WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

めかぶご飯としらすご飯

2021年03月30日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 484◎
The Beach Boys
Summer days
(And Summer Nights !!)
 このところ、朝ご飯が楽しみだ。めかぶの季節だからだ。2日に一度はめかぶご飯だ。めかぶは、わかめの根側のひだ状になったいる部分だ。私の地域では細切れにたたかれて食べるばかりになっているものもスーパーで売られているが、何といっても自分で湯がき包丁でたたいて調理したものが美味い。私の家では、私が調理する。奥さんが内陸部の出身でめかぶの調理に不慣れだということもあるが、朝ごはんは結婚して以来30年弱、私の担当だからだ。昔は、湯がいてたたいたものを酢醤油で食べたが、私の家では味の素を振り、味ぽんマイルドで食べている。ご飯にかけて食べるのだ。もう最高だ。
 ご飯にかけるといえば、もう一つ最高なものがある。しらすご飯である。朝茹でのしらすをご飯にのせ醤油をかけて食べるのだ。今はスーパーで買うしかないが、子どもの頃は、朝、おばちゃんが「おはようござりす。しらすようござりすか。(おはようございます。しらすはいかがですか)」といって,,朝茹でしらすを売りに来たものだ。それをボールで山盛りに買ったのだ。最近はしらすが不良だということで、スーパーでもやや値が張る。これから地物が出る季節になり、手ごろな値段になることを期待している。
 今日の一枚は、ビーチ・ボーイズの1965年作品の『サマー・デイズ』である。やはり、「カリフォルニア・カールズ」は出色である。ウキウキして思わず踊りだしてしまいそうだ。「カリフォルニア・カールズ」は、村上春樹の『風の歌を聴け』で重要なポジションを占めている曲だが、私には小林薫主演の映画『風の歌を聴け』での、この曲が流れるときのアンプのレベルメータの針が揺れるシーンが印象的だ。このシーンからステレオ録音の印象があるが、実際はモノラルの疑似ステレオサウンドである。ああいうアンプのレベルメーターの針をみると、条件反射のように、いい音質で鳴っていると思ってしまう。この映画でも、あのシーンは視覚的にすごくいい音だと感じる。

徳洲会の救急車

2021年03月29日 | 今日の一枚(S-T)
◎今日の一枚 483◎
Steve Kuhn Trio
Sing Me Softly Of The Blues
 震災のときのことで思い出すことの一つに、徳洲会の救急車がある。震災後には医療的ケアが必要なことがたくさんあった。震災の翌日か翌々日か忘れたが、避難所となっていた階上中学校に、何十台もの救急車が列をなして現れたのである。救急車には「徳洲会」と記されていた。すごい、と思った。助かった、と思った。
 徳洲会は、へき地・離島医療などに力を入れている巨大民間医療グループである。「生命だけは平等だ」「生命を安心して預けられる病院」「健康と生活を守る病院」を理念として、医師会の既得権益に抵抗した結果、各地で救急医療が受けられるようになったと評価される一方、wikipediaによれば臓器売買事件、親族への利益移転、暴力団との関係、選挙違反、政治献金などさまざまな問題が批判的に指摘されている。ただ、覚えておかなければならないのは、批評家らの安全な場所からのさまざまな批判的な言説にもかかわらず、震災のときに誰よりも早く、大規模な救援の手を差し伸べたという事実である。さまざまな批判にもかかわらず、医療という一点においては、徳洲会の活動は評価されなければならないだろう。昨今のコロナ禍においてもそうだ。いくつかの徳洲会病院で院内感染が発生したという批判がある一方で、小賢しい理屈を述べコロナ患者の受け入れに消極的な医師会と対照的に、早くから積極的に受け入れを行ってきたという事実がある。われわれの社会にはさまざまな言説が渦巻いているが、困難な状況下でその真偽は試されるのだ。

 今日の一枚は、スティーブ・キューンの1997年録音作品『ブルースをそっと歌って』である。venus盤である。パーソネルは、Steve Kuhn(p)、George Mraz(b)、Pete LaRoca Sims(ds)である。ECM時代の知的で洗練された、透明感のある演奏から一転、音の強い、ゴリゴリ、ゴツゴツした感じの骨太のスティーブ・キューンである。しかし、その強力なスウィング感をもつ手触りの粗いブルージーなサウンドの中で奏でられるスピーディーで流麗なメロディーラインに、やはり知的なものを感じてしまう。

 


宝酒造のタンクローリー

2021年03月29日 | 今日の一枚(Q-R)
◎今日の一枚 482◎
Richie Beirach
Elegy For Bill Evans

 震災のときのことでふと思い出すことがある。そのひとつが、宝酒造のタンクローリーのことだ。あの時は断水で大変だった。避難所のトイレを流すために、みんなでプールの水をバケツリレーしたりしたものだ。飲み水や調理に使う水のために給水車が来たが、毎回長蛇の列となり、並んだものの品切れで水にありつけなかったこともしばしばあった。そんなとき、避難所の階上中学校に宝酒造のタンクローリーがやってきたのだ。それまで見たことがないような大きな大きなタンクローリーだった。これなら大丈夫、と思った。いくら並んでも確実に水にありつける、と思った。いつもは酒類を運ぶためのタンクローリーだったのだろう。後で知ったことだが、あのタンクローリーで水を運ぶと特殊な清掃処理をしなければならないのだそうだ。そういう中で、来てくれた宝酒造のタンクローリーを、おそらくは一生忘れないだろう。

 今日の一枚は、リッチー・バイラークの1981年録音盤の『エレジー・フォー・ビル・エヴァンス』である。venus盤である。パーソネルは、Richie Beirach(p)、George Mraz(b)、Al Foster(ds)だ。前年に亡くなった。敬愛するピアニスト、ビル・エヴァンスへのトリビュート作品なのだろう。リッチー・バイラークは当時エヴァンス派と呼ばれていたが、エヴァンスに比べて音の輪郭が明瞭すぎる気がする。もちろん、それが個性というものなのだろうが、音の輪郭が明瞭すぎて攻撃的な印象を受けることもある。エヴァンスのピアノが墨絵のようなニュアンスだとしたら、リッチー・バイラークのそれは油絵のようだ。にもかかわらず、嫌いなアルバムではない。② Blue in Green や⑤Peace Piece で聴かれる叙情性に惹かれることがある。音の輪郭が明瞭すぎることは気になるが、それがECM的な硬質な抒情性となって現出する瞬間が好ましいのだ。

道の駅「大谷海岸」がオープンした

2021年03月28日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 481◎
Bill Evans
Trio '64
 道の駅「大谷海岸」がオープンしたというのでちょっと行ってみた。思っていたよりも、ずっといい施設だった(→こちら)。この商業施設は、震災前は「日本一、海水浴場に近い駅」として知られいた大谷海岸駅に隣接する施設だったが、あの大津波で壊滅的な打撃、というより木っ端微塵に破壊されてしまった。今度はちょっと高台に、周辺の道路も大幅にかさ上げし、BRT大谷海岸駅と一体化した形で再建されたのだ。三陸道に完全に隣接しているとはいえないが、大谷海岸ICからは比較的近く、やり方によっては意外にヒットするかもしれない。
 私の住む街の復興は被災地の中では進んでいる方だと思うが、例えば隣町の岩手県陸前高田市に比べると、ちょっと負けている感がある。メディアに露出し、町が一体的に再構成され、まとまり感じる陸前高田市に対して、私の住む街は大きすぎるのだ。リアス式海岸特有の地形のため、観光地が細切れに分断され、ひとつひとつの観光地がスケール感に欠けるものとなってしまっている。また、魚市場をもたない陸前高田市が資金を集中的に投入できるのに対して、魚市場をもつ私の町はそれに予算を取られるというハンディキャップもある。三陸道ができても、私の町はスルーされ、陸前高田市が賑わうという筋書きもありうるのだ。三陸道や気仙沼大島大橋、気仙沼湾横断橋をどのように活用し、点在する施設をどのように結び付け、それらをどのように運営するか。震災前に存在したいくつかの箱物施設には、ほとんど機能せず閑古鳥状態だったものも多かった。今度はそうならないことを期待したい。

 今日の一枚は、ビル・エヴァンスの1963年録音盤『トリオ'64』である。発表されたのが1964年だから『トリオ'64』なのだろう。パーソネルは。ビル・エヴァンス(p)、ゲイリー・ピーコック(b)、ポール・モチアン(ds)である。そういえば、昨年、ゲイリー・ピーコックが亡くなってしまった。好きなベーシストの一人だった。このアルバムでは、若き日のゲイリー・ピーコックのプレイを聴くことができる。若き日のゲイリー・ピーコックは、天才スコット・ラファロの追随者だったといわれ、その片鱗を垣間見ることもできるが、演奏された曲の曲調もあって、何だか微笑ましく思えてしまう。
 ゲイリー・ピーコックが亡くなったのは、2020年9月4日、85歳だった。

地震でめちゃめちゃだ

2021年03月21日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 480◎
Rickie Lee Jones
Pop Pop
 昨日の地震は結構すごかった。ちょっとだけ、「3.11」を思い出した。私の書斎は、CDや本が棚から落ちてめちゃめちゃの状態だ(とはいっても「3.11」の時に比べれば3分の1程度か)。今日はほぼ一日中片付けだ。ちょうどよいと思って、ほとんど見ない書類関係をシュレッターにかけ廃棄した。おかげで書斎はしばらくぶりにすっきりした。しかし、「3.11」以来、大きな地震があるたびにCDが棚から落ち、そのたびにケースが破損していく。ストッパーを付けているのだが、大きな地震には効果はないようだ。大体、CDが増殖しすぎたのだ。こんなにあっても、実際よく聴くのは100~200枚程度だろう。根本的な解決策を模索する時期かもしれない。すべて電子データ化するとか、プラスチックケースを廃棄てファイルケースにするとか考えてみようか。しかし、とんでもない時間がかかりそうだ。いつか「終活」を考え始めたときには処理しなければならないだろう。
 今日の一枚は、リッキー・リー・ジョーンズの1991年作品『ポップ・ポップ』である。これはジャズである。参加ミュージシャンや取り上げられた楽曲のためではない。そのスピリットが正真正銘のジャズなのだ。そういえば、少し前に取り上げたリッキー・リー・ジョーンズのトム・ウェイツに関する言葉の中にもこんな一節があった(→こちら)。
私たちは同じ通りの周辺を歩いているの。私たち2人にとっては、主にジャズのためにこういう状況になったのだと思うわ。私たちは人生のジャズ側を歩いているのよ。 
 今、片付けの終わった書斎で聴いている。いいアルバムだ。


「"き"のつくキ〇タマ」事件

2021年03月14日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 479◎
Chris Connor
Sings lullabys Of Birdland
 本棚を整理していて、懐かしい本を見つけた。栗本慎一郎の『ホモ・パンツたちへ』(情報センター:1982)である。高校・大学の一時期、私は栗本慎一郎の読者だったのだ。当時、経済人類学者を名乗っていた栗本氏の著作から、私は相対的に考えるという視点を学んだのだった。
 そういえば、この本の中で「”き"のつくキ〇タマ」事件が紹介されていた。テレビの幼児教育番組の中で、若い美人の女の先生が、「では、"き"のつく言葉を言ってみましょう」と問いかけたところ、一人の男の子が手を挙げて、「キ〇タマ」と答えたというのだ。若い美人の女の先生はしばし絶句し、あわてて「そうね。それもありますね。でももっと美しくてきれいな言葉を言いましょうね。さあ、他に何かありますか?」と再び問い掛けた。子どもたちがシーンと沈黙していると、先の男の子が再び挙手して「きれいなキ〇タマ!」と答えたというのだ。その瞬間、生放送だったこの番組の画面いっぱいに「しばらくお待ちください」のスーパーが映り、番組が再開すると、その男の子の姿はどこかに消え、男の子の座席には善意の象徴であるパンダのぬいぐるみが座っていたという。
 腹を抱えて笑ったものだ。腹筋がつりそうだった。この番組とは「ロンパールーム」だったらしく、一部では有名な事件だったようだ。栗本氏は、この事件を《しのびよるパンダ・ファシズム》として糾弾し、言葉を固定的にとらえて排除する仕方を批判したのだった。
 今日の一枚は、クリス・コナーの『バードランドの子守歌』だ。1953~1954年のライブ録音盤である。優しく柔らかい歌声が何ともいえずいい。歌のテクニックは高度だが、決して奇をてらわず、曲の芯をとらえるのがクリスのボーカルの真骨頂である。「バードランドの子守歌」は、例えばサラ・ヴォーンのそれと比較すると両者の資質の違いが明確になる。どちらも好きだが、クリスの歌唱は本当にゆったりした気持ちになる。

リゾーム

2021年03月14日 | 今日の一枚(O-P)
◎今日の一枚 478◎
The Oscar Peterson Trio
We Get Requests
 本棚を整理していて懐かしい本を見つけた。1980年代に流行したドゥルーズ=ガタリの『リゾーム』である。何とも開いたためか、もう本はバラバラの状態だ。帯の宣伝文句には、「80年代の思想シーンを規定した、ドゥルーズ-ガタリの戦闘的パンフレット」とある。周知のように、リゾームとは地下茎のことであり、ツリーの反対概念である。各人が、非統制的、非管理的に、自由にコミュニケーションすることで、権力に対抗するイメージを表したものだ。今振り返ってみると、スマホやPCを使って各人が自由にあるいは偶然性によって繋がることのできる社会にシフトした点では、リゾームの描くイメージは先見性があったといえるかもしれない。しかし一方、その反作用としてあるいはそれへの対抗として、国家権力の統制が強まったこともまた事実であろう。問題は、そうした統制を市民が受け入れ、場合によっては増幅しているように見えることである。
 今日の一枚は、オスカー・ピーターソンの『プリーズ・リクエスト』である。1964年録音の作品だ。私はなぜか、オスカー・ピーターソンを聴いてこなかった。LPやCDのコレクションの中にも、持っているのはこの一枚のみである。この一枚も、教養主義的に聴くために買ったような気がする。オスカー・ピーターソンを毛嫌いしていたわけではないが、私が伸ばしていたアンテナには引っかからなかったようだ。私の聴く音楽の傾向とコードが違っていたのかもしれない。今、オスカー・ピーターソンを聴いている。趣味のよい、お洒落なサウンドである。衰えてきた耳にも優しい。ただ、若い頃聴かなかった理由もわかるような気がする。お洒落で美しい演奏だが、予定調和的で、つまらなく感じたのだろう。もちろん、忌み嫌うような演奏ではない。定年したら、肩の力を抜いて聴けるかもしれない。
 

この瞬間が奇跡であること

2021年03月13日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 477◎
Jimmy Scott
Unchained Melody
 そういえば、先週訪れた大島の亀山山頂付近のレストハウスに、「ご来館くださった方々へ」という張り紙があった。10回目の「3.11」の直前だったためだろうか、あるいは亀山からの雄大で美しい景色を見た直後だった所為だろうか、妙に記憶に残っている。

ここ亀山から、緑の真珠を眺め未来を想像してください。
悪天候の時もあるでしょう。
残念に思われるかもしれませんが、それも時には必要な自然の力なのだと思います。
次に見える景色は、虹がかかるかもしれません。
雲ひとつない青空かもしれません。
どれもこれも一度しか見れない景色です。

当たり前の日常が当たり前ではない日常であること。
今見えているもの、感じているもの、この瞬間が奇跡であること。
この景色を眺め、大切な時間をお過ごしください。

どうか、あなたの人生に、たくさんの優しい光が差し込みますように。
 
「緑の真珠」とは大島のことである。「大切な時間をお過ごしください」というところがなかなかいい。
 今日の一枚は、ジミー・スコットの『アンチェインド・メロディー』である。2001年のライブ録音盤だ。ジミー・スコットについては、以前話題にしたことがある(→こちら)。「伝説のシンガー」「天使の声」といわれる歌手だ。多くのシンガーに影響を与え、ミュージシャン仲間から絶賛されたにもかかわらず、長い不遇の時代を過ごさねばならなかった彼にとって、このアルバムが初のライブ・アルバムなのだそうだ。しかしこの時、彼は76歳。かつての天使の声の片りんは十分に感じることができるが、もはや天使の声ではない。懸命に声を振り絞る姿からは、正直いって痛々しさを感じざるを得ない。ところがである。じっと耳を傾けていると、その世界に引き込まれ、気付けば痛々しさなど消え去ってしまっている。これもまた、奇跡だ。
 ジミー・スコットは、2014年に亡くなった。

あの日の夜

2021年03月13日 | 今日の一枚(O-P)
◎今日の一枚 476◎
大貫妙子
Attraction
 今週は、10年目の3月11日があった。震災にまつわることについては、これまでいろいろ書いた。ただ、私は津波そのものを見ていない。たまたま海岸から遠いところにいたのだ。いつも思い出すのは、あの日の夜のことだ。避難先で過ごした夜は、本当に寒かった。避難先には、確かな情報は何も入らなかった。高校に津波が押し寄せ、体育館の屋根はもうないらしいなどの噂を聞いたがリアリティーを感じられず、デマの類かと思ったほどだ。携帯電話のワンセグで見たニュースに町が燃えている映像が映り、「気仙沼市」という文字を見たときも実感がもてなかった。あわてて外へ出て空を見上げた。遠くの空が真っ赤に色付いていた。大変なことが起こったのかもしれない、とその時初めて思った。

 今日の一枚は、大貫妙子の1999年作品の『アトラクシオン』である。私は、日本の音楽はあまり聴かない。大貫妙子の音楽は、数少ない例外の一つだ。今週見た、テレビの震災関連番組のバックに聞き覚えのあるメロディーが流れていた。大貫妙子の「四季」だった。郷愁を感じさせる日本的な旋律、歌詞の中の故郷の情景の描写や、「胸に残る 姿やさしい 愛した人よ」「さようならと さようならと あなたは手をふる」などの言葉が、震災を追憶する音楽としてふさわしいと考えられたのだろう。早速、「四季」の収録されている『アトラクシオン』をしばらくぶりに聴いてみた。「四季」は、やはりいい曲だ。歌詞の背景や意味については不明だが、喪失の歌のようだ。不在の人と故郷で過ごした情景を描写した歌詞である。前半部でその人と過ごした故郷の情景が鮮やかに描かれ、終わりになってその人が今はもう不在であることが告げられる。「さくらさくら 淡い夢よ 散りゆく時を知るの」という言葉で死のイメージが提示され、「さようならと さようならと あなたは手をふる」という言葉で、その人の去り行く情景が描かれる。秀逸な歌詞である。初期の、フランスものの時代とは一味違う、円熟した大貫妙子の曲だといえよう。
 今、「風の旅人」がかかっている。これもまたいい曲だ。

大島の亀山

2021年03月07日 | 今日の一枚(O-P)
◎今日の一枚 475◎
Pat Metheny Group
Travels
 すごい。本当にすごい。
 気仙沼大島の亀山からの眺望のことである。初めてではない。子どもの頃には、家族であるいは学校の遠足で何度も登ったものだ。ずっと登っていなかった。おそらく数十年ぶりだ。地形の輪郭の美しさ。海の輝き。空の青さ。全く別世界のような、圧倒的な存在感に涙が出そうだった。
 三陸道の気仙沼湾横断橋が開通したということで、年老いた父親を伴って大島までドライブした。折角来たのだからと思い、亀山に向かった。歩けるうちにもう一度登らせてみたかった。駐車料金500円を払えば、往復無料のシャトルバスで山頂付近まで送ってくれる。一昨年の大島大橋に続いて、今回横断橋が開通したことで、大島はずっと近くなった。私の家からは15分程度だ。これからちょくちょく訪れることになりそうだ。しばらくぶりに、みちのく潮風トレイル大島一周コースに挑もうか。
 今日の一枚は、パット・メセニー・グループの『トラベルズ』である。1982年7月~11月のライブ録音盤である。美しく、変幻自在のサウンドである。亀山の眺望を見ながら、パット・メセニーの音楽が無性に聴きたくなった。こういうことはよくある。パット・メセニーの音楽は、風景とシンクロすることが多いような気がする。パット・メセニーというギタリストを知ったのは、1988年のライブ・アンダー・ザ・スカイで見てからだと思う。仙台で見た。Goin Ahead かTravels だったと思う。夕暮れ時の空の色に、音楽が妙にマッチしていた。今でも忘れられない。それからずっとパット・メセニーを聴き続けている。

大船渡「百樹屋」

2021年03月07日 | 今日の一枚(M-N)
◎今日の一枚 474◎
Modern Jazz Quartet
Concorde
  昨日3月6日、気仙沼湾横断橋を含む宮城県内の三陸道が全線開通した。早速、横断橋を走ってみたいと、混雑を予想して、15:30の開通から1時間程後に出動した次第である。空いているだろうと考えた岩井崎インターから入り、スムーズに出発。ところが、本線は予想に反して大渋滞。気仙沼中央ICの手前あたりから、トロトロ運転になってしまった。まあ、おかげで横断橋ではゆっくりと眺めを楽しむことができたが・・・。
 とりあえず、陸前高田まで行ってみたが、もうどこの飲食店も締まっており、帰りの渋滞も考えてもう少し時間をつぶそうと、大船渡まで足を延ばしてみた。目的地は「百樹屋」というカレーうどんの店だ。少し前に職場の同僚から紹介されていたが、コロナ禍もあって、なかなか行けなかった店である。カレーうどんはなかなか辛かったが(後から来る辛さだ)、味はかなり美味しかった。コロナ禍の所為か店は空いていたが、結構な有名店らしく、店内には福山雅治や森山良子はじめ芸能人のサインが多数飾られていた。永井龍雲などもあり、ちょっとびっくりした。まだ頑張っていたのですね。(失礼)

 今日の一枚は、MJQの初期の傑作『コンコルド』である。1955年録音の作品だ。室内楽的で端正な響きの中で、ミルト・ジャクソンのヴァイヴはファンキーである。これがMJQの真骨頂である。このヴァイヴがなければ、知的に洗練されたいい音楽ではあるが大人しすぎてつまらないものになっていたと思う。ひっそりとした耳に優しいサウンドであるが、耳を傾けていると熱いものがこみあげてくる。ちょっと早く起きすぎた日曜の朝に、コーヒーをすすりながら聴くには、なかなかいい作品だ。