WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ジョージ・ケイブルス

2006年10月31日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 78●

George Cables     New York Concerto

5550003 ジョージ・ケイブルスを知ったのは、アート・ペッパーの最晩年のピアニストとしてだ。ペッパー最後の作品『ゴーイング・ホーム』は、ケイブルスとのデュオ作であり、ペッパーがいかにケイブルスを信頼していたかがわかる。実際、このアルバムにおけるケイブルスの演奏は素晴らしかった。ペッパーより目立っているといっても良い。ケイブルスは、私のフェイバリット・ピアニストの一人になり、以来注目するようになった。

 さて、そのジョージ・ケイブルスの2000年録音盤『ニューヨーク・コンチェルト』である。しばらくぶりのリーダーアルバムである。スタンダードの他、バート・バカラックの曲やバッハ、モーツアルト、ショパンなどのクラシック曲にまで手をだしたアルバムだ。ジャズ演奏家がクラシック曲に手を出すのはあまり好きではない。オイゲン・キケロなどを思い出していまい、拒否反応を起こしてしまうのだが、このアルバムについては別だ。一聴して大好きになってしまった。

 最近の録音ということで、音がいい。ジョージ・ムラーツのベースの躍動感がよくわかる。ケーブルスのピアノは、クラシック曲を弾いても、スウィングすることを忘れず、しかも旋律の美しさを美しいままに、繊細なタッチで奏でる。一緒に口ずさみ小躍りしたくなるようなサウンドだ。叙情ス的なもの、スウィング感を前面に出したもの、やや攻撃的なサウンドなど、どの曲もいい仕上がりだが、最後の曲⑩がトロイメライだというのがいい。原曲のもっている叙情性が生かされており、聴き終わった後、穏やかな余韻に浸ることができる。


ヴァーモントの月

2006年10月29日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 77●

Johnny Smith     Moonlight In Vermont

5550002  書斎の天窓から月が見える。半月に近い月だ。日曜日の夜ぐらい、しっとりとした雰囲気で月を眺めたいと思い、取り出したのが、最近買ったCD、ジョニー・スミスの1952年録音盤『ヴァーモントの月』だ。もちろん、ビールを飲みながらだ。

 ずっと昔の本だが(1986年刊、今でもでているのだろうか)、油井正一ジャズ ベスト・レコード・コレクション』(新潮文庫) の中で片岡義男がエッセイで紹介したのがこのアルバムだ。エッセイ自体は、気取った、意味のない、つまらないものだったが、レコードはなんとなく気になっていた。今回、「ジャズ決定盤1500」シリーズから廉価で発売されたので購入してみたわけだ。

 いかにも、1950年代のサウンドという感じだ。刺激的ではないが、悪くはない。解説を読むと、ジョニー・スミスという人は、繊細で正確なテクニック、美しい音色、技術的なアイデアの幅の広さ、といった点では超一流で、人気も他のギタリストたちより数倍上だったようだが、「セッションの醍醐味」というものが希薄で、次世代のジャズ・ギタリストに与えた影響が少なかったらしく、現在では「聴かれないギタリスト」になってしまったとのことだ。

 まだ、2度しか聴いていないのでよくわからないが、生活にしっとりとしたメローな雰囲気をもたらしてくれる音楽としては悪くない。できれば、アナログ・レコードで聴いてみたい一枚である。


フライト・トゥ・デンマーク

2006年10月29日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 76●

Duke Jordan     Flight To Denmark

5550001_5  学生時代、Jazzなんか全然わからないのに、ある先輩にジャズ喫茶を連れまわられ渋谷の音楽館だ)、大音響でハードボイルドなジャズを聴かされて、ああもう限界だ、と思った時、かけられたのがこのレコードだった。助かった、と思った。このレコードがなかったら、私はジャズ嫌いになってしまったかも知れない。

 1973年録音の有名盤だ。かつてはチャーリー・パーカーのサイドメンをつとめたデューク・ジョーダンも1960年代はまったくの不遇で、一説にはタクシーの運転手をやっていたこともあったという。設立されて間もない欧州のレーベルSteeple Chaceからリリースされた本作でカムバックを果たし、ファンを安心させた。

Here's That Rainy Day の出だし、何というリリカルな響きだ。美しいとしか言いようがない。あのとき渋谷の音楽館でかかったのも、きっと、この曲に違いない。ジャケットもセンチメンタルな雰囲気が出ていてなかなかいいじゃないか。

 デューク・ジョーダンは今年8月8日コペンハーゲンで死去した。84歳だった。1981年の渋谷音楽館で私をジャズ嫌いになることから救ってくれた、ジョーダン、ありがとう。


ケイコ・リーと綾戸千絵

2006年10月28日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 75●

Keiko Lee

A Letter From Rome

5550001_4  ケイコ・リーの『ローマからの手紙』。2000年作品である。このピアノ引き語りアルバムが、当時人気が出始めた綾戸千絵に対抗して録音されたものであることは明らかだろう。

 今では人気沸騰の綾戸千絵だが、思い起こせば、私は割りに早い段階から綾戸を知っていた。当時いきつけのCD屋の店員さんから「面白い作品が出ましたよ」と綾戸を紹介され、聴いてみたのが最初だった。いかにも「しっとり」とした雰囲気でしか歌うことのできない多くの日本のジャズシンガーの中にあって、ゴスペルの要素を盛り込み、時にシャウトしながら力強く歌う、ブルースのフィーリング溢れる綾戸のボーカルは異彩を放っているように思えた。以来、綾戸に注目するようになり、発売されたCDを続けざまに買った程だ。For All We Know (1998/06/21)、Your Songs (1998/11/21)、Life (1999/05/21)、Friends (1999/10/21)、Love (2000/04/21) の5枚がそれだ。特に、Lifeは素晴らしい作品だと思う。日本のジャズ・シンガーの作品としては質の高いものだと今でも思っている。たとえ、Swing Journal 誌が意図的に評価しなくてもである。

 綾戸千絵がきっかけで、それまであまり聴いたことのなかった他の日本人シンガーの作品も聴いてみようと思い、購入したのがこの『ローマからの手紙』である。ケイコ・リーは若手No.1の実力派として有名だったのだ。ところが、ピアノの弾き語りというスタイルといい、収録曲といい、このアルバムが一連の綾戸千絵のアルバムを(特にLifeを)意識したものであることは明らかだった。綾戸のアルバムに収録されている曲が多く取り上げられ、綾戸との違いがはっきりわかるように制作されている。

 結論からいえば、私には明らかにケイコ・リーの勝ちのように思えた。歌の解釈が全然違うのだ。綾戸のボーカルは、ここでこう歌うのだろうなと予想したとおりに歌われる。強く激しく歌うのだろうと思うところでそのように歌い、シャウトするだろうなと思ったところでシャウトするのだ。その意味で期待を裏切らない歌唱だ。ところが、ケイコ・リーの歌唱はこちらが予想もしなかったように曲を料理して、このような解釈もあるのかとうならせる。しかも、それが一層曲を際立たせ、良さを引き出すような料理の仕方なのだ。綾戸のように唸り、シャウトするようなソウルは感じないが、太く低い声質で十分な声量があり、歌う技術がある。このアルバムを聴いて以来、私の中で綾戸が急速に翳っていった。綾戸のソウルは認めつつも、その歌唱を凡庸なものだと考えるようになってしまったのだ。

 結果的に私は、それ以来綾戸をほとんど聴かなくなってしまった。ケイコ・リーの戦略にまんまとのせられたわけである。先日、私の住む街に綾戸がやってきたが、私はコンサートに行かなかった。今でも時々聴くのはLife のみである(YOZORA NO NUKOU は好きだ)。

 ケイコ・リー『ローマからの手紙』の中には、日本のジャズ・ボーカルの女王の座をめぐる女の戦いがあったのだ。


世界史未履修問題

2006年10月27日 | つまらない雑談

 世界史未履修問題が話題になっている。もちろん良い事であるわけはないが、なぜ今頃になってという感じだ。地方ではこれまでにも報道されたことはあったが、大した大きな問題にはならなかった。今回、問題化したことについては、やや政治的な意図があるのでは、とかんぐることができないでもない。

 これまで報道されても大問題化しなかったので、学校側としても「公然の秘密」という面があったのではないか。実際、現在の学校は県教委や校長会から進学率のアップを強く求められ、校長以下先生方は大変だ。土日の課外授業や0時限目、7,8時限目は当たり前という感じだ。先生方の労働条件など論外。まさに何でもありの状況なのだ。今回の状況もそのような土壌があることを忘れてはならない。

 今回、世界史未履修が問題になっているが、世界史だけではないだろう(保健や家庭科、音楽・美術そして情報などで単位不足の問題も指摘されているようだ)。実際、数年前、山形県のある学校を視察した際、数学の時間に、受験科目として数学を使わない私大文系の志望者は別室で英語の授業をやっていると担当の先生が得意げに説明してくれた。帳簿上はもちろん、「数学」扱いだ。そんなことやっていいんですか、という私の愚かな質問に彼は、「まあね、いろいろね」などと微笑みながら語ってくれたのを思い出す。

 今回、岩手県で多くの高校の未履修問題が報道されている。データ的には岩手県の進学率の全国ランキングは下位だが、これは地理的要因や経済的要因による部分が大きく、実際は近年進学にかなり力を入れている。私の住む宮城県などよりはるかにだ。実際、県境近くに住む宮城の優秀な中学生は岩手県の高校に進学するものが多いのだ。

  報道によれば、私の住む宮城県でも未履修問題があることがわかった。仙台一高をはじめ、仙台三高、佐沼高校、古川高校、石巻好文館高校など最近きちがいじみた進学指導に躍起になっている高校ばかりだ。多くは「情報」の授業に他の教科の授業をやっている場合が多いようだ。学習指導要領はそれなりの(一方的で独善的な面は否めないと私は思うが)理念に基づいているわけだが、「進学」という「現実」に直面した時、保健や家庭科・音楽・美術・情報などは、はっきりいって邪魔な科目なのであろう。特に、新しくできた「情報」は邪魔な科目である。「情報」をいれることによって、他の科目の時間を削減しなければならないという「現実」に直面するからだ。文部科学省はIT時代に対応するという名目で「情報」を導入したわけだが、実際に授業で行われている内容は非常に低レベルなパソコンの操作方法なのだ。受験に必要な科目を削って、「情報」の授業をやることが現実的にはあまりに無駄で意味のないことだと教師たちのほとんどは考えているはずである。近年、教育界では上意下達の傾向が非常に強まり(それはあまりに従順な先生方に責任があるが……)、文部科学省も県教委も現場の実情からあまりに(本当にあまりにだ)乖離した理念や方策を押し付けてくる。今回の世界史未履修問題が学校側に原因があることは否定できないが、そろそろ文部科学省のあまりに現実と乖離した意味のない理念についしても批判する声があがるべきだろう。

 しかし、教員にそれは期待できない。組合も瀕死の状態で、教職員自身も牙を抜かれたイエスマンなのから。

 とさころで、学校が常軌を逸していることが否定すべくもないとしても、そういったことを要求・要望する生徒や父兄もどうかしている。最近、少し騒ぎたてれば゜学校は引き下がると思っている父兄が増えてきたが(実際すぐに引き下がる学校があるのはこまったことだ)、そういう土壌もあるのだろう。

 つづく


激高気質のフィル・ウッズ

2006年10月24日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 74●

Phil Woods     Alive And Well In Paris

2006 中山康樹ジャズの名盤入門』(講談社現代新書)という本で知ったのだが、あのビリー・ジョエルの名曲『素顔のままで(Just The Way You Are)』の中で、エモーショナルで哀愁を感じさせるサックスを吹いていたプレーヤーは、このフィル・ウッズだ。

 ジャズを聴き始めて20数年になるが、どういうわけかフィル・ウッズの作品を聴いたことがなかった。もちろん名前は見たことがあったし、文字を通じてどのようなプレーヤーかは情報としては知っていた。しかし、何故だかわからないが、レコードもCDも購入することなく今日まできたわけだ。一方、ビリー・ジョエルの『素顔のままで』は、個人的に思い入れの深い、想いでの曲であり、特に間奏の哀愁のサックスはずっと気になっていたのだ。

 我ながら不覚だった。ちょっと、調べればわかったものを……。前記の本でそのサックス・プレーヤーがフィル・ウッズだと知ったのはつい数ヶ月前のことである。そんなわけで、初めて手に入れたフィル・ウッズの作品がこの『フィル・ウッズ&ヨーロピアン・リズム・マシーン』である。

 しかし、活字では知っていたが、1曲目から何と直情的な演奏なのだろうか。誤解を恐れずにいえば、最初の一音から何か頭にカーッと血が上ったような吹き方だ。一階から一気に三十六階まで上っていくような気合の入り方だ。情熱のアルト吹きとか激高気質とかいわれるのも頷ける。さすが、チャーリー・パーカーに憧れ、パーカー亡き後、未亡人と結婚した男だけのことはある。

 二曲目(② Alive And Well)になって、さらにその思いは強まる。しかし、何という入り方だ。かっこいい。そう来なくっちゃ、これぞジャズだ。③ Freedom Jazz Dance の頃にはすっかりウッズの世界に引きずりこまれ、激しいアドリブの嵐の中で、知らぬ間に身体がリズムをキープしている。いつの間にか、最初に感じていた激高ウッズへの違和感は影をひそめ、アグレッシブなアドリブ演奏に共感さえ覚えていた。ゆっくりとしたテンポではじまる④ Stolen Moments でもアドリブ演奏の妙技はつづく。しかも音色が良い。力強く、張りのある、艶やかな音色だ。

 『素顔のままで』よ再び、という私の期待は裏切られた。ここには、『素顔のままで』の面影はほとんどない。彼は本来そういうプレイヤーではないのだろう。哀愁のバラードプレイなど求めるべきではないのかもしれない。それでも十分聴くに値する演奏である。別の意味でジャズの面白みを、あるいはジャズ本来の面白みを再認識させてる作品である。


ブライアン・ウィルソンのスマイル

2006年10月23日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 73●

Brian Wilson     Smile

Scan10004_6  ちょっと、すごい。手に入れたばかりのこのCDを今聴いている。驚きだ。興奮している。歴史に「もし」はないが、もし当時これと同じものが発表されていたなら、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を遥かに凌駕する作品として評価されていたのではないか。

 ビーチ・ボーイズのアルバム『スマイル』は本来、あの『ペットサウンズ』の次の作品として、1967年1月に発売予定だった。先行シングル「グッド・ヴァイブレーション」も米・英で1位の大ヒットとなり、期待は高まっていた。しかし、ブライアンの精神状態悪化のため、発売は幾度も延期され、ついに発売中止となった。録音された曲のいくつかは、その後、ビーチ・ボーイズのアルバムに分散して収められ、海賊盤として流出したものもあったが、断片的にわかるそのすばらしさから『スマイル』は幻の名盤と呼ばれるようになったわけだ。

 ブライアン・ウィルソン自身、『スマイル』を発表することができなかったことを非常に心残りにおもっていたらしく、それは彼のいくつかの発言からも知ることができる。数年前、(2004年のことだ)ブライアン・ウィルソンが強力なバックバンドを率いて当時のコンセプトで新たに録音しなおしたものがこのCDだ。ブライアンの声に若い頃の輝かしさはないが、バックの圧倒的なコーラスがそれを十分にカバーしている。これが1967年という年に発表されていたら大変なことになっていただろう。アルバム全体がトータルアルバムとして緻密に設計され、実験の精神に溢れている。以前このブログでも以前取り上げたアルバム『サーフズ・アップ』に収録された「サーフズ・アップ」が、アルバム全体の構成の中でこのような効果をもつ曲だったとはとは驚きだ。

 ビートルズの『ラバー・ソウル』に触発されてブライアンは『ペット・サウンズ』をつくり、その『ペット・サウンズ』に対抗してビートルズは1967年『サージェントペパーズ……』をつくった。もし、予定通り『スマイル』が発売されていたとしたら、1967年という年はポップミュージックにとってとんでもない年になっていたことだろう。

 ただ、ライナーノーツで萩原健太氏がいうように、1967年の『スマイル』とこのあたらしい『スマイル』がまったく同じものだったかどうかは疑問だ。全体のコンセプトは同じものだったのだろうが、曲順や若干のアレンジは変わったのだろう。そう考えるとやはり、1967年の『スマイル』が発売中止になってしまったのは残念だ。

 『スマイル』は永遠に幻の名盤のままなのかもしれない。

つづく

[以前の記事]

ペット・サウンズ

http://blog.goo.ne.jp/hiraizumikiyoshi/d/20061008

サーフズ・アップ

http://blog.goo.ne.jp/hiraizumikiyoshi/d/20061014

 

  


ソニー・ロリンズの「橋」

2006年10月22日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 72●

Sonny Rollins     The Bridge

Scan10003_4  ① God BlessThe Child がたまらなく好きだ。何というか「深遠」を感じる。コルトレーンとは異なり、ロリンズにしてはめずらしいことだ。あまりに才能がありすぎて、「深遠」とか「苦悩」とかの余分なものをその演奏から感じさせることはほとんどないのだ。彼が吹く音はそれ自体すでに美しい響きであり、流麗なアドリブはそれ自体が音楽である。そこには音楽だけがあり、余分なものは一切付随していない。

 しかし、彼自身に苦悩がないかといえば、もちろんそんなことはない。周知のように、ロリンズは絶頂期に3度も突然の引退(失踪)を行っている。才能がある人ゆえに、自己の演奏とセルフイメージとの乖離を感じると納得できなくなるのだろう。このアルバムは彼の2度目の引退の後に発表されたものだ。この時の引退は約2年間の長期に及び、ロリンズは真に納得できるサウンドを獲得するため、ウィリアムズバーグ・ブリッジの歩行者専用道路で空と川に向って求道者のような形相でただひたすらサックスを吹き続けていたという。すごい話だ(だからジャズはすごい)。

 『橋』には、その修行の面影を感じされる「深遠」さがあり、同時に何か吹っ切れたような音楽の喜びがある。そもそも『橋』というタイトルがいいではないか。単純な私は、前述の引退の逸話を考えた時、そのタイトルの素敵さに感涙むせぶ程である。

 ロリンズはほぼ同時期に活躍したジョン・コルトレーンとよく比較されるが、和田誠・村上春樹『ポートレート・イン・ジャズ』になかなかいい表現があるので引用しておきたい。「僕は思うのだけれど、ロリンズには『戦略』というものが基本的になかったのではないか。テナー・サックスを手にマイクに向って、曲を決めて、そのまま頭から見事に『脱構築』を成し遂げてしまう。これはやはり天才にしかできない所業だろう。コルトレーンはテキストをひとつひとつ積み上げて、階段を上るように、あくまで弁証法的にアナログ的に音楽を作りあげていった。」

 文系・ロリンズと理系・トレーンというわけだ。


フランソワ・ラバト

2006年10月20日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 71●

Francois Rabbath     

In A Sentimental Mood

Scan10003_3  「ヨーロッパ・ベース界のカリスマ、フランソワ・ラバトがひたすらスタンダード・メロディーを愛しんだ名盤」だそうである。帯の宣伝文句だ。こういう言い方はやめてもらいたい。何度も「再版」されたものならいざしらず、「初版」なのである。名盤かどうかは、長い年月をかけて世間が評価するものだ。発表されるや否や、自分で「名盤」というとはどうしたことだろう。近年、こういうあまりに度を超えた宣伝文句が目立つ。節度がなさすぎる。恥を知れといいたい。こういうことをやっていると、一時はCDが売れても、ジャズ界は衰退していくだろう。

 さて、内容である。全編コントラバスとピアノのデュオだが、ピアノはバッキングに徹している。「名盤」かどうかはわからないが、なかなかいい作品だと思う。重厚なサウンドだが、決して権威主義的なものではなく、しなやかな歌心にあふれている。思わず一緒に鼻歌を歌いたくなってしまうほどだ。録音もいいのか、アコースティックな雰囲気が際立っている。一曲一曲が短いのもいい。アドリブによる自己主張を極力排し、歌の心を響きによって表現しようという意図が読み取れる。

 ただ、実質的にコントラバスのソロのような演奏を延々と聴き続けるのは正直いってつらい。いくらよい曲、よいサウンド、よい演奏であっても、同じような傾向の演奏が53分41秒も続くのではさすがに辟易だ。

 ある程度のレベルのオーディオ・セットをもっている人には特に重宝な一枚である。


                    


浅川マキの世界

2006年10月17日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 70●

浅川マキ     MAKI(浅川マキの世界)

Scan10007_19  やはり、これはすごい作品なのではないか。聴けば聴くほどそう思えてならない。1970年作品だ。大きくみれば、70年代アンダーグラウンドのムーブメントが生んだ日本的ブルースということになるのだろう。日本的なじめじめした陰湿な土壌に生まれた時代性をもつのだが、聴けば聴くほど、陰湿さという感覚が立ち上がる以前の、意外にドライな感覚で作られた作品のような気がしてくる。頭でっかちで実験的な作品のようにも思うのだが、聴くほどに非常に素朴な感性に基づいた作品であることがわかってくる。

 演歌チックな旋律と歌いまわしだ。けれどもそれに嫌悪を感じることはない。不思議なことだ。演歌チックだが、歌の心は演歌をこえたところにあるように思えてならない。少なくとも、流行歌としての軟弱な演歌ではない。ややうがった見方をすれば、日本人の労働に根付いたネイティブな何ものかにかかわるように思えるから不思議だ。

 暗い作品だ。全体が暗いトーンに塗りつぶされている。けれども、よく聴くとこれが本当に暗いのだろうかと思ってしまう。むしろ、明るい/暗いという二項対立以前の感覚であるというべきなのではないか。歌が歌われるべきように歌い、表現されるべきように表現したという感じが拭い去れない。

 まったく、不思議なアルバムだ。 どの曲も不思議で興味深いが、やはり、⑥ 赤い橋、⑦ かもめ が出色だ。一度聴くや否や耳について離れない。インパクトの強い作品というべきなのだろう。

 若い世代に聴いてもらいたい。若い世代はどのように評価するのだろうか。1970年という時代にこのような作品が残されたことに、われわれ日本人はやはり驚きを感じると同時に、誇りをもつ必要がありそうだ。


ピンク・フロイドの狂気

2006年10月15日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 69●

Pink Floyd    

The Dark Side Of The Moon

Scan10012_12  The Dark Side Of The Moon を「狂気」と訳すセンスはなかなかいいと思う。月の裏側……。私ならもっと拡大解釈して、ニーチェにならって「善悪の彼岸」などと訳したいところだ。ちょっと、スノビッシュな発想だろうか。

 君は僕の中にある狂気を閉じ込めようとするが、そうはいかない / 僕の中に住み着いた僕でないものはもう動きはしない / 君だって僕たちのたたき出す異音を聞いてしまったら、異質な場所にたっている自分を発見するようになるだろう (⑨ Brain Damage

 ここで語られているのは、誰でもがもっている狂気の側面であり、それを狂気として排除する構造、すなわち自らが正常の側にたって狂気を異常として退ける心性や社会構造への懐疑である。

 渋谷陽一が『ロックミュージック進化論』(新潮文庫)で述べたように、「ロックとはもともと現実との違和感を徹底的に増幅し、そのひずみを音にしてきた音楽」である。そして、「その違和感を対象化し、原因をあらわにしていくのがプログレッシブ・ロックだった」といってよい。ところがピンク・フロイドはさらにすすんで、「ただ単に我々の存在の不幸と不条理を嘆くだけでなく、その不幸を乗り越える方法論を求めるべく、新しい表現領域に進んでいった」のである。それがより鮮明な形になったのがアルバム『アニマルズ』や『ザ・ウォール』であり、その中で彼らは(特にロジャー・ウォータースは)疎外論的な社会主義思想に接近していったのだ。この『狂気』はその出発点になったといっていいかもしれない。

 こんなことを書くと何か小難しい音楽のように見えるが、もちろんそんなことはない。非常に大衆的なつまりポップな側面をもっており、受け入れられ易いサウンドだと思う。1973年作品のこのアルバムが、それ以後ビルボードTOP200に15年間(850週)もチャートインし、日本においても並みいる歌謡曲のレコードを押しのけ、チャートの1位となったことはそのことをよくあらわしている。

 私がこのアルバムを最初に聴いたのは高校生の頃だったが、この作品のすごさに気づきに本当にハマッてしまったのは30代も後半を過ぎてからだ。若い頃はどうもその前衛性にだけとらわれ、トータルに感じ評価することができなかったのだ。その外見の前衛性に反して、非常に気持ちの良いサウンドであり、聴いていて落ち着くアルバムだと思う。何というか、人間の生理的なリズムに合致したサウンドなのだ。① Speak To Me の出だしの心臓の鼓動のような音を聴いて、初期の村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を想起するのは私だけではないだろう。ビートが心臓の鼓動に共振し、素直に音楽に同化することができる。サウンド全体が非常に安定しているように感じるのはそのためだろう。しかも、安定したサウンドではあるが、決して予定調和的なものではない。時折聴こえてくる「叫び」や「つぶやき」や「笑い声」は、人間的な生々しさを感じさせ、自分自身を揺さぶり覚醒させる効果をもつ。レジや時計の鐘の音などの挿入も一見前衛的に見えるが、決して奇をてらったものでなく、聴くものを覚醒させるという効果を十分に発揮していると思う。

 最初に聴いた高校生の時以来長い間く取り出すことはなく、レコードは埃をかぶっていたが、10年ほど前にたまたま乗り合わせた友人のカーステレオでかけてあったのを聴いて衝撃を受け、再び聴くようになった。今ではハイブリッドCDも購入し、しばしば再生装置のトレイにのるようになっている。ジャズを中心に聴くようになって20数年、ロックに対する興味はすっかり薄れてしまったが、このアルバムは別である。聴くたびに発見があり、インスパイアされる稀有な作品といっていいであろう。


袋小路……青春の太田裕美⑩

2006年10月14日 | 青春の太田裕美

2_15  太田裕美の3rdアルバム『心が風邪をひいた日』収録の「袋小路」……。隠れた人気曲だ。 

 暗い曲だ。けれども好きだ。松本隆による情景が目に浮かぶような映像的な詩が、荒井由美作曲の旋律によって言葉の輪郭がより鮮明になり、詩の意味を噛み締められるような構造になっている。 

  「椅子のきしみ」や「レモンスカッシュの冷たい汗」などの一見具体的でリアルな言葉がかえって全体の抽象度を高めている。 

  「もしどちらかにひとつまみでもやさしさがあったなら袋小路をぬけだせたのに」というところは、多くの人には心当たりのあることだろう。しかし、現在の若者たちを、例えば手を繋いで街を歩く高校生などをみていると、この歌詞のせつなさを理解できるだろうかと思ってしまう……。 

 この歌詞の主人公は男女関係がうまくいかなかったことを引きずって生きているわけだ。かつては、男女交際というものは、現在のように「気軽な」ものではなかった。人は傷つくことを恐れあるいは世間の目を気にして、簡単に積極的な行動を取れるわけではなかったのだ。秘められた「つのる想い」を胸に抱きながら生きていたのだ。人が積極的な行動に出るのは、ある条件のもとでそれを許された時か、想いがあるレベルを超えたときだったと思う。したがって、男女交際というものは、ある種特別のものであり、それが挫折した場合には深く傷つき、その傷を長く引きずったわけだ。 

 気軽に付き合う相手を変え、けろっとしている現代の多くの若者たちを見ると、正直ちょっとうらやましい気もする。けれど、もう一度今の時代に青春を送り、自分もそのようにしてみたいかと問われれば、否と答えるだろう。「秘められた想い」……。それが時代のつくった虚構であると知りつつも、やはりその時代に生きた私は、それが美しいと感じてしまう。


ビーチ・ボーイズのサーフズ・アップ

2006年10月14日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 68●

The Beach Boys   Surf's Up

Scan10008_15  村上春樹さんの近著『意味がなければスウィングはない』(文芸春秋,2005)所収の「ブライアン・ウイルソン ~カリフォルニア神話の喪失と再生」は、近年の卓越したブライアン・ウイルソン論あるいはビーチ・ボーイズ論だ。村上氏はこの文章の中で、「比較的取り上げられる機会の少ないアルバム」として1970年の『Sunflower 』と翌71年『Surf's Up 』を取り上げて論じているが、首肯すべき見解が多く含まれている。私にとってもこの2つのアルバムは思い入れの深い作品である。

 1970年の『Sunflower 』はすばらいし作品であったが、商業的にはまったくの失敗といってよかった。その深い失望の中で、もう一度再起をはかるべくリリースされたのがこのアルバム『Surf's Up 』だ。とはいっても、麻薬に侵され精神的混乱苦しむ天才ブライアン・ウィルソンの落胆は大きく、提供している楽曲もわずか数曲のみである。さらに、アルバムタイトルにもなった⑩ Surf's Up は、発売中止になった幻のアルバム『Smile』に収められる筈のものでり、ブライアンはこの曲を入れることに頑なに反対し、一方、他のメンバーたちも陰鬱な歌詞をもつブライアン作品⑨ 'Til A Die の収録に反対するなどブライアント他のメンバーたちの緊張関係は深まってしまった(村上氏前掲書)。

 にもかかわらず、『Surf's Up 』は魅力的な作品に仕上がっている。ブライアンの作品もさることながら、他のメンバーたちの楽曲が異彩を放っている。村上氏も注目する、グループの状況を象徴的に表すような歌詞を持つ① Don't Go Near The Water や優しく穏やかでメランコリックな歌いだしからはじまる② Long Promised Road 、そして誰もが認めるブルース・ジョンストンの名曲④ Disney Girl (1957) は痛々しいほど優しい旋律だ。他にも佳曲が揃っている。

 しかし、アルバム最後の⑩ Surf's Up は、特別だ。この曲が収録されるはずだった幻のアルバム『Smile』を聴いてみたいという想いがつのる。『Smile』のために録音された作品たちは、その後いくつかのビーチ・ボーイズの作品に分散されて収められ、またいくつかの海賊盤としても流出したようだが、私はそれらすべてを所有しているわけではない。数年前、ブライアン・ウィルソンの新作として、アルバム『Smile』がリリースされた。長い時間をかけて麻薬と精神的混乱から立ち直ったブライアンがを新たに録音しなおしたものだ。残念ながら、私はまだ聴いていないのだが、この文章を書きながら是非聴いてみたいと思いが強まってきた。いつか、このブログで取り上げることになるかもしれない。


パット・メセニー&ジム・ホール

2006年10月09日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 67●

Jim Hall & Pat Metheny

Scan10007_18  3連休も今日で終わりだ。今朝、73分57秒の長いこのアルバムをしばらくぶりに聴いた。嵐も過ぎ去り、天気の良いさわやかな朝だ。こんな朝にぴったりのアルバムだ。穏やかな気持ちになり、時間がゆっくりと流れていった。

年齢こそ大きく違うが、互いに尊敬の念を失わない2人のギタリストによる1998年録音盤だ。ジム・ホールはいわずと知れたジャズギターの巨匠、ジムを敬愛するパットの才能はいまや誰の目にも明らかだ。才能溢れる2人の競演ということでテクニックの応酬となる可能性だってあるわけだが、そうならないところがこの2人のすごいところだ。パット・メセニーは数種類のギターを使い分けカラフルなサウンドを志向するが、ジム・ホールの落ち着いたギターがサウンドに安定感を与えている。ギター・ワークは違っても「歌心」の部分では共通しており、安心してしかも心地よく聴くことができる作品である。

 アルバムタイトルはあえて2人の名前だけのシンプルなものにし、アメリカ盤にはライナーノーツもつけなかったということで、ジム・ホールの言によれば、「ふたりのギタリストが、ただ演奏しているだけ、そんな場面を浮かび上がらせたかったんだ」とのことである。


チャへリー・ヘイデン&ケニー・バロンのナイト・アンド・ザ・シティー

2006年10月09日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 66●

Charlie Haden / Kenny Barron     Night And The City

Scan10015_4  もう深夜だ。零時を過ぎてしまった。明日は休日だが、仕事がたくさんある。家族はもう寝静まった。

 深夜にひとり聴くアルバムである。帯にも「夜の都会に棲むメロディー」と書いてある。お洒落な宣伝文句だ。1996年のニューヨーク”イリディウム”でのライブ録音盤である。デュオ作品だ。

 チャーリー・へイデンのベースは、重く深く沈むような響きだが、サウンド全体はとてもリラックスした雰囲気だ。リラックスしてはいるが、もちろんいい加減な演奏ではない。2人の間の緊密な空気は十分伝わってくるし、旋律を奏でるケニー・バロンのピアノも優しく美しい調べだ。

 ケニー・バロンといえば、20年程前にサントリーホワイトのTVコマーシャルにロン・カーターが出演していたが、その時の音楽でピアノを弾いていた男だ。当時は、何と繊細なピアノなのだろうと思ったものだ。あのピアニストが数年後に、スタン・ゲッツと名演を残し、今日では「名人」のひとりに数えられるようになった。感慨深いものがある。

 デュオが好きな私は、以前からケニー・バロンにはデュオが似合うとかってに思い込んでいる。ドラムがないほうが、テンポが自由で、繊細なタッチがより生きると思うからであるが、いかがであろうか。ケニー・バロンには、もっともっと、デュオ作品を吹き込んでもらいたい。