皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

兼職とジレンマと

2018-09-07 23:06:40 | 心は言葉に包まれて
どちらを選んでも矛盾や不都合が生まれ悩むこと。ジレンマはギリシャ語らしい。よく耳にはするが、自分ではあまり使わない言葉だ。道理で漢字が当たらないはずだ。
サラリーマンも副業が認めらる時代。結局はどっちつかずで中途半端になることも多いだろう。本格的に自分自身兼職になって10年以上経つ。悩み、不安、そしてジレンマ。抱えても、手放しても、尽きることはないように思う。ならば今日一日を大切に過ごす。そういうことの繰り返しであれば良いと思う。
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市民大学 北武蔵紀行

2018-09-06 18:17:56 | 生涯学習
暑さ寒さも彼岸までと言いますが、9月上旬台風一過で夏日となった今日は、行田市民大学歴史文化班の課外活動として、北武蔵の神社りをしました。夏休み前から予定を立て、メンバー全員参加のもと、加須、大利根の神社を伝承を元に巡ることができました。加須市外野の川圦神社です。水難による人柱伝承が元に勧請された神社です。加須市子供未来館の側にあります。
大利根砂原の鷲神社です。同じく利根川決壊に際して人柱が立ったという話が伝わります。その霊を慰めるため本殿裏に弁財天が祀られています。人柱となった巡礼の娘は、白蛇になったといい、今でも好物の卵が奉納されるようです。
帰路に当たって騎西の玉敷神社に参拝しました。平成最後の大改修を行っていて、神楽殿では茅葺きの葺き替えがされています。
一日お付き合い頂いたメンバーの皆さん誠にありがとうございました。
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忍の時鐘櫓跡

2018-09-03 21:52:02 | 行田史跡物語

 九月に入り、幾分暑さも和らぎましたが台風も近づく中昼間は蒸し暑さを感じます。長かった夏休みも終わり、今日から子供たちも学校へ通うようになり普段の生活が戻りました。部活の練習に行くと言って学校まで送り届けた途中、市役所裏の忍の時鐘櫓跡に目が留まります。
 現在忍城の時鐘は市の指定文化財となり、郷土博物館に展示されていますが、元あった場所に初めて気づきます。鐘自体は博物館の常設展示室の脇で見ることができます。松平忠雅が山形より備後福山(広島県)を経て桑名へと入封後、安住の記念として享保二年(1717)に作られたとされていますが、宝暦の大火で割れてしまい、子の松平忠刻が宝暦十四年(1764)に再鋳したとされます。
 
松平氏の祖忠明は幼少期に家康の養子となり、その家柄は御三家に準じたものとされています。また松平忠明の実母は家康の嫡女亀姫で家康の孫にもあたるのです。
 文政六年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴い忍城へ移されたその鐘は、郷土史家清水雪翁の著書「北武八志」に「忍城にありて日々時を報する者即ち是なり」と記されています。
桑名から移される際は桑名港から海路東京湾へ、江戸からは利根川を上って酒巻に着いたとされます。慶応四年には維新の急変の一報を「藩士集合せよ」と乱打されました。明治6年新政府は東京に一番近い親藩との理由から忍城の建物一切の取り壊しを命じ、櫓は無くなりましたが鐘は東照宮、進修官小学校、忍高女学校と場所を移しながら行田の町に時を知らせる鐘として打ち鳴らされました。
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