下忍の地名は上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたことから忍城に対して下忍と呼ぶようになったという。
口碑によれば「下忍神社は昔久伊豆神社と呼ばれ、武蔵七党の一つ私市党(きさいとう)の氏神であった」という。新編武蔵風土記稿の記載には「久伊豆社、村の鎮守、明光寺持」とある。明治の神仏分離によって寺の管理を離れたが、合祀された高畑の琴平神社は明光寺の本山行田遍照院の金毘羅大明神で、海運神としての信仰を持ち合わせている。
琴平神社奉納の「新川早船絵馬」は明治6年の奉納で、市の指定文化財となっている。新川とは新川河岸のことで、荒川開削以降に開かれた忍藩の年貢米を運ぶ河岸として栄えたところで、鉄道開設によって大正期には消滅したという。絵馬には早川の様子と河岸問屋が描かれ、波頭が見事に表現されている。商売繁盛と海運安全を祈願して船運の信仰のある琴平神社に奉納した貴重な資料として価値があるという。
下忍は武家の村として古くから信仰心の厚い所として知られていたという。子供の内から天神講として祭典に参加し習字などを習わせたという。また伊勢講も盛んで一生に一度の大仕事として費用を熱心に積み立てたという。また講から帰ると伊勢講付き合として末永く続けることが多かったという。
忍藩武士の名残が連綿と続く土地柄であったことがうかがえる。