皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

埼玉と東京の水を支えた見沼大用水、武蔵水路の歴史と役割

2022-10-20 21:33:43 | 生涯学習

行田市民大学同窓会令和四年10月講演会が開催されました。会場は行田市総合体育館グリーンアリーナ研修室です。市民大学を卒業後三年近く経とうとしていますが、自分のライフワークとして同窓会の企画研修委員を務めています。年二回の講演会を開催するのが主な役割で「生涯学習」を継続する貴重な機会となっています。


約80名の参加者がありました。前回まで渋沢栄一や塙保己一、荻野吟子といった人物にスポットを当てた公演が続いていましたが、今回は埼玉の治水事業というテーマで、井澤弥惣兵衛といった歴史的人物に加え、見沼大用水や武蔵水路の現在の役割といった環境問題にフォーカスした内容で講演を依頼しました。市民大学では郷土史と環境問題について学ぶ機会が多く、それに福祉の問題を加え、生涯学習の三大テーマとなっています。

世界灌漑施設遺産に認定される見沼大用水の歴史は古く、江戸時代まで遡ります。ところで世界灌漑遺産というのは現在123件あるそうですがそのうちの44件を日本が占めているそうです。豊臣秀吉の命により徳川家康が三河から関東に移封させられたのが1590年ころのことだったといいます。いわゆる徳川入府で、以来家康は江戸の町を整備するために様々な施策をしていきます。その役割を担ったのが関東代官頭であった伊奈備前守忠次です。江戸の町を水害から守るため利根川を東遷し、荒川を西遷する大事業を果たします。その目的は洪水対策加え、新田開発、水上交通の整備、奥州諸藩への備えであったそうです。またその治水技術は「関東流」と呼ばれる自然を生かす技法で、長野県千曲川見なられるような霞や遊水地を活用する技法でした。(河川の自然の流れを変えない)
時代が下って享保12年(1727)八代将軍吉宗は幕府の財政改革のため新田開発を推し進めます。見沼溜井の広大な地を干拓し、忍藩の利根川を取水口として武蔵北部から武蔵南部までの導水を開削する。その一大事業を担ったのが紀州から呼び出された井澤弥惣兵衛為永でした。吉宗に紀州時代から仕えていた為永に対する信頼は厚く、事業を開始したのは為永がすでに還暦を過ぎたころだったといいます。弥惣兵衛の用いた工法は「紀州流」と呼ばれる正確な測量を用いた技法で自然を生かすよりもむしろ人工的に制御するやり方で、河川の直線化を図り、用水と排水を分離し農地をさらに広める技法で非常に効率的であったといいます。

また丁場割という村請制度を用いて各村々に開削を競わせるなど、非常に短い工期で用水を完成させたそうです。また見沼通船堀と言って水深を利用した水路も備え、約200年にわたる水上交通の元を築きました。

現在利根川水系の水を利用する人の数は2750万人ともいわれます。一日に一人が使う水の量は約300リットルともいわれ家庭用風呂約1.5杯に相当するそうです。現在でも3年ごとに渇水が起こる状況で普段からの節水にが重要だとされます。

一方武蔵水路は昭和30年代の人口急増に際し東京の渇水対策として利根川通水を荒川に引くことで解決しようとした水路です。昭和39年の東京オリンピック前に通水させることを進めたのが河野一郎国務大臣でした。河野太郎大臣の祖父に当たります。それほど当時の東京が急発展し、環境の問題を抱えていたといことなのでしょう。
見沼大用水にしろ武蔵水路にしろ現在の取水口は行田市の利根大堰であり、まさに行田市は「水の始発駅」。命の水、地域の水、そして歴史の水として現在も多くの人々の暮らしを支えていることを初めて認識することができました。

利根大堰脇の元入り公園には井澤弥惣兵衛為永と水神である弁財天が石碑として並んで祀られています。
水の町行田の歴史を学びながら、これからの治水や環境問題に対して取り組んでいきたいと思います。



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