皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

小針 日枝神社

2018-09-25 17:21:36 | 神社と歴史 忍領行田
ギネス認定された田んぼアートを見渡す古代蓮の里の北側に、同じく水田に囲まるように鎮座する、小針の日枝神社。昭和30年代中頃までは、数百本の杉の大木が林立し、山王様の森と呼ばれていたが、いまは境内に数本を残すだけになっている。

境内まえは低湿地域で、かつては沼が広がり養魚がおこなわれ、その石碑も残っている。樹齢450年を越えた名木「舟着の松」もいまでは、切り株を残すだけになっている。御祭神は大山咋命。江戸の総氏神と呼ばれる東京千代田の日枝神社は太田道灌が川越から勧請したとされる。山王祭が有名だ。その川越の日枝神社は滋賀の日吉大社から勧請され、山王信仰の総本社とされる。神使は猿で小針の日枝神社の彫刻も猿が見られる。大山咋命の咋は杭という意味で山の神として祀られる。山の神の使いとして猿がいるのだろ。

小針の日枝神社がこの地に祀られた由来は残っていない。風土記稿の記載にもないという。口碑に鴻巣の三ツ木の山王社を分霊したという。縁結びの神として知られ、小針が男神、三ツ木の山王様が女神として伝えられ、女性が婿を探す時には小針へ、男性が嫁を探すには三ツ木へ祈願したという。
七月に獅子舞の奉納があり、騎西の玉敷神社へ獅子を借りにいくという。現在続いているかは不明だ。
天明六年(1786)から四年間石燈籠が続けて奉納されている。丁度天明の大飢饉の頃で神への願いが強まったのだろか。氏子の禁忌に麻を作らないとある。昔山王様が釣りに行って時に麻で目を突いたという。こうした禁忌は市内各地に残っている。御鎮守様は麻が嫌い、麻の着物は着ないという話だ。
またキュウリは切り口が神紋ににていることから輪切りにして食べてはならないという。キュウリの禁忌も北埼玉に多く残っているようだ。
こうした禁忌や口碑が伝えようとしたものはなんなのか、思いを馳せると益々地域の神社が奥深く感じられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

持田 剣神社

2018-09-25 11:29:48 | 神社と歴史 忍領行田

 持田は糯田とも書き地名の由来は黒糯などを植えるこえてない土地を意味していたとも伝わる。治承五年(1185)源頼朝が新田義貞に与えた下文に埼玉郡糯田郷とあり平安末期から鎌倉期にかけては既に村として開けていたことが分かる。

 日本武尊東征の折、この地で剣を杖にして暫く休んだことから宝剣を神体に祀ったことを起源としている。『風土記稿』によれば別当を真言宗長福寺が務めていたが神仏分離によって寺の管理を離れた。本殿は享保二十一年に改築、拝殿は宝暦八年に造営されたとされている。

江戸期から剣宮(つるぎのみや)と称し地元でもお剣様と呼ばれ鎮守とされている。春のお日待、八月の宵祭り等祭りも盛んに行われている。埼玉の神社によればフセギと称した疫病除けの行事が七月の田植え終わりに行われていたという。長福寺の護摩札を年番が受け取り防ぎ札として竹に挟んで村境三か所に立てる。戦前までは赤飯を炊き子供に配ったという。

明治期の賽神が境内東側に残る。道祖神は一般にサイノカミと呼ばれ道の神、また猿田彦を祀ることも多い。所謂導きの神だ。

諸説ある中でも元来、防賽の神として外から来る疫病や悪霊を村境や辻、橋などで入り込むことを防ぎ障る意味で死者と生者の境を司る神の意味があるという。古くからの共同体としての村を守る考えがあったのだろう。仏教の教えが入り交じり賽の河原で子供の霊が小石を積むという仏説から、道祖神の石碑の前に小石を積む習慣がが生まれたという。村の辻、橋などは人馬の往来も多く子供の集う遊び場となり子供に親しまれる神となったという。また旅人が脚を休めることから足の病に祈願するという。また群馬神奈川などの関東の一部や中部地方においては男女一対を配した双体道祖神と呼ばれるものが多いという。行田市内においては『塞神』と掘られた石碑のみが多い。

行田市内に剣神社は四社あるが社記に日本武尊の伝承が残るのは珍しく、御祭神にも日本武尊と並び草薙の剣を祀っている。現在の社殿は昭和三十六年に改築されたという。境内地の前は忍の中心から熊谷に抜ける旧道で、西に向かうと菅谷の八幡神社へと続いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

抑制する側される側

2018-09-20 19:48:02 | 生活
認知症を患う患者が救急搬送された場合、点滴治療の際針を抜いて暴れてしまう。治療と言えども患者の意志が確認取れず、抑制し必要な措置を取らなければならない場合、親族に抑制治療の同意書のサインを取る。
病院の現場はやはり大変な仕事だ。入院の手続きや緊急時の連絡先の確認など事務的な仕事も多い。小家族化が進み、連絡の取れない場合も多いという。個人の命と共に尊厳が守られるよう制度化されているのだろうが、いざ自分が当事者となって初めて現場の厳しさを知っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪曲輪御門跡

2018-09-20 08:17:42 | 行田史跡物語

東照宮の北側の入り口に立つ諏訪曲輪御門跡。本丸の北東を包む一大曲輪の北口として軍事上重要な御門であった。明治に入り下荒井の地より東照宮を遷し徳川家康画像を御神体とした。

もともと諏訪神社は忍城守護の神として持田村にあったものを、十五代成田親泰がこの地に遷している。東照宮も下荒井にあったものを忍城取り壊しの明治政府の命で遷したものだ。家康画像は四十二歳の壮年期の家康を描いたとされ、長女亀姫が駿府城にに訪れた際『何か欲しいものはないか』と尋ねられ『時々会いたくても会えないので家康の絵が欲しい』と答えた為画家に描かせて贈ったという。普段の平穏な家康を描いた生前唯一の画とされる。

 諏訪神社裏の土手は諏訪曲輪の名残で大木は忍城当時のものらしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡

2018-09-15 21:40:07 | 史跡をめぐり
関東の石舞台と呼ばれる八幡山古墳の入り口に万葉遺跡として歌碑が建てられている。行田市教育委員会の解説によれば、天平勝宝七年(755)防人を派遣する際、父母妻子との惜別の情を歌ったものが、万葉集に載せられているという。若小玉地区の神社や地名から、この地を藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年に歌碑が建てられている。現在は埼玉県の旧跡にしてされている。若小玉古墳郡は近年調査が進み古くは北大竹遺跡として旧石器から縄文にかけての土器などが出土し、古墳時代後半から、埼玉古墳の後を受け継ぐように、古墳が築かれるようになったとさる。関東地方においては、その頃古墳は小型化し、古墳の築造に対して政治的規制がかかったと考えられているが、この八幡山古墳は例外で、直径80メートルの巨大な円墳だ。この後地蔵塚古墳を最後に若小玉古墳郡でも、古墳の築造は終わりになり、
こうした解説板も近年の調査で新しくなっている。人気もなく散策していると、地元の管理人に呼び止められ、長々と話を聞かされてしまった。明日は地元若小玉勝呂神社のささら舞があるらしい。

「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」藤原部等母麿(足柄峠で袖を振ったならば、家に残った妻にもみえるのかなあ)
「色深く せなが衣は 染めましを まさかたばらば まさやかにみむ」物部刀自売
(もっと色を濃く衣を染めれば良かった。足柄の坂を通ったら、はっきり見えたであろうに)
別れを惜しんだ儚い夫婦の歌だ。互いを思う気持ちが今の世になっても伝わる様だ。
工業団地に残る八幡山古墳。調査が進み遺跡の様子が明らかになってきた北大竹遺跡。そうした歴史遺産よりも、人が人を思う歌が歌碑として残り、今に伝わること。その方に気持ちが傾くのは、時代が流れても変わらないものだと感じている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする