皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

行田市の原点 日本一の足袋産業

2017-10-19 21:19:53 | 生涯学習

行田市民大学9期生、第12回講座は行田市の足袋についてのお話でした。 
 仕事の都合で2回続けて欠席しており、同じ班の方にご心配頂きましたが、楽しみにしていた中島洋一先生の講義に参加することができました。
 先週の日曜日にスタートしたTBS日曜劇場『陸王』の舞台が行田の足袋屋となっており、全国的に注目が集まっているところです。ドラマの原作は池井戸潤氏。かつて同じ枠のドラマで『半沢直樹』、『ルーズベルト・ゲーム』と立て続けに高視聴率を残しています。第1回の放送は関東地区で14.3%との数字を残しています。堺正人は『半沢直樹』の中で、「やられたらやり返す、倍返しだ!」の名台詞で脚光を浴び、昨年の大河ドラマ『真田丸』でも主演を務めています。『陸王』の主人公「こはぜ屋」の四代目社長、宮沢を演じるのは役所広司。15年ぶりのTVドラマ主演で話題となっています。最近のイメージでは大和ハウスのCMが思い出されますが、ドラマ初回から熱い演技でとても盛り上がりました。
 ドラマのロケ演出で使われている工場の外観はイサミスクール工場で、現在も稼働しているそうです。また原作の構想で、足袋屋がシューズを造るという構想は池井戸潤氏のフィクションであり、また池井戸氏は行田の足袋のことを知らなかったといいます。さらに今年行田市は「和装文化の足元を支え続ける 足袋蔵のまち」として日本遺産に認定されていますが、これは本日講師を務められた中島洋一先生が十年以上かけて、NPO法人等の活動も交えて、足袋の歴史、足袋蔵の維持保存など文化伝統を語る物語として集約し、文化庁に認定されたものです。他にはないオンリーワンを見つけ活かし、発信してきた結果であり、ひと時の観光産業の喧騒に終わることなく、続いてほしい、そして何より地元の人にそうした歴史を知って欲しいと話していました。

 行田足袋の起源は江戸時代貞享年間(1688)までさかのぼります。写真は「享保年間行田町絵図」
三軒の足袋屋が記されています。
行田で足袋作りが盛んになった理由として
①材料の綿花の栽培が盛んであったこと
②近隣(羽生・熊谷)で藍染が盛んに行われ原料に困らなかった。
③城下町として栄え、需要があった
⓸中山道熊谷宿があり、行田もまた日光館林林道の宿場として販売が容易であった。
⑤足袋に株仲間がなく、取引が自由で販路が拡大できた。
などがあげられます。
また江戸時代の足袋作りの特長として、
ア)足袋はすべて手縫いで、生産は一人1日2~3足であった
イ)明治期の調査により、年間の生産量として行田町白足袋113,550足とあり江戸後期も同じ生産量だっと考えられる。
尚、足袋自体は日用品としての履物ではなく、し好品ぜいたく品の部類だったそうです。

明治になり廃藩置県が断行されたことは城下町行田にとって大打撃だったそうです。人口は9000人から7000人に激減し、町全体が衰退していく中で、「行田の渋沢栄一」とよばれる今津徳之助氏や橋本喜助氏らの尽力により、馬車道鉄道が整備され、行田電灯などの設立、小包郵便の取り扱い開始など、他地区に先駆けて産業復興する動きがあったと説明がありました。特に中島先生の話の中で、人口減は社会減と自然減の2種類があり、基本的な対策は社会減に対して雇用対策を講じるのが一番だということでした。いつも歴史家としての側面で話をしている印象ですが、やはり行政官としての強い一面を感じました。戦時下の軍需生産として軍服生産へと舵をきり、戦後ほどなくナイロン靴下の開発から、昭和29年量産が開始されると、足袋は急速に売れなくなり、商店も倒産が相次ぎました。このころ足袋蔵も建設も途絶え、商品倉庫としての役割もなくなり、休遊化していきます。
 その後繊維作業も衰退化し、平成19年には足袋商工協同組合は解散します。
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