WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

キラー・クイーン、がんばれタブチ!

2015年01月24日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 410●

Queen

Sheer Heart Attack

 クイーンが聴きたくなってCDを注文した。1974年リリースの『シアー・ハート・アタック』である。クイーンのレコードやカセットテープはたくさん持っているが、CDは『オペラ座の夜』のみだった。レコードプレーヤーも、カセットデッキも破損したままだったので、ずっと聴くことができなかったのだ。クイーンが聴きたくなって・・・と書いたが、正確には「ブライトン・ロック」が聴きたくなって、といった方が正確だ。「ブライトン・ロック」がクイーンの曲の中で一番好きだ。本当にご機嫌な曲だ。

 クイーンはやはりすごいバンドだったのだと思う。知的で、革新的で、実験的でありながら、聴く者を拒絶するような音楽ではない。ポップで、歌心に溢れている。もちろん、だからこそ売れたのであろう。ギター少年だった私は、クイーンを聴く時はいつも、ブライアン・メイのフレーズを追っていたものだ。けれど、追随できるギタリストではなかった。実際私は、ブライアン・メイの完全コピーなどしたことはないし、してみようという考えすらもったことはなかった。エリック・クラプトンがインタビューで、あなたに弾けないフレーズなどないでしょうといわれ、そんなことはない、例えばクイーンのギタリストだ、といったのをいまでもよく憶えている。フェイズシフターやディレイを駆使した複雑なサウンドは、それを前提にしたフレーズの構成と相まって、簡単にまねできるようなものではなかったし、40年以上経過した今日にあっても、圧倒的なオリジナリティーの光を放っている。クイーンとはそういうバンドだったのではないか。そのサウンドはあくまで鑑賞すべき対象だったのであり、ひとつの完結した世界だったのだ。「ブライトン・ロック」は、そのようなブライアン・メイのギター・サウンドのエッセンスが凝縮されたナンバーだと思う。

 ところで、「ブライトン・ロック」に続いて2曲目に収録されている「キラー・クイーン」である。ポップで、ギター・アンサンブルが魅力的な、全英2位に輝くヒット曲だ。もちろん、好きな曲だ。いい曲だと思う。この曲の、She's Killer Queen Gunpowder,gelatine いう部分について、大学時代の友人に「キラー・クイーン、がんばれタブチ」って聞えるんだよねといわれてショックを受けたことを昨日のように思い出す。このことは、当時は多くの人たちの間に流布していたようであるが、私にはまったく思いもかけなかったことだった。ある種の芸術性をもった崇高な存在と考えていたクイーンの世界と、漫画のタイトルであり流行語でもあった「がんばれタブチ」が並列的に並べられたことについて、純粋なショックを受けたものだ。それ以来、「キラー・クイーン」を聴くたびに「がんばれタブチ」が想起されるようになり、30年以上たった現在でもそれは変わらない。

 げに恐ろしきは大衆であり、民衆的世界である。

 


いいゲームだった

2014年12月29日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 398●

Ray Bryant

Ray Bryant Trio (Prestige7098)

 Winter Cup 2014をJ-sportsで見た。高校バスケットボールである。福岡大大濠(福岡)と明成(宮城)の決勝戦は、接戦で最後までどうなるかわからない、ある意味では偶然が作用したとも考えられる、僅差のいいゲームだった。中盤に終始劣勢に立たされながら、集中力を切らさなかった明成を褒めるべきだろう。けれども、本当に感動したゲームは、その前に行われた3位決定戦であった。市立船橋(千葉)と桜丘(愛知)のゲームである。卓越した能力の長身外国人留学生を中心に、優れたアウトサイドシューターをそろえた桜丘に対して、伝統校の市立船橋がどう戦いを挑むのかというところが見どころである。ゲームは第1~第3ピリオドまでは、基本的に桜丘の優勢であった。桜丘の得点シーンに比べて、市船のそれは多くの困難を強いられているように見えた。けれども、市船は過剰とも思えるようなアウトサイトシュートと長身留学生への執拗なディフェンスによって、何とかくらいついてゆく。第4ピリオドに入って疲れが見え、やや混乱したようにみえた桜丘に対して、市船がついに追いつき逆転するという展開になった。感動的だったのは市立船橋が見せたリバウンドへの執念である。特に、203cmの外国人留学生に対して、市船の185cmの⑦の選手が身体を張り、全身全霊で対抗していった姿は「魂」を感じさせるほどであった。市船には何の関係もない私であるが、熱いものがこみ上げ応援している自分を発見した。恐らくは、試合会場の観客の多くも、私と同じ気持ちだったに違いない。そういう観客席も味方につけ、市船の勝利があったのかもしれない。優勝した明成と僅か2点差のゲームを展開した福岡大大濠を相手に、準決勝で終了間際まで大接戦を演じたことを考えると、市立船橋にも展開によっては十分に優勝するチャンスがあったと考えるべきだろう。もちろん、試合結果というものは厳しいものであり、そのために日々練習に励んでいるのであろう。しかし、バスケットボールは、一本のシュートやリバウンドのある種の「偶然性」が接戦の勝敗を分けることのある競技である。その意味でも私は、市立船橋の選手たちにこころからの拍手を送りたい。

 今日の1枚は、レイ・ブライアントの1957年録音作品の『レイ・ブライアント・トリオ』である。アルバムタイトルは、通常、『レイ・ブライアント・トリオ』とされるが、「レイ・ブライアント・トリオ」は、アルバムタイトルなのか演奏者なのか迷ったりする。「Prestige 7098」というレコード番号がやたら大きく記されており、これがタイトルなのではと思ってしまうからだ。しかしまあ、アルバムの裏に大きく「RAY BRYANT TRIO」と記されているところをみると、やはり『レイ・ブライアント・トリオ』がアルバムタイトルでいいのかなとも思う。

 私は嫌いではない。いや好きだ。かなり好きかもしれない。ただ、一時期あまりに聴きすぎたせいか、ちょっと飽きちゃった感じもある。哀感漂う、日本人好みのアルバムであるといわれる。基本的にはその通りなのだと思う。しかしそれだけだろうか。何か一本、芯のようなものが通っているところがすごいのだと思う。音の輪郭は決して明快であるとは思わないが、演奏のコンセプトがしっかりとしているのではないか。それは、潔さや決断力といいかえることができるかもしれない。このアルバムについては、次の後藤雅洋氏の文章が的をついていると何となく思う。

マイナー名曲満載のブライアント代表作だが、同じ曲を他の人がやってもゼッタイこのしっとりした雰囲気は出てこない。心地よく歩みを進めるピアノのタッチが思いのほか重量級なのだ
(後藤雅洋『一生モノのジャズ名盤500』小学館101新書)


ローランド・カークの遺作

2012年08月14日 | 今日の一枚(Q-R)

☆今日の一枚 322☆

Rahsaan Roland Kirk

Boogie-Woogie String Along For Real

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 いやー、最高だ。心はウキウキ、ワクワク、ドキドキだ。なぜだか、頬が自然に微笑んでいるのが自分でもわかる。こういう作品は、私は手放しで「絶賛」してしまう。何の文句も不平もない。盲目のマルチリード奏者、ローランド・カークの「遺作」、『ブギ・ウギ・ストリング・アロング・フォー・リアル』、1977年の録音作品だ。

 私が持っているCDの帯の宣伝文句は、実に的確にこの作品を紹介しているのでここに掲載しよう。

「天才ローランド・カークの遺作。半身不随になりながらも、ブルース、ブギウギ、ホンキー・トンクといったトラディショナルなスタイルを基調に人間愛に満ちたスピリチュアルな世界を表現。愛と感動の大名盤。」

「スピリチュアル」などというと、最近では超常現象や神秘主義、またジャズ業界では歌心のない理解不能のフリージャズを意味するが、そんなことはまったくないのでご安心を・・・・。大変聴きやすく、実に楽しい、歌心溢れるアルバムである。「スピリチュアル」は「歌心」ぐらいに考えておくのが適当ではないか・・・・。

 CDの帯の裏側にはさらに具体的にこのアルバムを紹介した一文があるが、その中の一部には

「古いジャズの伝統的なスタイルをカークなりに再現してみせたタイトル曲をはじめ、カークならではの深いブルース・フィーリング、どす黒いソウルや、彼のユーモアセンスといったものがまるで玩具箱をひっくり返したように、さまざまに飛び出してくる大傑作盤。」

とある。実に的確な文章だ。


原発問題をめぐる言説

2011年05月05日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 311●

RC Succession

Covers

 

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 ほとんど毎日のように更新されていた《よく読むブログ》の 「JAZZを聴きながら」が、4月5日の「嘆きの鰹」という記事以来更新されていない。恐らくは福島の原発の問題と関係があるのだろう。心配だ。

 RCサクセションの1988年リリース作品『カヴァーズ』である。全篇ロック/ポップの名曲に日本語の歌詞をつけたカヴァーアルバムだ。反原発・反核の曲を含むことが問題となり、東芝EMIからの発売が中止されたことを憶えている。日本の原子炉サプライヤーでもある親会社の東芝から圧力がかかったためだ。この”汚い”話を知り、自分の住むこの日本社会に本当にがっかりしたものだ。もちろん、20代後半だった当時の私は、世の中がきれい事だけで成立していると考えるほどピュアではなかったが、現実にそのことを突きつけられてみると、やはりショックは大きかった。

 実際、この類の”汚い”話は他にもたくさんあるようだ。例えば、京都大学には「熊取6人組」と呼ばれる反原発の立場から今回のような大事故を警告し続けた学者たちがいたようだが、彼らは学会では冷や飯を食わされ続け、昇進や研究費などでもあからさまな差別を受けてきたらしい。優れた研究者でありながら万年助手に甘んじた彼らは、政府はもちろん新聞やテレビなどからも無視されづづけ、原発問題に関するマジョリティーは政府や電力会社と癒着した推進派の学者たちによって形成されてきたという。(詳しくは→こちら

     *     *     *

 ところで、思い返してみると、少なくともこの『カヴァーズ』がリリースされた1988年頃までは、社会の一部に、少数派ではあれ反原発を主張する人々が確かにあるポジションを占めていたのだということに妙な感慨をもつ。その後、バブル期を通して、我々の社会は豊かでポップな生活を求めるようになり、反原発の声はほとんどかき消され、「なんとなく賛成派」や「あえて触れない派」や「仕方ないんじゃない派」が多数を占めていった。原発をめぐる論争は留保され、人々は原発問題を考えることを回避するようになったように思う。「なんとなく反対派」だった私も、恐らくは、そのうちの一人だ。

 福島の原発問題で、我々は再びきちんと考えなければならない場所に立たされた。けれども、そうしようとするたび、これまでの原発をめぐる言説に違和感を感じてしまうのはどうしたことだろう。違和感とは、例えばこういうことだ。

  • 今朝も、被害者たちが東電社長に罵詈雑言を浴びせ、土下座させた映像がTVに映し出された。何か違う気がする。原発のために生活の場を奪われた被害者たちの気持ちは痛いほどわかる。しかし、原発誘致に賛成し、巨額の補助金の恩恵にあずかってきたのもまた、現在の被害者の人たちではなかったか。絶対安全といわれ騙されたのだという言い分もあろう。けれども、絶対安全なものに巨額の補助金を交付することはあろうはずもなく、そのことは地域の人たちも薄々認識していたはずだ。もちろん中には反対した人たちも少なからずいただろうが、地域社会全体としてはやはり賛成したのである。その意味では、特定の地域に原発を押しつけることを黙認してきた我々にも、日本国民として重い責任がある。それが民主主義というものだ。だから、「我々は誤った選択をし、大きな失敗をしてしまった。だからもう一度考え直そう。」、というスタンスが必要ではないか。
  • 原発論争がイデオロギー的な言説で語られてきたことも違和感を感じる原因のひとつだ。右=推進派、左=反対派という単純な図式が成り立ってしまう。私などは、純正右翼や保守派は、古き良き日本の自然と文化を守るため、原発には反対すべきだと思うのだが、現実にはそうではなかったようである。イデオロギーが先にあったため、推進/反対という結論が先にあり、具体的な議論・検討が十分になされなかった可能性がある。推進派が提示するデータも、耐震対策や災害時の復旧・賠償も含めたコスト計算をせず、原発は安全であるという前提で、その低コストを主張するものに過ぎなかった。きちんと議論する前提がなかったのである。また、政治イデオロギーと推進派/反対派がリンクしていたため、マルタ以降の冷戦終結後、論争そのものが「メルトダウン」していき、原発はすでにあるという”現実”だけが残ってしまったのではないか。原発を導入推進することで、日本社会がどう変わっていくのか/あるいはいかないのか、という真摯な議論が必要だった。
  • 東京都の石原知事は、それでもやはり原発は必要だと発言した。福島問題以降のアンチ原発の”ファシズム”の中、ある意味で勇気ある発言だと思う。しかし、やはり違和感を感じる。リスクを誰が負うのかという問題が欠落しているのだ。多くの論者が述べるように、現在の原発問題の大きなポイントは受益者とリスクを負う人々が食い違う点にある。「今回の事故にもかかわらず、原発は必要なのだ」という主張は十分ありうると思う。ただ、リスクを他に負わせ、安全な場所から発せられる言説は無効である。そういった議論は不毛だ。どんな言説にも責任というものが必要なのだ。このことこそ、都市の人々がこの問題をちゃんと考えてこなかった原因ではなかったか。石原都知事は、「原発は必要だ。だから東京につくる。」と語るべきだ。その時こそ、東京の人々も、自分の問題として真剣に考えはじめるだろう。リスクを負った上で、都市の人々が「それでも原発は必要だ」と主張するなら、少なくともひとつの意見として傾聴に値するのではなかろうか。多額の補助金を交付して地方も潤っているからいいのだ、などという言説はもう成り立たない。人間の命を金で買っているのと同様であり、石原氏も嫌悪する「我欲」の最たるものであろう。

 我々は、少なくとも、これまでとは別の観点から、もっと別のスタンスで、この原発をめぐる諸問題を考えなくてはならないのではなかろうか。

 


「ホヤ」の季節だ!

2010年05月05日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 265●

Ray Bryant

Ray Bryant Plays

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 もう春だ。私にとって、春は「ホヤ」の季節でもある。私の住む三陸海岸でも「ホヤ」が普通にスーパーに並ぶようになった。「ホヤ」はグリコーゲンが豊富で、海のパイナップルなどともいわれ、私の住む地方ではメジャーな食べ物であるが、他の地方ではほとんど知られておらず、大学生の頃にそのことを知って愕然としたものだ。私にとっては、この季節になると、どうしても食べたくなる食材のひとつだ。若い時分、愛知県で働いていた頃には、名古屋の市場でやせた「ホヤ」を見つけて買ったものの美味しくなく、どうしても美味い「ホヤ」を食べたくなって、新幹線料金を払って仙台までUターンで「ホヤ」を買いにやってきたこともある程だ。

 「ホヤ」を食べると、次に飲んだものに甘みがでてくる。昔、伊達の殿様が「ホヤ」を食した後に水を飲み、この名水はいったいどこの水だと聞いたというのは地元では有名な話だ。「ホヤ」を食しながら飲む日本酒は本当に美味い。私自身、現在のように日本酒にはまった理由のひとつは「ホヤ」にある。

 GWの最終日ということもあり、ゆっくり日本酒を飲みたいと考え、近所のスーパーで「ホヤ」を5つ買ってさばき、半分を実家におすそ分け、もう半分を日本酒の「おしばて」とした。「ホヤ」ももう1ケ88円になっており、本格的な「ホヤ」の季節である。今日の日本酒は、金紋両国の「福宿 無濾過原酒 あらばしり 吟醸酒」だ。地酒である。「ホヤ」とともに飲む酒はさすがにうまい。雑味が消し去られまろやかな風味になる。また、楽しみな季節がはじまる。

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 今日の2枚目である。レイ・ブライアントの1959年録音作品『レイ・ブライアント・プレイズ』である。原盤が超マイナーなレーベルSignatureだったため、かつては"幻の名盤"と呼ばれたらしいが、CD時代の近年はピアノトリオの定番として大人気を博している。いつも思うのだが、レイ・ブライアントの作品は、基本的に上品である。彼の演奏を聴くといつも「端正」ということばを思い出す。清く正しく美しくとまではいかないが、良くも悪くも下品なところがなく、ソフィストケートされている。それが退屈に感じることもあるが、無性に恋しくなり、じっくり聴きたくなることもある。私にとって、ピアノトリオといわれて、まず思い浮かべる「基本の」ピアニストの1人である。

 あまり休めなかったが、GW最後の夜だ。今夜はレイ・ブライアントの端正なピアノを聴きながら、「ホヤ」と日本酒をじっくり味わいたい。

 


こんなレッド・カーランドが好きだ!

2010年05月01日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 263●

Red Garland

When There Are Grey Skies

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 今日からGWである。いい天気だ。HCをつとめるバスケットボールチームの練習につきあわねばならないため、今年もゆっくり休めそうにない。最近、バスケットボールの練習に付き合うのが億劫になってきた。年のせいだろうか。思えば、週休2日になってだいぶたつが、休日をゆっくり過ごしたことなど数えるほどしかない。忙しい忙しいといっているうちが華なのだろうが、やはりもうそろそろ休日をゆっくりしたいなと考える今日この頃である。

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 レッド・ガーランドの1962年録音作品、『ホエン・ゼア・アー・グレイ・スカイズ』である。CDには、ボーナストラックとして⑦「私の青空」が収録されている。しっとりとしつつ、溌剌とした演奏で今日の天気にぴったりだ。ブルースフィーリング溢れる③「セント・ジェームス病院」の名演で名高いこのアルバムであるが、私が聴くのは①「ソニー・ボーイ」と⑥「誰も知らない私の悩み」である。静謐で、一音一音が繊細に、ゆっくりと奏でられるメロディーに身体が同化し、全身が脱力していくのがわかる。横になり、目を閉じて、音楽に身をゆだね、深く堕ちてゆきたい。

 こういうレッド・ガーランドは大好きだ。


チキン・スキン・ミュージック

2010年04月04日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 246●

Ry Cooder

Chicken Skin Music

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 昨日は、妻の妹の嫁ぎ先の母親のお通夜のため、車で2時間程の宮城県は多賀城まで行き、帰宅したのは10時過ぎであった。今日もこれから、火葬&告別式等に参加しなければならない。今日は丸一日かかりそうだ。浄土真宗の葬儀は、法名も葬儀自体も実に簡素かつシンプルなもので、なるほどと考えさせられることが多く、先日書店で少しだけ立ち読みした宗教学者の島田裕巳の著書『葬式は、要らない』(幻冬社新書)を思い出した。日本人の平均葬儀費用は231万円。で、イギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高く、浪費の国アメリカでさえ44万円なのだそうだ。

 ところで、先月の上旬に政治評論家の福岡政行氏の講演会を聞いた。なかなか楽しい講演会だったのだが、その中で福岡氏は今日入った最新情報ということで、来月のはじめ頃、新党が2つ誕生する見通しであると述べ、その1つを与謝野鉄幹・晶子の孫にあたる与謝野馨氏にらよるものだ、と「予言」されたのであるが、マスコミ報道によるとどうもその通りになりそうである。とすると、もうひとつの新党とはどのようなものであろうか。

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 今日の一枚は、ライ・クーダーの1976年作品、『チキン・スキン・ミュージック』だ。駄作の少ないライの作品の中でも傑作といわれることの多いものだ。ライ・クーダーは、ローリング・ストーンズなどのセッションマンとして出発し、「レット・イット・ブリード」や「ジャミング・ウィズ・エドワード」などでその名を知られるようになったミュージシャンであり、カントリー・ミュージックやフォーク・ミュージック、ブルースなどをベースに、そういう民俗音楽的なものに現代的な息吹を与えることに取り組んできた人だ。渋谷陽一氏は、「彼が古い曲を取り上げると、そこには現代的タッチがみられ、同時にオリジナル曲は、今書かれているにもかかわらず、何十年も前から歌い継がれているような感覚がある」(『ロック/ベスト・アルバム・セレクション』新潮文庫)と述べているが、まことに首肯できる見解である。また、細川真平氏などは、CDライナーノーツの中で、山口昌男氏の「中心と周縁」理論を引き合いに出し、ライの音楽を中心と周縁の交じり合いをめざしたものとして評価している。ちょっと考えすぎな「俗物的」発想だなどと思いつつも、まったく見当はずれではなさそうな気もする。

 ライ・クーダーの作品は、若い頃よりも年齢を重ねるごとに、その良さが理解できるようになってくるようだ。歳をとっても、昔の思い出ではなく、今のために聴くことができる数少ないアーティストである。チープなギターのテイストが何ともいえずいい。

 「チキン・スキン」とは、ハワイの言い方で「鳥肌」のことなのだそうだ。「鳥肌の立つ音楽」とでも訳すのだろうか。しかし、私には「鳥肌が立つ」というより、もっとじわじわと身体の細部にゆっくりとしみこんでくる音楽のように思える。

 


ロバート・ラカトシュというピアニスト

2009年01月07日 | 今日の一枚(Q-R)

◎今日の一枚 213◎

Robert Lakatos Trio

Never Let Me Go

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 今日の一枚も澤野工房盤だ。単なる偶然である。澤野工房盤にはまっているわけではない。ただ、澤野工房盤はたて続けに聴くことが多いような気がする。逆に長い期間ずっと聴かないこともある。まあ、それだけ似た傾向の音楽が多いということなのだろう。

 1975年生まれのハンガリーのピアニスト、ロバート・ラカトシュのピアノ・トリオ作『Never Let Me Go』、2006年の録音である。高校生の頃に栗本慎一郎の読者だった私などは、ブタペスト生まれと聞いただけで、ブタペストという地名に《過剰》な《幻想》を抱いてしまうわけだが、昨年の夏ごろだっただろうか、「澤野工房フェア」と題するダイレクトe-mail があり、次のような宣伝文句にいつものように「騙された」わけだ。

《 至福の夜へと誘う絶品のバラード。やわらかな灯り、香る薔薇の花束……約束された甘い時間(とき)。繊細を極めたLAKATOSのピアノが表現する深い美の世界をあなたに!本当に繊細に選ばれたソロの一音一音がテーマ・メロディの世界を鮮やかに表現し、テーマが美しければ美しいほど、ソロもまた美しい。もちろん、それはバラード演奏において最高度に結実す 》

「やわらかな灯り、香る薔薇の花束……約束された甘い時間(とき)」というところがよい。「至福の夜へと誘う」や「深い美の世界」などのことばもなかなかだ。いい歳をしてこんな言葉に幻惑され、悦に入っている自分がちょっと恥ずかしいが、まあいいだろう。シンプル(単純)でわかりやすい人間である方が生きやすいということもあるのだ……(自己正当化)。

 「騙されて」購入したわけだが、本当に騙されたかというとそうでもない。内容がなかなかどうして優れものだからだ。宣伝文句は確かに過剰なものだが、まったくの嘘ではない。ピアノは繊細でやわらかなタッチで奏でられ、ための効いたタイム感覚で紡ぎだされるメロディーもなかなかに耽美的で美しい。こういう「美しい」演奏はややもすると甘さに流され、「きれい系Jazz」に陥りがちだが、サイドメンの骨太なプレイが演奏全体にしっかりとした芯を与えているように思う。最近の作品なので録音もちろん良い。

 あるブログにあるように「キース・ジャレットやブラッド・メルドーのように独自の世界を持つ大器に違いありません」とはいいすぎだと思いながらも、⑧ Estate の深淵な闇の世界を垣間見るような耽美的な演奏に涙……だ。

 


ローディング・ゾーン

2008年01月21日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 210●

Roy Buchanan

Roading Zone

 

 1970年代のロックファンなら周知のように、ジェフ・ベックの『ギター殺人者の凱旋(Blow By Blow)』収録の名曲・名演「哀しみの恋人たち」は、《ロイ・ブキャナンに捧ぐ》とクレジットされている。中学生だった私が、ロイ・ブキャナンなどという凡そ中学生にとってはマイナーなミュージシャンを知ったのはそのためだ。

 ロイ・ブキャナンの1977作品『ローディング・ゾーン』。ロイ・ブキャナンの作品では、一番好きな作品であり、カセットテープが擦り切れる程聴いたアルバムである。輸入盤のCDを購入したのは最近のことだ。

 まったく、うまいロックギタリストである。味もある。ジェフ・ベックが影響を受けたのももっともだ。このアルバムを聴いて感じるのは、ベックのサウンドとの親近性である。ベックが影響を受けたのだから当然ともいえるが、しかしよく考えると、例えばベックの『Blow By Blow』は1975年の作品なのに対して、ロイのこのアルバムは1977年のものである。しかもサイドメンをよく見ると、ヤン・ハマーやスタンリー・クラークというクロスオーバー時代のベックと関係の深いミュージシャンの名前が記されている。えっ、まさか……。もしかして、このアルバムは、ジェフ・ベックに影響を与えたロイ・ブキャナンが、そのベックに触発されて制作したアルバムなのでは……?。

 ポップで軽快なテイストの③ The Circle が好きだ。ロイのギターが十分に表現された曲ではないが、曲の爽快なスピード感に魅了される。若い頃、自分で編集した高速道路運転用のカセットテープにも収録した記憶がある。作品の素晴らしさ、演奏の素晴らしさに感嘆しつつも、若い頃聴いたこの作品に接して脳裏を駆け巡るのは、ずっと昔の、このアルバムを繰り返し聴いた時代の情景ばかりだ。人間とは、あるいは音楽とはそのようなものなのだろうか……。

 

 

 


ウィー・フリー・キングス

2007年08月21日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 191●

Roland Kirk

We Free Kings

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  年のせいか、近頃、叙情的なものを聴く頻度が増えてきたような気がするのだが、それでも時々(というかしばしば)ハードなものを聴きたいという欲望が身体の奥のほうから湧き上がってくるのはなぜだろうか。ローランド・カークはそんな時に聴く演奏家の1人だ。そして、彼のサウンドを聴くと、必ずといっていいほど、いつも癒される。癒し系サウンドなどではない。やや大上段に構えて大げさにいえば、魂が癒されるのだ。はっきり言おう。もう、20年以上も前に熱狂的にはまったこの演奏家の音楽に、たまにしか聴かなくなった今も、身体のずっと奥のほうで細胞が熱狂している。

 ローランド・カークの1961年録音作品『ウィー・フリー・キングス』。決してハードな演奏ではない。カークとしてはかなり普通のジャズである。けれども、身体が熱くなる。身体の鼓動がビートに共鳴し、同化していくのがわかるのだ。いわゆる「スピリチュアル」な演奏などではないが、深いブルース・スピリットに裏打ちされたサウンドは、確かに心の奥底に響くものがある。いつものお得意の複数のリード楽器を同時に吹く奏法も全開である。むしろ、わかりやすい形で最良の効果を発揮しているといってもいいかもしれない。

 私は、ときどき、自分を回復したい時に、1人静かにローランド・カークを聴く。そのサウンドには、「過剰な」、そしてそれゆえに根源的な何かがある。精神のあるいは身体の奥底からドライブをかけてやってくるような何かがだ。俗物的な言い方をすれば、ローランド・カークは、私にとって、ジョルジュ・バタイユのいう「呪われた部分」に属する演奏家である。

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ルネ・ユルトルジェ

2007年07月03日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 175●

Rene Urtreger

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Watercolors0004_8  jazz in paris シリーズの一枚。フランスのピアニスト、ルネ・ユルトルジェの1955年録音盤、ルネの初リーダー作だ。

 フランス語とフランスのジャズに無知な私は、この輸入盤CDのタイトルを見てバド・パウエルの作品と勘違いして購入してしまった。早速聴いてみたがなんだかおかしい。確かにバド・パウエルっぽいのだが、何かピンとこない。何というか、軽いのだ。バド特有のうねりというか、ちょっとだけ黒っぽい部分が感じられない。パリに移り住んだバドは、こういうふうに変化したのだななどと勝手に思い込んだりもしていたのだが、フランス移住後のバドを勉強しなおそうとwebで検索していたら、何とこのアルバムはフランスのピアニスト、ルネ・ユルトルジェのバド・パウエル作品集だということがわかった。私は、『死刑台のエレベーター』のピアニストとしてルネ・ユルトルジェの名前は聞いたことがあったが、リーダー作を聴いたことがなかったので、そのスペリングをみても読めなかったわけだ。そもそも、ジャケ裏には明らかにバド・パウエルではない白人の写真があったのであり、本来その時点で気づくべきであったのだが……。

 バド・パウエルの作品ではなかったが、軽やかにスウィングするすっきりしたサウンドでなかなかいい。このアルバムは、かつてはピアノ・ファンが最後に捜し求める「超難の幻盤」といわれ、きれいなオリジナルの10インチ番は給料一か月分もするといわれたこともあったらしい。jazz in paris シリーズのこの盤は、オリジナル・ジャケットではないが、ピアノ・ファンが最後に捜し求める「超難の幻盤」などといわれると、それなりに感慨深いものがある。

 内容的に超名盤とは思わないが、収録時間の短さも幸いして、非常に聴きやすい作品だ。ここ数日、早起きしてする仕事のBGMとして重宝している。とてもさわやかなスウィング感だ。


こんなブルースが聴きたかった!

2007年04月11日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 153●

Rahsaan Roland Kirk

The Man Who Cried Fire

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 盲目のマルチ・リード奏者ローランド・カークの未発表ライブ音源を集めたもの。

 これはすごい。ずっと以前に購入し、一時期狂ったように聴いていたのだが、何故か忘れていた。ふとしたことがきっかけで10数年ぶりに再生装置にのせた。最高だ!こんなブルースが聴きたかった!① Slow Blues 、静かな暗闇の中からカークのサックスがひっそりと立ち上がってくる。あとは真性ブルースの世界だ。ブルースの洪水に浸りながら、心は、そして身体は、至福だ。私のためにつくられたレコードではないかと考えたくなるほどにお気に入りの一枚だ。

 カークは、テナーとアルトとバリトンを同時にくわえて吹いたり、フルートやマンゼロにもちかえたり、果てはホイッスルを鳴らしたり、あるいはこのアルバムでもそうであるように、楽器を吹きながら歌ったりすることすらあるので、キワモノ的な目で見られがちである。真面目なジャズ・ファンは、下品だと考えるかもしれない。しかし、これについてはすでに何度か引用した後藤雅洋氏の次の文章をあげれば十分であろう。

《 重要なのは、ローランド・カークの演奏技術が彼の音楽表現と不可分に結びついているということであり、決してテクニックのためのテクニックではないという点なのだ。その証拠にカークは、この奏法をのべつまくなしに披露するわけではなく、よく聴いていればわかるが、音楽的に必要と思われるところでしか使用することはない。…………ここで重要なのは、それが二人の演奏者がそれぞれテナーとマンゼロを吹いたのでは絶対に表すことができない表現力を獲得している点なのだ 》(『Jazz Of Paradise』Jicc出版局)

 実際、複数の楽器をハモらせるカークの演奏は不思議な響きをたたえている。

[以前の記事]

ドミノ

溢れ出る涙


浪漫

2006年12月13日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 98●

Rickie Lee Jones

Watercolors_1  毎日、4時か5時におきて仕事をする。もう10数年来の習慣だ。子供が小さい頃、自分の時間をつくるため、早い時間に寝かしつけ、朝早く起きることをはじめたのだ。今では夜遅いこともあるので、寝不足のこともあるが……。

 朝の自分の時間は至福の時間だ。家族が寝静まり、私は書斎で仕事をし、あるいは読書する。ボリュームを絞って聴く音楽も悪くない。音が小さいことによって、音楽の芯みたいなものが、感じられることもある。

 この10日程、ほとんど毎日のように朝の時間に聴くアルバムがある。リッキー・リー・ジョーンズの『浪漫』だ(1979年作品)。ちょと前に、時々みるブログ「朱音」さんが取り上げたのをみて、そういえばあったなと、ほんとうにしばらくぶりに思いだした。ずっと、カセットテープで聴いていたので(テープが伸びるほどだ)、思い切ってCDを購入した。

 なかなかいい。シンプルなサウンドの中からリッキー・リーの歌声が控えめで静かに浮かび上がってくる。早朝にボリュームを絞って聴くにはうってつけだ。

 リッキー・リー・ジョーンズの登場は、衝撃的ではなかったが、新鮮だった。それまでのシンガー・ソングライターが内省的でフォークやカントリーをベースにしていたのに対して、彼女のサウンドはジャズのテイストに溢れ、個性的でより自由に歌っているように感じたものだ。しかも、決してでしゃばらないバックのサウンドと、時に明るく、時にしっとりと、か細い声で歌うリッキー・リーのボーカルは、たいへん新鮮でさわやかさだった。そのお洒落なサウンドは、心の奥の柔らかな部分に届く何かをもっている。リッキー・リーの歌声は、我々に言葉ではなく、音楽のメッセージを確かに伝えてくれるのだ。

 70年代から80年代初頭には、こういう個性的で才能あふれるセンシティブな女の子たちが確かに存在したように思う。遠い昔を思い起こしながら、今朝もリッキー・リーを聴いた。


ミラノ・パリ・ニューヨーク

2006年12月10日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 97●

Sir Roland Hanna   

Milano , Paris , New York

Watercolors0003  エロチックなジャケット写真だ。ジャケット写真は好きだが、ローランド・ハナその人やこの作品の内容とどう関係があるのかは、まったく不明である。この女性は、なぜスカートをめくっているのだろうか。パンストを直しているのだろうか、それとも……。などと変なことを考えてしまいそうだ。まあいい、私は基本的にエッチなことは好きなのだ。

   Sir Roland Hanna (p) ,

   George Mraz(b) ,

   Lewis Nash(ds) ,

 ローランド・ハナの2002年録音盤だ。数年前発売と同時に、雑誌広告でこのジャケットを見てすぐに購入した。ライナーノーツによると、ローランド・ハナは、ニューヨークのクイーンズ大学のジャズ科で主任教授をつとめており、クラシック界の一流ピアニストにも匹敵するその演奏技術ゆえに、「ピアノの魔術師」の異名をとる男だ。

 さて、内容だが、むさすが「ピアノの魔術師」、うまい。一音一音がしっかりしおり、展開もなかなか面白い。ジャケットとは相反して、生真面目で、さわやかな演奏であり、エッチで隠微な雰囲気など微塵もない。ピアノは清く正しく美しく、そして滑らかで優しい。

 けれどもわたしの耳は、大好きなジョージ・ムラーツのベースに釘付けだ。やわらかいが、グーんと落ちるような、太くて深い音だ。決してでしゃばることはないが、音自体がしっかりとした自己主張をしている。ムラーツは職人気質だ。いわゆる「呪われた部分」の音楽家ではないかも知れないが、職人にしか到達できない深い境地を知っているような気がする。以前、何かの記事で書いたが、ジャズを聴き始めた頃、自分の気に入ったアルバムの多くがGeorge Mraz(b) であることを知り、大きな驚きをもったものだ。

 ムラーツは、1944年、チェコスロバキア生まれのベーシストだ。


溢れ出る涙

2006年11月12日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 83●

Rahsaan Roland Kirk    

The Inflated Tear

Scan10013_1  「溢れ出る涙」。ちょっと恥ずかしいが、私はこういう浪花節的な言葉に弱い。しかも盲目で半身不随の天才サックス奏者の演奏ときている。それだけで、聴く前から興奮してしまう。そして、① The Black And Crazy Blues を聴いた瞬間、興奮ははやくも頂点に達してしまう。感動的なブルースだ。The Black And Crazy Blues というタイトルがこれほどぴったりの演奏はなかろう。文字どうり、涙が溢れ出そうだ。そして⑤ The Inflated Tear の深い悲しみを背景したような不思議なハーモーニーの響き。単純な私は、そこに「人生」や「苦悩」や「情念」あるいは「孤独」や「悲哀」や「根源的な哀しみ」を見出そうとしてしまうのだが、本当はそんな陳腐な概念が吹き飛んでしまうような種類の独自の世界なのだと思う。

 1967年の録音盤だ。私のもっているのは輸入盤でオリジナルのものとジャケットが違うのだが、もう20数年間もこのCDを繰り返し聴いているので、新しい音のいいやつを買おうという気持ちがおきない。

 ところでちょっと話がそれるが、最近よく使っているBOSE社のWBS-1EXⅢというCDレシーバーだとこの古いCDがうまくかからないのである。CDが認識されず、再生できないのである。手軽に使え、しかも中音域が比較的鮮明で、結構気に入っているステレオ装置なのだが、残念である。BOSE社のこの製品についてはネットでもいくつかの不具合の報告があり、実際私のものにもいくつかの不具合があるが、この製品はなぜか突然生産中止になっており、BOSE社への不信感はつのるばかりである。CDの方も最近はやりのデジタル・リマスタリング24ビットとかのやつを買わねばならないかも知れない。

 以前、「ドミノ」について述べた時にも書いたのだが、後藤雅洋さんの「重要なのは、ローランド・カークの演奏技術が彼の音楽表現と不可分に結びついているということであり、決してテクニックのためのテクニックではないという点なのだ。その証拠にカークは、この奏法をのべつまくなしに披露するわけではなく、よく聴いていればわかるが、音楽的に必要と思われるところでしか使用することはない。…………ここで重要なのは、それが二人の演奏者がそれぞれテナーとマンゼロを吹いたのでは絶対に表すことができない表現力を獲得している点なのだ。」(『Jazz Of Paradise』Jicc出版局)というローランド・カークの演奏についての論評は、まったく至言である。彼の演奏は、他の誰とも違う独自の世界をもっている。そしてそれは、ジャズを聴きなれているとかそうでないとかにかかわらず、誰にでも一聴してわかるような種類の独自性である。 

 ローランド・カークは、私のフェイバリット・ミュージシャンのリストの中でも独自のまったく独自の位置を占めている。

[以前の記事]↓

Roland Kirk     Domino

http://blog.goo.ne.jp/hiraizumikiyoshi/d/20060826

BOSEはちょっとひどい!

http://blog.goo.ne.jp/hiraizumikiyoshi/d/20061008