日本近代資本主義の父渋沢栄一翁の故郷深谷市。市の中心部には深谷城址が静かにたたずむ。深谷城は康正二年(1456)深谷上杉氏である上杉房憲が築いたと伝わる。鎌倉公方、古河公方との覇権争いに加え北武蔵の山の内、扇谷上杉の氏族の争いが絡み合って、争乱の歴史の中にあった。唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城であるという。低湿地の要塞と言えば忍城が思い浮かぶが利根川、荒川流域に近く平地でありながら水の恩恵を受けていたのだろう。天正十八年開城以降は寛永年間に酒井讃岐守忠勝が城主となり、同四年河越移封となり深谷城は廃城となっている(1634)
現在深谷城の遺構とされているのが城鎮守であった浅間神社周辺の外堀とされている。
浅間神社とされるが、内陣に収めた祝詞に「正一位智方大明神」と記されているように本来は智方神社であったという。明治初期の神社混迷期に富士浅間社と改めた歴史があるが、深谷城築城前から当地の氏神として祀られた千方神社であったという。
千方神社は北武蔵の加須、羽生領に多く見られ藤原千方を祀る神社である。藤原千方とは平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の六男に当たり、武勇と治世に優れた人物であったという。藤原秀郷は武蔵守に任じられ以降子孫は東国に繫栄している。その一つが下野の小山氏であり古代当地もその支配下にあったのだろう。
深谷城の祈願所として信仰された千方神社であったが、寛永十年(1634)の廃城以降は本住町の鎮守として祀られている。境内に天保十四年と安政三年の石灯篭が残り「部屋頭清五郎・佐吉」と記される。現在の町内頭に当たるという。
現在千方の名称は鎮座地の字名に深谷市大字深谷字知形のと残すのみである。
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