皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

弘法大師と片萎竹(かたしなびたけ)

2018-09-15 20:17:34 | 郷土散策

 行田市指定記念物「片萎竹」は市内藤原町の民家にひっそりと残っている。不思議な竹で節間にできる縦じわと平滑な部分とが半分ずつ節ごとに交互にできるマダケの変種とされている。『かたしなびたけ』と読むそうだ。
『忍の行田の昔話』『忍名所図絵』にこのしなび竹にまつわる逸話が記されている。
 その昔弘法大師が若小玉の地を廻っていた際、歩き疲れふと見ると丘に竹林があった。農家の与八という男の家で大師は立ち寄り杖にと竹を所望した。ただの旅の坊主と思った与八は「家の山の竹は細く萎びているので杖にはなりません」と断ってしまった。すると翌年からは生えてくる竹すべてが細く萎びていて、丘そのものも平地になってしまったという。
 弘法大師はその後同じ村の千歳というものに同じく竹の杖を所望したところ、千歳は快く応じ、竹を切って差し上げたところ、大師は喜んで和歌残して去ったという。「しなび竹、色青く常の竹に変わることなし。俗にいう真竹なり。たとえば今年生えた竹を七月八月頃切りて乾かしたるがごとし」とあり一節おきに曲がっているので困った竹だといわれている。

その後成田村龍淵寺の指月上人という住職が弘法大師の跡を慕って千歳の宅を訪れ大師に倣って和歌を納めたという。
 とにかくに おもうようには なよ竹の
  ゆがまはゆかめ 人の世の中
(ゆがまはゆまめとは『そうはいかないよ』との意味)
思うにならない世の中で生きる意味を示しているように思う。
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谷郷 春日神社②

2018-09-13 21:21:52 | 神社と歴史 忍領行田
「埼玉の神社」「忍の行田の昔話」には春日神社の鹿にまつわる不思議な逸話が記されている。
宝暦十二年(1762)の四月、青木某という者が畑仕事をしていると、いつものように春日様の鹿がやってきた。「秋の実りでもお願いしようと」手を差しのべると、鹿はさっと避けて逃げてしまう。青木はむきになって、鹿の行方を塞ごうと手にした鋤を鹿の鼻先に放り投げた。鋤は鹿の足に当たり、血を流しながら春日様の森に逃げ込んだ。
翌日、村人が鹿が死んでいるのを見つけ、手厚く葬り墓石を建てた。
その後青木方に強盗が押し入り乱暴な青木はその賊と戦った。賊は恐れをなして逃げ出すと、青木は刀を持って追いかけると、小川を飛び越える途中、はずみで自分の脇腹を刺してしまう。そして苦しみながら死んでしまった。
不思議にも死んでいた場所が鹿の傷付いた所と同じであっことから、村人は鹿を殺した神罰だと語り合い、奈良からの鹿も来なくなったという。
鹿社の祠には、宝暦十二年と刻まれている。写真の鹿社の社殿は昭和59に建てられているが、それまでは祠が本殿後ろに隠れるようにあったらしい。
この逸話を読んでいて妙な違和感を覚える点がある。鹿殺しの者の名前が何度も何度も繰り返し記されていること。しかも家名である名字「青木」が強調され、下の名は某とされていること。逸話や伝承において村人や旅人、娘や兄弟と言った個人が特定されない表現が多い。巡礼の母娘が人柱にされたり、枝を持ち帰った村人が死んでしまったり。
物語として、奈良からの鹿が来なくなった理由を、隣村の青木家を誹謗する話として作り上げたのではないかと思う。水利の問題など隣村同士の争いのあった時代。鹿殺しの罪人がもし地元の村人であれば、ある男が、或いは若者、老人、二郎が、などと言った表現になると思われる。これだけ神罰が下ったとされる罪人を家名で記す理由は、相手の家やその地域を貶める何らかの訳があったのだろう。
鹿はいなくなったが、今なお残る神楽殿で夏祭りの催しが盛大に行われる様だ。逸話伝承が伝えんとすることを読み解いて行くことは地域の歴史を知ることに他ならない。
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谷郷 春日神社①

2018-09-13 17:39:11 | 神社と歴史 忍領行田
成田十五代当主下総守親泰は、成田家の氏神として大和の春日大社から春日神社を勧請している。親泰は、文明年間に児玉重行が居城する忍城を攻めて、児玉氏を追い出し本拠を成田館から忍城に移したとされている。神社の創建もその頃で社の裏の森には大樋が設けられ、これを閉めると忍城の堀と沼の水源が断たれ、佐間の天神社の沼尻の樋を開ければ同じく城廻りの水は干上がるようになっていた。よってこの地は忍城の水の要として重要な所で、成田氏の重臣正木丹波守が邸宅を構えて、城を守護していたという。現在住宅地が立ち並ぶようになったが、神社北側には農地が広がり、元荒川用水の排水が神社前を通り忍川へと流れている。
御祭神は武甕槌命、斎主命、天児屋根命、比売神の春日四神。春日の神使は鹿で成田氏が藤原氏の家柄であったことから、勧請以来毎年二頭の神鹿が春日大社から贈られてきたという。村人は神の使いとしてその鹿を大切に育てたという。今でも御鹿社が境内の一番奥に摂社として祀られている。ところがその鹿はある事件がもとで、来なくなってしまったことが、逸話として残っている。(続)
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十日の菊、六日の菖蒲

2018-09-10 22:28:54 | 心は言葉に包まれて

九月に入り一日、一日と足早に過ぎてゆく。昨日九月九日は重陽の節句。五節句の一つで菊を用いて不老長寿を願うことから菊の節句と呼ばれる。菊は天皇家の紋章。旧暦の九月九日は新暦の十月中頃でまさに菊の美しい季節。時期がずれたためあまり馴染みがないが、古来縁起の良い奇数の重なりの日を祝った五節句においては最も運気の良い日とされたらしい。
 そんな菊の節句が過ぎた今日十日に菊の花を用意することを『十日の菊』、同じく端午の節句五月五日を過ぎて菖蒲を用意する様を『六日の菖蒲』といって、時期に遅れてしまって役に立たないことのたとえとする。類義語は『後の祭り』。
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忍城 成田御門跡

2018-09-10 20:15:15 | 行田史跡物語

行田市立中央小学校の西門入口にある成田御門跡。忍城三の丸入り口には南に面した立派な門があったという。『成田記』によれば忍城は始め亀城と呼ばれていたという。城の周囲の沼には亀が非常に多くいて、亀は縁起が良く喜ばれたのでその名がついたという。亀城がいつから忍城に転じたのかは定かでないが、成田氏入城の頃には忍城となっていたという。
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