WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

スタン・ゲッツ・プレイズ/あるいは身体にやさしい音楽

2011年01月30日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 299●

Stan Getz

Stan Getz Plays

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 昨日・今日と体調を崩してしまった。風邪をひいたようだ。36度台後半から38度程度まで熱が上がったり下がったりで、身体が全体的にだるい。休養を決め込んでベットにもぐりこみ、音量を絞って遠巻きに音楽を聴いた。ああ、いい感じだ……。

 かけたCDは、スタン・ゲッツの1952年録音作品、『スタン・ゲッツ・プレイズ』だ。子どもに優しく接する印象的なアルバム・ジャケットそのままに、優しさに満ち溢れたサウンドだ。スムーズで歌心に満ちたアドリブと、なめらかでやさしい音色はいつものことであるが、このアルバムでは、いつにもまして、原曲のメロディーを尊重した演奏が展開される。弱った身体にやさしいアルバムである。

 じっと目をつぶって聴いていたら、以前読んだ村上春樹氏のゲッツ評が頭に浮かんだ。「僕はこれまでにいろんな小説に夢中になり、いろんなジャズにのめりこんだ。でも僕にとっては最終的にはスコット・フィッツジェラルドこそが小説(the Novel)であり、スタン・ゲッツこそがジャズ(the Jazz)であった。」(和田誠・村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』新潮文庫) 

 実に、印象的なことばである。周知のように、村上春樹氏は、大のゲッツ好きであるが、ゲッツに対する過剰ともいえる思いをいつになく熱く語った印象的な一文である。このエッセイの中で、村上氏は例えば次のように語る。「しかし生身のスタン・ゲッツが、たとえどのように厳しい極北に生を送っていたにせよ、彼の音楽が、その天使の羽ばたきのごとき魔術的な優しさを失ったことは、一度としてなかった。彼がひとたびステージに立ち、楽器を手にすると、そこにはまったく異次元の世界が生まれた。」、「そう、ゲッツの音楽の中心にあるのは、輝かしい黄金のメロディーだった。どのような熱いアドリブをアップテンポで繰り広げているときにも、そこにはナチュラルにして潤沢な歌があった。彼はテナー・サックスをあたかも神意を授かった声帯のように自在にあやつって、鮮やかな至福に満ちた無言歌を紡いだ。」

 クールな村上氏にしては、過剰ともいえる程多くの言葉を費やしたスタン・ゲッツへのオマージュである。

 この思い、うらやましい程だ……。


UTAU

2011年01月22日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 298●

大貫妙子 & 坂本龍一

UTAU

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 快作だ。大貫妙子 & 坂本龍一の2010年作品『UTAU』。「大貫妙子が唄う坂本龍一」というふれこみの作品である。坂本龍一と大貫妙子は、「1970年代前半の出会い以来多くの共作・共演を経てそれぞれ独自の音楽世界を確立してきた」が、今回は「坂本龍一の楽曲に大貫妙子が言葉を紡ぎ唄うと」いう企画である。大貫と坂本の共演のみからなる一枚バージョンと、それに坂本のピアノインストロメンタル一枚がついた2枚組みバージョンがあるようだが、私は経済的事情から、一枚のみのものを購入した。

 素晴らしい出来だ。録音もいい。珠玉の一枚といっていいだろう。大貫妙子はフランスものの時代からずっと好きだったが、最近のものは大貫の声が年齢のためか(?)のびやかさがなく、ちょっと心配していたのだ。この作品はそんな心配はまったくない。声に余裕がある。張りもある。若い頃のような、溌剌とした艶はないかもしれないが、音の余白と余韻を考えた表現が素晴らしい情感を生み出している。何より、気高い。坂本龍一の硬質で抑制的なピアノも切ない感じでいい。

 いつも思うのだが、大貫妙子の作品、とくにピュアアコーステックものについては、余計な感想や批評を記すとかえって作品を汚してしまうような気がする。ただ、じっと聴いて感じたい。以前から大好きな曲、「風の道」で終わるところがいい。終わったあとの余韻がたまらなくいい。

「今では他人と呼ばれる二人に 決して譲れぬ生き方があった」

ただ、涙するのみである。


明成が負けた!~宮城県高校バスケ新人大会~

2011年01月19日 | 籠球

 先日行われた平成22年度宮城県高校バスケットボール新人大会において、全国的にも有名なあの明成高校(男子)が準決勝で聖和学園(男子)に敗れるという「波乱」があった。しかも、83対56(19-15, 19-10, 25-19, 20-12)の大差での敗戦である(大会結果は→「2011sinzin_keka.xls」をダウンロード )。残念ながら観戦できなかったので試合内容は不明であるが、スコアをみると、終始、聖和学園が優勢だったものと思われる。「波乱」と記したが、仙台地区予選でも聖和学園に1点差で辛勝したことを考えれば、「波乱」とはいえないのかもしれない。(仙台地区予選→「2010senen.xls」をダウンロード

 もちろん、聖和学園も強いチームだが、何かおかしい。ウインターカップにおいても、明成は2回戦で沼津中央に敗れた。結果的には、外国人留学生にやられたような印象であるが、ゲーム自体は明成が負けるような展開ではなかったように思う。事実、TVの解説者も、第3ピリオドまでは明成の勝利を当然のことと考えているようなニュアンスで発言していた。ところが、第4ピリオド、あれよあれよという間に逆転を許し、負けてしまった。試合巧者の明成にしては、まったく奇怪なゲームだった。当の外国人留学生のインサイドのプレーに対しても有効な対策を立てたようには見えなかったし、何よりお家芸のモーションオフェンスが十分に機能しなかった。というより、アウトサイドプレーヤーが立ち止っていることが多いように思えた。噂では、ウインターカップ県予選でも、明成高校の名将・佐藤久夫監督が、かつての教え子である仙台高校の監督と大ゲンカをしたと聞く。やはり、何か変だ。明成高校に、あるいは佐藤久夫監督に何があったのだろうか。私の思いすごしだろうか。

 新聞によれば、明成高校には今春、中学日本代表の選手が6人入学してくるとのことだ。中学日本代表とはU-16のことだろうか。それにしても6人とはすごい。すごすぎである。明成高校はきっとまた強くなるのだろう。せっかく追いついた東北学院や聖和学園は、勝てなくなるかもしれない。しかし、それにしてもである。つまらない。かつて佐藤監督は仙台高校を率いて、「普通の子」たちで日本一になった。彼らが本当に「普通の子」かどうかは議論があろうが、県内の選手中心で全国制覇したことは事実である。佐藤久夫監督のバスケットは大好きだが、勝てないから他県から有力選手をおおぜいつれてきたと考えてしまうと、ちょっと魅力半減だ。もちろん、時代はセネガルなど黒人の外国人留学生のオンパレードだ。勝つためには甘いことをいっていられないのはわかる。しかし、『普通の子たちが日本一になった!』(日本文化出版)を書いた名将・佐藤久夫監督だからこそ、一念発起、本当に「普通の子たち」で、もう一度日本一になってほしい。

 なお、大会は、東北学院が延長戦の末、87-83で聖和学園を破り優勝した。

     *     *     *

2011宮城県高校総体については → 「やはり、明成が負けた!」


Somethin' Else(加筆)

2011年01月05日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 297●

Cannonball Adderley

Somethin' Else

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 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしたします。

 年末はTVでバスケットボール三昧だったが、お正月は箱根駅伝に釘づけだった。おかげでこの年末年始は、かなりゆっくりした時間を過ごすことができた。テレビの前でゴロゴロしている世帯主の姿は家族にはかなり不評だったようだが、こんなにリラックスした休日は本当に久々だ。

 今日の一枚もこれで#297、あと3枚で300枚になる。はじめる前は1000枚などすぐだなどと漠然と考えていたのだが、日常生活に追われて更新は遅々として進まず、また生来のサボりぐせから長期休止状態となったことなどもあり、この始末である。ただ、いつしか10万ヒットも超え、ちょっとは駄文を読んでいただけるようになった。もちろん、その多くは「一瞥」であろうが、ちゃんと読んで下さる方々も少なからずおられるようで、陰に陽に、メールやコメントをいただくこともある。本当に嬉しい限りである。

 さて、今日の一枚だ。超有名盤、キャノンボール・アダレイのBlue Note 1958年録音盤『サムシン・エルス』である。キャノンボール名義のアルバムであるが、サウンドはマイルス・デイヴィスのものである。例えば、「いーぐる」の後藤雅洋さんが、「『サムシン・エルス』はキャノンボール・アダレイのアルバムではない。ジャケットに名前が大きく書かれていても、このアルバムの実際のリーダーは、キャノンボールではなく、マイルスなのである。疑問に思うなら、このアルバムの目玉、『枯葉』を聴いてみればよい。この曲のムードを決定するおいしいフレーズは、全部マイルスが吹いているから……」(『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)、と記す通りである。私もまったく同感で、私にとってはマイルスを聴くためのアルバムであり、クールでスタティックな作品というイメージをもっていた。

 今日、昼飯を食べたラーメン屋で、偶然、「枯葉」がかかっていた。Jazzを流すラーメン屋なのだ。このアルバムをよく聴いていたのは、ジャズを憶えたての学生時代、もう30年近く前のことである。そういえば、久しく聴いていない。しばらくぶりに聴いた「枯葉」は、随分違う印象だった。鈍くさいと思っていたイントロが、意外なことに、ファンキーでかっこよく感じられた。テーマはもちろんマイルスのサウンドそのものだが、キャノンボールのアドリブも決して負けてはいない。いつになく、のびやかで艶のある音色だ。なによりよく歌っている。かっこいいサウンドだなあ。それが、私の感想だった。これまで、このアルバムについて、いいアルバムだとか、心にしみるアルバムだとか思ったことはあるが、かっこいいアルバムだとは思ったことがなかったのだ。仕事をおえて帰宅し、早速LPを引っ張り出して全編を通して聴いてみた。そのサウンドはこれまでとはまったく違った輝きをもって私に迫ってきた。何というか、今までの印象より、ずっとファンキーな色合いを感じる。マイルスが参加していない、B-③ Dancing In The Dark なんていいじゃないか。

 「このレコードは大金主義の近代的装置で聴いてはいけない。CDもダメ。ミュート・トランペットが唾とともにビャーッと飛び出し、アルトが金切声をあげ、シズル・シンバルがガツンガツンいわなければ、演奏が面白く聴こえない。音とともにあるのだ。ぼくは旧式装置をもう一式欲しいと思っている。このレコードのために。」(寺島靖国『辛口!JAZZ名盤1001』講談社+α文庫)

 『サムシン・エルス』のレコードを聴きながら、たまたま側にあった文庫本のページをめくっていたら、そんな文章にであった。寺島靖国さんに賛成……!。本当はそういうアルバムだったのではないだろうか。

[付記]

 このアルバムの成り立ちについて、中山康樹『マイルス・ディヴィス 青の時代』(集英社新書:2009)は、次のようなエピソードを掲載している。

「このアルバムは、不遇時代に録音の機会を与えてくれたブルーノートのプロデューサー、アルフレッド・ライオンに対する感謝の念からマイルス自身が持ちかけ、しかしながらCBSコロンビアとの契約上、自らがリーダーとなることは不可能、そこで一計を案じてキャノンボールを名義上のリーダーとして吹き込まれた。」(p189)

 ただし、内容については、同じく中山康樹氏の『マイルス・デイヴィス ジャズを超えて』(講談社現代新書:2000)は、次のように記している。

「もっとも、マイルスが実質上のリーダーだったとはいえ、あくまで特例的なセッションであり、1958年当時のマイルスの音楽性が反映されたものとはいいがたい。」(p86)