WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ジャズ・ボーカルを教えてくれた人

2006年12月31日 | やや感傷的な随筆

 ずっと若い頃のことだが、ジャズ・ボーカルがどうしても好きになれなかった。楽器のジャズが大好きだったのにもかかわらずだ。時に退屈で、また時に嫌らしい生々しさが感じられるような気がしたのである。

 もう20年以上も前になるが、仕事の関係で愛知県に住んでいた頃のことだ。ふとしたことから、地方のある女子短大の助教授と知り合った。短大の助教授といっても、全国的には無名に近いその短大の経営は大変らしく、彼は学生獲得のための営業や定時制高校の非常勤講師の仕事までしていた。また、助教授といっても当時すでに結構な年で、私とは20歳以上も離れていたように思う。彼が短大でどういう立場にあるのか聞いたことはなかったが、楽な立場ではなかったのだろう。

 私は彼の誠実な人柄に魅了され、よく一緒に飲みにでかけたものだ。声楽が専門の彼は私によくこういった。「私は音楽の不良だ……」。若い頃、大学で声楽を専門的に学んでいた彼は、ジャズにのめり込み、ジャズ歌手を夢見てひとりアメリカにわたった。貧しい生活をしながら、チャンスを待ち修行にうちこんだらしいが、ようやくその芽が出始めた頃、親の病気のため、夢をあきらめて帰国してしまったのだという。そのことについては、今でも後悔の念があるようだった。彼の「私は音楽の不良だ……」ということばの中には、そういった自身への自嘲的な意味合いも含まれていたのだ。

 彼とはいろいろな話をした。会話はいつもジャズ・ボーカルに行き着き、彼はジャズ・ボーカルの嫌いな私を諭すように、その魅力を語って聞かせたものだ。「ボーカルは声という楽器で奏でられる音楽だ。けれどもそれは一番すばらしい楽器だ」と彼は繰り返し私に語った。彼はいくつものレコードを私に紹介し、何度かはコンサートへもつれていった。おかげで、その街に住んでいた3年の間に、私のボーカル嫌いは克服され、何となくだが、ジャズ・ボーカルの魅力がわかるようになった。

 私はその街をはなれ、東北地方に帰ってきたのだが、それ以来彼とはなかなか会う機会がない。ジャズ・ボーカルを抵抗なく楽しめるようになった私にとって、彼は恩人というべき存在である。彼ともっと多くの話をしたかったと、今改めて思う。エラやサラやカーメンについての話を、トニー・ベネットやジョニー・ハートマンや彼が好きだったメル・トーメについての話を……。

 


名前を忘れた先輩のこと

2006年04月30日 | やや感傷的な随筆

ジャズが好きだ。ジャズと出会ったのはもう20年以上も前だ。大学の同じ学科に通う先輩によくジャズ喫茶に誘われた。その先輩がなぜ僕を選んだのかはわからない。彼は週に2,3度は僕を誘った。大学は渋谷にあり、「音楽館」や「ジニアス」、「ジニアスⅡ」という店がわれわれの目的とする場所だった。嫌ではなかった。大学からジャズ喫茶までの道を歩きながら聞く彼の話は、僕にとってとても興味深いものだったし、僕は基本的にその先輩が嫌いではなかった。日本中世史についてのいろいろな知識(僕は日本中世史を学んでいた)、最近読んだ論文や史料のこと、学界の動向などが彼の話の内容だった。きっと僕はまじめなタイプだったのだろう。

けれどもジャズ喫茶というところはいただけなかった。耳にダメージを与えるほどに不必要な大きな音、アドリブという名の意味不明の旋律、自分だけがそれを理解しているといった鼻持ちならない客たちの雰囲気。僕にはまったく理解不能だった。ジャズ喫茶というものが存立しているということ自体が大きな疑問に感じられた程だ。僕は先輩の手前、まるで修行僧のようにじっとそれに耐え続けた。じっと、じっとだ。帰りの扉を開けたときの解放感と静寂はたまらないものだった。

ジャズは突然わかる。ある10月の昼さがり、神保町の古本屋街を歩き疲れ、僕は「響」というジャズ喫茶に入った。ぐったりとした気持ちだった。女の子のことや学問のこと、経済的なこと、僕はいくつかの精神的なトラブルを抱えていた。よくある話だ。この世界のあらゆる重石が乗りかかってきたような気がした。僕は硬いソファーに腰掛け、煙草をつけ、ビールを注文した。ビールが冷たかった。音楽が聞こえてきた。ART PEPPERGEORGE CABLESの『GOIN’HOME』。涙があふれてきた。なぜだか涙がとまらなかった。僕は周りの客に覚られないように涙をぬぐい、じっとそれを聴いた。優しくすべてを赦し、包み込むようなアルトやクラリネットの音色を、PEPPERCABLESが互いに会話するような旋律を、そしてその息づかいを。すべてが手に取るようにわかるような気がした。

それがジャズがわかったということなのかどうかはわからない。けれど、以来、ずっとジャズを聴き続けている。結構なお金と時間を費やしてきたように思う。そういう意味ではジャズという音楽を知ったことが良かったのかどうか疑問の余地はある。20年後、僕はジャズを聴き続けているだろうか。わからない。でもたぶん聞き続けているだろう。そのためのお金と時間を浪費しながら。大切なものを得るためには、何かを犠牲にしなければならない。

ところで、僕はその先輩の名前をどうしても思い出せない。僕にジャズを教えてくれた先輩。彼はある日突然、キャンパスから消え去ってしまった。噂では父親の町工場の経営が悪化し、大学を辞めたのだという。それ以来彼とはずっと会っていない。彼を探し出す方法もあったのかもしれないが、僕はそうはしなかった。そんな自分を、そして彼の名さえ思い出せない自分を、僕はときどき嫌な奴だと思うこともある。けれども、大切なことをどうしても思い出せないこともあるのだ、と今は思う。