皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

静御前と思案橋

2017-09-22 21:45:22 | 史跡をめぐり

 下総国、古河に出向いて早半月あまり。彼岸を迎え、やや風習の違いも感じるようになりました。彼岸といえばおはぎ、北武蔵においては季節を問わずぼたもちと呼びますが、どうも店の認知度も低く、おはぎの売れ行きが芳しくありません。仕事のことはさておき、通勤途中毎日、静御前の石像の前を通っています。

 義経伝説は各地に記録が多いようですが、愛妾『静御前』についての資料は少ないとされます。義経を慕って鎌倉を出立し、奥州へ向かうとされていますが、その途中の伝承として、古河近辺が終焉の地として伝えられています。
 静御前の墓は栗橋にあるようですが、国道354号線沿い下辺見の地に義経の死を耳にし、橋の上で奥州行きを思案したという『思案橋』とともに静御前の像が建てられています。
やはり川や橋には見る人、渡る人のおもいが映り時を経ても伝わるものがあるように思います。
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長大と沖の天神②

2017-09-21 19:38:48 | 神社と歴史 忍領行田

 長大道とよばれた県道303号線皿尾、池上間の道は昔は今のように直線ではなく、くねった道であった。また長大道の並行して走る皿尾の旧駒形から池守に伸びる道は現在農免道路と言われ、古くは『行田道』と言われていた。道に沿って小川が流れていて、「ひろって」と呼んでいた。恐らく「尋手(ひろて)」であって手をひろげて伸ばしたくらいの川幅だったことに由来するのだとおもわれる。
 その小川に沿って行田道を行くと戦前には天神社があった。皿尾から星宮小学校まで通う子たちはこの天神様で一休みするのが常だった。田んぼの中の小島のような天神様だったので「沖の天神」と呼ばれていた。

 その昔、この天神社には一人の尼さんが住んでいた。行田道も、長大道も広い耕地を通る一本道であったことから、夜は暗く、寂しいみちであったことに違いない。いつしかこの道を一人歩くと「坊主」にされてしまうといふ噂が池守の村に広まった。
 ある青年が「そんな馬鹿なことはない、俺が試してやる」と言って、丑三つ時に仲間の後押しを背に、池守の家を出て一人かすかな月明りを頼りに行田道を駒形方面に歩いて行った。あたりはしんと静まり返り、ただ自分の足音だけがひたひたと聞こえてくる。左手奥には忍城の森が黒く見えるばかりだった。
 すると皿尾のほうから誰か歩いてくる気配がする。近くの大きな木に隠れ様子をうかがうと、人影は三十路ばかりの女であった。すぐそばには小川(ひろって)が流れていて、柳の木が茂っていた。柳の木の根元に杭が出ていて、女はその杭の頭に、小川の中から藻をすくってかけているではないか。幾度かかけるとなんと杭は「赤ん坊」になった。女は赤ん坊を抱きあげ、背負うと歩き出した。
 その青年は、「あの女は化け物に違いない、あるいは狐狸の仕業ではないか」と思い、木の陰から飛び出すと「やい、どこへ行く」と大声で叫ぶと、女は「親の病気を知らせに」と答えた。青年は、「ウソをつけ。俺は一部始終を見ていたんだ。化けの皮をはがせ」と女の肩に手をかけると、勢い余って女は転げ、赤ん坊は女の肩から落ちてしまい、頭を打って死んでしまった。
 女は泣きながら、「大事な赤ん坊を死なせては家には帰れない。かくなる上は、お奉行様に訴え出る」と言い出した。それを聞いた青年は、先ほど見たのは暗がりで見ていた自分の見間違えではないかと、初めて自分を疑った。赤子を殺した人殺しの罪なので、訴えられれば打ち首になってしまう。急に恐ろしくなってしまった青年は、「そうだ、お坊様になれば罪が消えるに違いない」ととっさに思いつき、近くの沖の天神に駆け込むと、尼さんに事の顛末を話して頭を丸め、僧にしてもらった。
 そのころ池守の仲間たちは、意気込んで出て行った青年がいつになっても帰らないので、夜明けを待って探しに出た。しかし行田道も長大道もなんの変りもなかった。もしやと思い、沖の天神に出向き「昨夜だれか来なかったか」と尋ねると、奥のほうに昨晩勇んで出かけた青年が、頭を丸めて神妙な面持ちで座っているではないか。
 この話は、池守中はおろか、近郷中に広まり、行田道を一人歩きするものはいなくなったといふことである・・・
「忍の行田の昔話」より
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長大道と沖の天神①

2017-09-20 21:22:58 | 神社と歴史 忍領行田
 
 県道303号線を行田市内忍、谷郷地区から皿尾地区を抜け、久伊豆大雷神社前を右折し、熊谷方面池守地区に抜ける道を長大道と呼びます。私が小学校五年生までこの道を通り、小学校に通いました。古くは妻沼道と呼ばれていたようです。
昔は現在のような直線道路ではなく、道幅は2間(3m60cm)であったようです。古くから星宮地区の幹線道路として使われていました。但し現在では小学校も移転し、通学路からは外れ歩道のないまた夜間外灯もない道ですので、この道を長大道と呼ぶ世代も少なくなりました。
 天文二十二年(1553年)、永禄三年にかけ、越後の上杉謙信は皿尾城を築き、(土を盛り)、忍城を攻めたが、落城させることはできませんでした。この忍城攻めにおいて上杉軍はこの長大道を利用したとされます。
 天正元年(1572年)太田金山城、由良刑部大輔成繁は娘を忍城、成田氏長に嫁がせ、二人の間に『甲斐姫』といふ娘ができたが、後に成田氏と由良氏は不仲となり、氏長の妻は甲斐姫を残して泣く泣く太田金山に帰ることとなった。この時も長大道を通ったとされる。
 天正十八年(1590年)忍城水攻めにも耐えた人々は城主氏長の命により、旧地熊谷市成田に落ちていった。この列が同じく長大道に続いていた。
忍領の歴史を映し出すこの道の途中に、小さな鳥居が立つことを知る地元の人も少なくなってしまった・・・・・。

〈奥に見えるのが現在の行田市立星宮小学校、左奥が行田グリーンアリーナ〉
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学びの先にあるものは

2017-09-14 21:21:06 | 生涯学習

第9期行田市民大学に入学し、半年が過ぎようどしている。2年の課程で早四分の一が終わった時期だ。何とか講義の半分以上は出席し、ゼミに当たるグループ研究の班の方ともすっかり馴染み、会うたび楽しく話ができるようになった。
 市民大学の基本理念は3つ。
『自ら学ぶこと』
『共に学ぶ仲間に出会うこと』
『学んだことを日々の暮らしや地域に生かすこと』
ちなみに母校忍中学校の校訓は『自治、共同、勤勉』だったように思う>
1人で黙々と調べ、研究することも必要だが、人と出会い、共に時間を過ごすことで人として幅が広がり、見識も磨かれる。

今日の講義を最後に同じ班の方が退学する旨を聞いた。とても残念で仕方なかったが、退学の手続きもし、また今日をもって退学する理由も班のみんなにしっかりと説明し、別れの挨拶もされていた。
 やめるときはひっそりと去る人が多い中で、縁あって仲間となった私たちに正直な気持ちを伝えていった。
学生にしても、社会人にしてもみなそれぞれ夢や希望を抱き、門出を迎える。訳あって方向転換する人も多い。かくいう私も社会人として3度転職している。学びの先に何があるのか。働く先の未来に何が待っているのか。
 ただ一つ、道は自分自身で決めるもの。そして自分で決めた道をしっかり歩くこと。

武井さん、短い間でしたが、ご一緒できてたのしかったです。
またどこかでお会いできることを楽しみにしています。
ありがとうございました。

 
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第9回講座は『老後のくらし』

2017-09-14 20:22:32 | 生涯学習

約2か月ぶりの行田市民大学の講座が開催され、テーマは『老後のくらし』ということで、市の職員の方から、現在における高齢化の状況と介護保険について講義を受けました。場所はものつくり大学校舎です。

行田市の人口は現在82262人でそのうち65歳以上の高齢者に当たる方は24134人。高齢化率29.3%です。他市との比較について質問しましたが、具体的な数字はお答えいただけませんでした。但し埼玉県の状況として、県南地域(東京圏)ほど低く、その他の地域が高い傾向だそうです。ある本で山間部を除く平地部で高齢化、単身化が進んでいるのはお隣羽生市であると読んだことがあります。不動産賃貸住宅で、問題が顕在化しているようでした。
行田地区においても、高齢化と空き家等の不動産の問題は状況的には似ているでしょう。ちなみに市内の100歳以上の高齢者は56人だそうです。
 どこの都市でも同じでしょうが、2025年団塊世代が75歳を超えてくる時期までに、高齢者福祉サービスを安定化することが課題だそうです。行田市においては『地域包括ケアシステム』を構築するべく、様々な取り組みがされていました。
 安心・安全情報キットとして、高齢者の医療情報、緊急連絡先などを記したシートをペットボトルに入れ自宅の冷蔵庫に入れておくことで、救急隊員が、有事の時にその情報を活用する取り組みなどが紹介されました。どの家庭も冷蔵庫は共通の生活必需品です。

だいぶ眠くなりましたが、介護保険制度についても細かく説明がありました。ただ漠然と40歳を過ぎると介護保険料がとられるとの認識でしたが、40歳から64歳の人も老化による特定疾病により日常生活の支援や介護が必要になった時には(例えばがん、脳血管疾患など)第2号被保険者として、介護サービスを受けることができます。介護認定の基準について説明がありませんでしたが、実際に市民大学の学生の中には、ご家族が特別養護老人ホームの空きを待っている家もあり、質問が絶えませんでした。行田市には現在7か所の介護老人福祉施設(=特別養護老人ホーム、略して特養
360名近くの入居待ちがあるそうです。

行田市における要介護認定者数は3542人で高齢者(65歳以上)における割合は15%だそうです。
しかし75歳以上においては5人に1人、80歳以上においては3人に1人が要介護認定を受けている状況です。40代半ばの自分にとってもそう遠くはない未来に介護サービスを受ける日が来ることを考え、準備する必要を感じます。
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