換えるのは一朝一夕ではあるまい。けれども、個別研究の積み重ねで、信長像は大きく書き換えられるという予感はある。私はそのような方向性を妥当だと考えている。

 今日の一枚は、ウィントン・ケリーの『枯葉』である。『枯葉』というのは日本語タイトルだ。ジャレットには「wynton kelly」としか書かれていない。
 ウィントン・ケリーのピアノは、音が軽いところがいい。深遠さとか、情念とかの概念とは無縁である。もちろん、超絶テクニックなどとも無縁である。そういう意味では表層的なピアノである。一抹の寂しさみたいなものを感じたりするが、それも表層的なテイストに過ぎないだろう。けれども、我々には、ケリーのような、軽い音の、軽いノリが必要なことがある。どうしようもなく、そんなサウンドが必要なことがあるのだ。表層的な軽い響きが、深遠な音を凌駕し、本当の深遠に届くこともあるのだ。絶頂期のウィントン・ケリーのピアノを聴くと、いつもそんなことを夢想する。 

祟る神、天照大神

2020年12月29日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 450◎
Wayne Shorter
Odessey Of Iska
 神棚を作り、神を祀り、神に祈る、年末年始には日本の神々や、神道について、何となく意識してしまう。
 神棚に収める「天照皇大神宮」のお札(神宮大麻)を見るたび、いつも考えてしまうことがある。「天照皇大神宮」、すなわち天照大神(アマテラスオオミオミ)は、《祟る神》なのではないかということである。そもそも、日本人が神を祀るのは、神の祟りを畏れ、神を鎮めるためである。皇祖神といわれるアマテラスも例外ではあるまい。そうであれば、正月に我々が神棚に手を合わせるのも、願い事の祈願ではなく、神を鎮魂し、災厄が身に降りかかりませんようにと祈ることに本来の意味があることになる。そのことは、今年読んだ島田裕巳氏の『「日本人の神」入門』(講談社現代新書2016)、『神社崩壊』(新潮新書2018)などの著作によってほとんど確信となった。
 アマテラスは女の神といわれるが、根拠はぜい弱である。弟のスサノオに対して「汝兄(なせ)」と呼びかけたことがほとんど唯一の根拠だ。「汝兄(なせ)」とは、女性が男性に対して親しみを込めて呼ぶ言い方だからだ。『古事記』『日本書紀』に登場するアマテラスからは女性的な優しさを感じることはほとんどない。むしろそのイメージは男性的ですらある。それは、他者を罰し、逆らう者を殺す怖い神であり、武装して軍隊を率い、戦争する軍神である。実際、中世の史料には男神として登場する例もあるようだ。
 もう一つ、明治天皇が参拝するまで歴代天皇が伊勢神宮を参拝しなかったという事実も重要である。学生時代、兼任講師として講義された中世史の村田正志先生が、「歴代天皇はなぜか伊勢に行かないんだよね。みんな石清水に行くんだ。」と語られたことを思い出す。そもそも、皇祖神であるアマテラスが、宮殿内に祀られず、それどころか都から遠い伊勢の地に祀られていること自体、大きな疑問なのだ。まるで、アマテラスをあえて遠ざけ忌避しているようですらある。この点について、島田裕巳氏は次のように語る。
伊勢という、大和から離れた場所が選ばれたのも、天照大神の放つ禍々しい力を避けようとしてのことではなかったのか。(中 略)日本人は天照大神を恐れ、そこから距離をおこうとしてきた。実際、天照大神は、人々を恐れさせるようなことを繰り返してきたのである。
 非常に説得力のある説明である。古代の人々にとって、神の存在とはよりリアルなものであって、そのパワーはまさしく人々に恐れを抱かせるものだったのであろう。神について存在論的に問わず、国家統合の道具として矮小化してしまった明治以降の国家神道、そして戦後の新宗教である神社本庁は、日本の神々のもともとの姿を大きく歪めてしまったように感じられる。

 今日の一枚は、ウェイン・ショーターの『オデッセイ・オブ・イスカ』である。1970年の録音である(Blue Note)。学生時代、最初に聴いた時には正直いってよくわからなかった。ちょっと前衛的でフリーっぽいテイストがうまく理解できず、難しい音楽だと思っていた。今は、すんなり受け入れることができる。サウンドの全体性やサウンドで構成された世界、イメージを聴く音楽だ。その意味で、後藤雅洋氏が「聴き手は、ただショーターの想像力の世界で遊ばせてもらうのである。」と語ったのは全く正しいと思う。
 神秘的で、スピリチュアルな世界。宇宙的で、超常現象的な世界といってもいい。演奏者の創造する世界が、聴き手のイメージを刺激する。余計なことは考えない。ただじっと耳を傾けるのだ。やがて、静かで、深く、柔らかい感動が訪れる。そんなアルバムである。
 Odessey Of Iska は、風の放浪、あるいは風の旅とでも訳すのだろうか。天照大神の話題には、このアルバムの提示するイメージはまったくふさわしい。

信じられないジャズギター

2014年12月19日 | 今日の一枚(W-X)

●今日の一枚 392●

Wes Montgomery

The Incredible Jazz Guitar

  OCNブログ人の閉鎖によりgooブログに移籍して1か月となるが、データが正常に移行されたかどうかを少しずつ確認している。やはり、カテゴリ分類などで相当の不具合、混乱があるようだ。暇をみつけて少しずつ整理していかねばなるまい。ところで、その過程で「今日の一枚205」が2つあることが判明。過去のことで別にどうでもよい気もするが、何か落ち着きが悪いので、そのひとつを「392」として再アップしておきたい。

 2007年9月26日にアップした記事である。実に親バカな文章で、今となっては恥ずかしい限りであるが、個人的な記録としての意味合いもあるので掲載することをお許し願いたい。

 今日から小学六年生の上の息子の修学旅行である。いつもは騒がしい息子であるが、いつもいる人間がいないというのは何かしら淋しいものである。心なしか家全体がひっそりしている。

 息子といえば、今週の日曜日に少年野球の大会があり、準決勝で隣の地区の強豪Mチームを7対4で破り、そのまま勢いに乗って優勝した。Mチームは県大会でもベスト4に入る強豪で、今年はこれまでに三度、県大会への代表決定戦で敗れている。特に三度目のときは最終回裏1アウトまで3対1でリードしておきながら、息子の平凡なピッチャーゴロエラーからはじまって、相手の足をからめた攻撃の前に信じられないエラーが続出し、結局ノーヒットで逆転サヨナラ負けを喫したのだった。今回の大会はローカル大会だったが、恐らくはMチームに挑戦できる最後の機会であり、悔いのないようのびのびプレイすることを確認してのぞんだゲームだった。子どもたちは、モットーの小細工はせずに打って打って打ちまくる野球を展開し、息子もチーム初得点となる柵越えホームランを放つことができた。続く決勝では息子が登板し、6対0の完封勝利をあげることが出来た。息子も初めて「最優秀選手賞」をいただき、いつになく得意顔だった。我が鈍くさい息子も努力したのだろうが、昨年秋の新人戦時にはベンチウォーマーだったことを考えれば、まったく信じられないことである。

 信じられない、ということで今日の一枚は、ウェス・モンゴメリーの『インクレディブル・ジャズギター』である。
   (2007年9月26日)

 ウェス・モンゴメリーの1960年録音作品、『インクレディブル・ジャズギター』は、好きな作品の一つである。『フルハウス』などに比べると、ホーンが入っていないせいか、やや電気的な感じがして、ジャズ作品としては劣るような気がしないでもないが、ギター・カルテット特有の味わいがある。アップテンポの曲も悪くないが、私はこのアルバムに収められた③ムーンビームスが大好きだ。私の中では、ビル・エヴァンスのやつと並ぶ双璧といっていい。

 夜、音量をしぼって聴くのがいい。日中に大きな音で聴くウェスのギターは非常に明瞭で、輪郭のはっきりした音であるが、夜に音量をしぼって聴くと、闇の中からサウンドが立ち上がってくる雰囲気を味わうことができ、まったく別の趣となる。これからの寒い季節、ホットウイスキーでも片手に、雪景色を見ながら聴いてみるなどというのも一興かもしれない。

 今、⑥ In Your Own Sweet Way が流れている。・・・いいなあ。


Wishbone Ash

2014年12月10日 | 今日の一枚(W-X)

☆今日の一枚 390☆

Wishbone Ash

The Best of Wishbone Ash

 いまどきウィッシュボーン・アッシュなど聴く人間がいるのだろうか。懐メロとして聴くおじさんあるいはおじいさん以外にもはや聴く人のいない博物館行きのロックなのではなかろうか。そう思ったのは、今日カーオーディオのハードディスクに保存しようとして、自動認識システムがタイトルを認識しなかったからだ。

 ウィッシュボーン・アッシュをバンドとしてフォローしたことはない。リアルタイムで聴いたこともない。高校生の頃、文化祭で上級生たちのバンドが演奏した「武器よさらば」がずっと耳に残っていた。何という名前のバンドの曲なのかずっとわからなかった。「武器よさらば」という印象的なタイトルだけが耳に残っていた。その曲の入った、百眼の巨人アーガス』のレコードを入手したのはそれから10年以上も後のことだ。

 それにしても癒される。こういうロックは好きだ。ブルーススケールやマイナースケールをはっきりとフィーチャーしたギターの響きに聴きほれる。お洒落だが、シンプルで仰々しさのない好感のもてるサウンドだ。ロックが精神の覚醒をめざした音楽であるとするなら、「癒される」といういい方は好ましいいい方ではないのかもしれない。しかしそれにしても、このひっかかりは何なのだろう。フレーズの端々に心が、あるいは細胞がひっかかる。

 このベスト盤を買ったのはもう10年以上前のことだ。ちょっと聴いただけで放っておいたCDだ。けれども、カーオーディオで、あるいは夜の書斎でしばらくの間、ちょくちょく聴くことになりそうだ。


青空にまっすぐに伸びるサウンド

2012年09月22日 | 今日の一枚(W-X)

☆今日の一枚 332☆

Wayne Shorter

Native Dancer

Scan10024

 なぜか、今週はずっと通勤のクルマの中でこのアルバムを聴いた。CD-Rに焼いたクルマ用のものがたまたまあったのだ。長かった今年の夏。その夏もようやく終わりそうな今日このころであるが、この夏を追想しつつ聴くのになかなかマッチした作品ではないか。水平線まで広がる海とずっと向こうまで続く砂浜、青い空と白い雲の情景がそこに浮かぶようだ。

 ウェイン・ショーターの1974年録音作品、『ネイティブ・ダンサー』。ヒット作である。ハービー・ハンコックやミルトン・ナシメントを迎えて作り出されたポップで気持ちの良いサウンドもさることながら、やはりこのアルバムでの聴きものはウェイン・ショーターのソプラノ・サックスの音だ。

 優しい音だ。感傷やノスタルジアを感じさせるような内省的な音ではない。音は内側ではなく、外に向かっている。ソプラノ・サックスの響きが、青いく広い空に向かってどこまでもどこまでもまっすぐに伸びていくようだ。ただただすがすがしく、気持ちの良い、さわやかな音だ。僕は思うのだけれど、サックス奏者あまたあれど、ウェイン・ショーターはその音の個性において、完全に傑出している。どんな初心者が聴いても、その違いが明確にわかるほどにだ。このアルバムは、その音の個性が最良の形で表現された作品のひとつといえようか。

 今日は秋分の日、高校生の長男はバスケットボールの練習だが、私はこれから、私の実家と妻の実家の墓参りに行かねばならない。今日も、クルマでこのアルバムを聴いていこうか。


ハーフノートのウェス・モンゴメリーとウイントン・ケリー・トリオ

2010年08月21日 | 今日の一枚(W-X)

●今日の一枚 283●

Wynton Kelly Trio-Wes Montgomery

Smokin' At The Half Note

Scan10002

 もう十年近く前のことだが、突然、自転車の旅にでようかと計画したことがあった。恐らくは人生の半分以上を終えた自分自身を、身体を痛めつける中で考え直してみようかと思ったわけだ。先ず手始めに、70㌔程のところにある妻の実家までの道を自転車で走破しようと思い立ったが、峠を3つ程越えるアップダウンの激しいコースと十分な身体的準備もせず敢行したため、当初往復の計画が、片道でダウン。最後の方は足に乳酸がたまり、もう一歩も歩けない始末だった(帰りは車に自転車を積んで帰宅した)。この話を中学生の長男にしたところ、父親を乗り越えようということだろうか、突然自分も挑戦するといいだし、お盆を利用して妻の実家へと自転車で旅立っていった。さすがに若者、往路を4時間ほどで走破し、4~5日の滞在の後、復路も3時間半ほどで走破した。復路は、休みのとれた私も所々車で伴走したが、泣き言ひとついわず走り続ける長男にわが息子ながらなかなかに感心した。まったく親ばかである。

 『ハーフノートのウェス・モンゴメリーとウイントン・ケリー・トリオ』(青盤)。イジーリスニングでないウェスだ。1965年のニューヨーク「ハーフ・ノート」でのライブ2曲と同年のスタジオ録音3曲からなる作品である。白熱の演奏だ。ウェスのオクターブ奏法全開なのだが、ギターを弾いた経験のない人にそんなことをいってもリアリティーがないだろう。けれど、ギター奏法の知識などなくとも十分に楽しめる。ギター&ピアノ・ソロ満載の「フォー・オン・シックス」。『インクレディブル・ジャズ・ギター』にも収録されていたが、こちらは一段とノリがよい。落ち目といわれていたケリーも熱いソロを展開し、まさしく白熱だ。

 ドラムスのジミー・コブ。もう20年程前だが、一関「ベイシー」でのライブで生演奏を見たことがある。ナット・アダレイのグループでの演奏だったが、理知的でドラムスの求道者然とした外見にすっかり魅了され、まだ若かった私はカッコいい、とあこがれたものだった。

 


フルハウス

2010年05月15日 | 今日の一枚(W-X)

●今日の一枚 267●

Wes Montgomery

Full House

Scan10002

 忙しく疲れた一週間だった。仕事も忙しかったが、身体が疲れている。先週の日曜日に長男とテニスをしたのがきいているようだ。先週の日曜日、中学3年生になったテニスのローカル大会があったのだが、惨敗。たまたま会場に居合わせたテニスに詳しい知人にご教示願ったところ、いくつかの問題点を指摘され、その夕方、急遽、市営テニスコートを借り、「老体」に鞭打って長男とサービスとボレーの練習をしたのだ。まったくもって、親ばかである。

     *     *     *     *     *

 今日の一枚は、ウェス・モンゴメリーの1962年録音作品『フルハウス』である。当時のマイルス・デイヴィスのリズムセクションにジョニー・グリフィン(ts)を迎えて演奏されたライブ録音アルバムである。

 ライブ録音であることを忘れてしまうようなしっかりした演奏である。バンド全体がまとまっており、サウンドが安定しているので、安心して聴ける。安心して聴けるが、ノリのよさはやはりライブ演奏のなせる業なのだろう。心が躍る。知らず知らずに足でリズムをとっている有様である。

 私にとって、ウェスの作品の中では、最初に購入したものだった。買ったのはいつ頃だったろう。1980年代であることは間違いないだろう。CDが出始めの頃のものだ。AADと記されており、決して音質がいいとはいえない。けれども、ずっとこのCDを聴き続けている。古いCDでも演奏の素晴らしさは十分に伝わってくる。演奏自体の質の高さはメディアによって翳らない、ということだろうか。近年、音質の良いCDが次々に発売され、再購入の欲望を刺激されるが、そのことを肝に銘じ思いとどまっている。

 「いーぐる」の後藤雅洋氏は、この作品について「メンバーの相性、楽器の組み合わせがいい。ジョニー・グリフィンの黒々としたテナーにウェスのグルーヴィーなギターがからみ、これをウイントン・ケリーのリズミカルなピアノが支えるという構図は、ギター・クインテットの1つの理想形だろう。」と賛辞のことばを記しているが(『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)、なるほど、まったくその通りだと思う。


For lady

2010年04月08日 | 今日の一枚(W-X)

●今日の一枚 251●

Webster Young

For Lady

Scan10006

 確かにいいジャケットだ。山本隆氏は、このジャケットを「ジャズ史上に燦然と輝く名ジャケット」と評した。それはいくら何でもいいすぎではないかと思うのだが、いいジャケットであることは疑いない。マイルス・デイヴィスに影響を受けたコルネット奏者、ウェブスター・ヤングの1957年録音作品。ビリー・ホリディの愛唱曲を集めた、彼の唯一のリーダー作だ。

 ウェブスター・ヤングが1940~50年代のマイルスの影響を強く受けているのは誰が聴いてもわかる。訥々とした語り口が好ましい。演奏それ自体に感情移入ができ、安心して聴ける。魂を揺さぶられ、啓発を受けるような種類の音楽ではないが、音楽がゆっくりと身体にしみこんでゆき、何だか気分がいい。波長があうのだ。幸せである。

 余談であるが、「幸せってなんだっけ、なんだっけ、ポン酢醤油のあることさ」というのは明石家さんまのCMだった。これは案外、人生の真理(そんなものがあればの話だか)ではないかと思うのだがいかがだろうか。


ヴィーナス&マース

2009年01月24日 | 今日の一枚(W-X)

◎今日の一枚 223◎

Wings

Venus And Mars

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 懸案の仕事がやっと一区切りついて、今日は達成感と解放感でいっぱいだ。大音響でJazzを聴こうと家路を急いだわけだが、結局再生装置のトレイにのせたのは古いロックアルバムだった。なぜかそういう音楽を聴きたい気持ちになったのだ。いくつかのアルバムをつまみ食い的に再生した後、今日はこれをじっくり聴きたいと思ったのがこのアルバムだ。

 ポール・マッカートニー & ウイングスの1975年作品『ヴィーナス & マース』、ジミー・マッカロク(g)と、ジョー・イングリッシュ(ds)を加えた5人体制で制作されたウイングス4枚目のアルバムだ。ロック史上に燦然と輝く名作『バンド・オン・ザ・ラン』のあとをうけた作品である。『ヴィーナス & マース』をきちんと通して聴くのは何年ぶりだろう。このアルバムに接したのはほぼ同時代だったが、今聴くとなかなか良くできた作品であるということを再認識する。若い時分に繰り返し聴いたときより、このアルバムの優れているところが見える気がするのだ。完成度としては、『バンド・オン・ザ・ラン』に勝るとも劣らないのではないか。ポップで、メロディアスで、キャッチーな曲が並び、ホール・マッカートニーのソングライターとしての面目躍如といった感じだ。曲の配列も考え抜かれている。

 しかし、CDで聴くとやや冗長な感じがするのは気のせいだろうか。やはりこれはレコード時代の作品なのだという気がする。A面とB面の間の「一休み」は、思いのほか重要なのものだったのではなかろうか。特に、トータルアルバムを意識して作られた作品においては、それがどうしようもないほど顕在化することがある。音楽アルバムを聴くという行為は、曲そのものを聴くということと同時に、聴く者がどのように「時間」を過ごすのかという問題でもある。A面とB面というのはいわば「チャプター」なのであり、我々はその間にトイレに行き、コーヒーを淹れ、レコードを裏返すという儀式を行い、あるいは一旦そこで聴くのをやめたものだ。その時間は、耳を休め、反芻して感想を整理し、これからの展開について想像力を膨らませるための、重要なものだったのではないだろうか。1960年代後半以降のアルバムには、LPレコードという媒体の特質を意識して制作されたものが意外と多い。A面とB面がそれぞれ何らかの意味で完結し、まとまりをもっているのである。その時代のアルバムをCDで聴いて、ちょっとした「違和感」を感じた経験があるのは、私だけではないだろう。

 私のもっていた『ヴィーナス & マース』のレコードは、多くのビートルズ関係のLPとともに散逸してしまった。私が大学生で実家にいなかった頃、ビートルズに興味をもった年下のいとこたちが持ち去ってしまったのだ。今も残るビートルズ関係のLPは、10枚程度である。もう一度、このアルバムをLPでちゃんと聴いてみたい。今日しばらくぶりに『ヴィーナス & マース』を聴いて、私は考え込んでしまった。


A Day In The Life

2007年04月08日 | 今日の一枚(W-X)

●今日の一枚 152●

Wes Montgomery

A Day In The Life

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 ジャズ・ギターの革新者、ウェス・モンゴメリーーの1967年録音作品『ア・ディ・イン・ザ・ライフ』。私にとっては、聴きこめば聴きこむほど、新しい発見や驚きがあるスルメイカのような作品である。

 イージー・リスニングの傑作といわれるが、そういういいかたにはやはり抵抗がある。一段低い見られ方のような気がするからである。ジャンルなど関係ない、いいものはいいのだ、という言い方もあるのだろうが、わたしは基本的にそういう相対主義的な見方に与しないことにしている。ある種のジャンルとは、「分野」でなく、レベルであると考えているからだ。もちろん、趣味の音楽鑑賞ともなれば、自分が気持ちよければいいのだ、という考え方も成立するわけだが、一方でやはり音楽のレベルというものは厳然として存在しているのだと思う。そういう意味ではやはり、この作品をイージー・リスニングというレベルに押し込めることには抵抗があるのだ。ポップなナンバーを中心とした選曲とバックのオーケストラの型にはまった演奏がなければ、もっと違う評価があったかもしれない。演奏自体はレベルとしても分野としてもJazzそのものだと思う。

 タイトル曲「ア・ディ・イン・ザ・ライフ」の解釈に脱帽だ。