皿尾村にある泉蔵院は真言宗智山派の寺院で無量寿山阿弥陀寺と号す。創建に関する資料はないが、遍照院門徒として江戸初期には創建されたと考えられている。社家である我が家の菩提寺でもある。
古くから農村部として開けた皿尾村であるが、忍の沼尻に接し、治水に悩む土地柄であった。水を引く、排すともに苦労してきた歴史がある。明治期になると他地域に先駆けて煉瓦水門を設置し灌漑に利用してきたという。村の北側から外張堰、松原堰、堂前堰といった。泉蔵院墓地内に現在も堂前堰が残っている。忍川皿尾橋から百間ほどの所で、今でも台風などの大水の際はここ堂前までは水に浸ることがある。字名も「堂前」として残る。
社家である我が家の墓所には榊を植え、彼岸の折にはその葉を供えている。
皿尾村には御一新とまるまで村役割名主がいたという。竹内家といったそうだ。江戸後期には竹内露白という俳人を輩出している。辞世の句が墓碑に記されている。天保三年十二月二十八日没。享年七十.。墓碑は巨大なもので、行田市史下巻によれば忍領における文学墓碑ともいうべきものである。
すずしさや きままに旅は ゆき次第 露白
若き日の夏の日の旅路を詠んだものであろうか。旅路に履いた忍名産の足袋を掛けたものであろうか。
時の流れはむなしいもので、明治以降東京に出てしまったという竹内家の墓守はなく、現在一部の墓石は倒れたままになっている。移り変わる時世に身を置きながら村の歴史を伝えるとともに、今後こうした墓地の整理もしなければならないと思っている。
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