(1)「神奈川新聞」の「時代の正体」シリーズについて、記事が偏っているという批判に対して、「偏っていますが、何か」と応える論考を石橋学・同紙報道部次長が書いたのは、2015年10月のことだった。
一つの論は、立場や考えが違えば偏って受けとめられるのは当然で、政権の悪口ばかり書くなと言うなら、ジャーナリズムの役割なのだから止めるわけにはいかない、そして、民主主義にとって大切なのは多様性であると、石橋次長は続けた。
「だから空気など読まない。忖度しない。おもねらない。孤立を恐れず、むしろ誇る。偏っているという批判に『ええ、偏っていますが、何か』と答える。そして、私が偏っていることが結果的に、あなたが誰かを偏っていると批判する権利を守ることになるんですよ、と言い添える」
平たく言えば、偏向批判とは、
「おまえの言っていることは気に入らない」
と言っているにすぎず、ためにする批判なのだから取り合う必要はない。だから、記者は思うところを書いていけばよい。・・・・「偏っていますが、何か」は、記者たちが自分たち自身に向けた戒めのメッセージでもあった。
(2)両論併記の体裁にこだわるメディアの「中立病」が言われる。空疎な論さえも同じ土俵に引っ張り上げて、結果、「お前の言っていることは気に入らない」が、さも真っ当な意見であるかのように仕立て上げられていく。
批判を恐れ、中立という隠れ蓑に逃げ込む保身にとどまらない問題がそこにはある。
(3)偏ることの大切さを強調するのは、ヘイトスピーチ取材の継続と無縁ではない。
川崎で繰り返されるヘイトデモの被害にさらされている在日3世の崔江以子(チエカンイヂャ)氏(42歳)が国会の参考人意見陳述で訴えたのも「偏ってほしい」だった。
「差別に中立はない。中立とは放置すること。国にも差別をなくす側に一緒に立ってほしい」
それは、
・人間の存在を否定する人権侵害を前にしてなお、表現の自由を絶対視し、規制に慎重論を唱えるメディア、
・あるいはネット右翼の攻撃にさらされることを恐れ、報じることもないジャーナリズムの姿勢
に向けられたものでもあるに違いなかった。
(4)ヘイトスピーチ解消法は、2016年5月24日に成立し、6月5日、川崎市における差別主義者のデモは中止に追い込まれた。抗議のカウンター市民が車道に体を横たえるシットインを敢行し、行く手を阻んだ結果だった。
人権侵害を未然に防ごうとする社会の良識は、ここに示された。
しかし、一部メディアは喧噪を目の当たりにした通行人の「反対する人も冷静になれないものか」「いがみ合って怖い」というコメントを紹介し、ここでも両論併記の体をとろうとしていた。それは、あたかも抗議する側の人にも問題があり、差別する側にも理があるかのような印象を与える記事になっていた。
(5)この「どっちもどっち」という態度が差別を温存し、ヘイトスピーチが街中で横行する事態を招く一因になった。
差別主義者たちのデモは、目的が政治的主張にあるのではなく、実際は「朝鮮人をたたき出せ」のシュプレヒコールがなされるのだから、
「在日コリアンをおとしめ、殺害まであおるヘイトデモ」
と書く。「在日特権を許さない市民の会」は、名称自体がデマを拡散させるものだから、「市民団体」ではなく
「人種差別団体」
と書く。偏るとは自ら思考し、判断することだ。有効で説得力を持った批判はそこからしか始まらない。
(6)時の権力が批判を封じるためにメディアをコントロールしようとするのは、いまに始まった話ではない。
統制される側の、批判することを放棄する思考停止にこそ、問題の本質がある。
□石橋学(「神奈川新聞」報道部次長)「ヘイトスピーチの取材を続けて 「偏っていますが、何か」 ~安倍政権と言論統制:新聞~」(「週刊金曜日」2016年6月17日号)
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一つの論は、立場や考えが違えば偏って受けとめられるのは当然で、政権の悪口ばかり書くなと言うなら、ジャーナリズムの役割なのだから止めるわけにはいかない、そして、民主主義にとって大切なのは多様性であると、石橋次長は続けた。
「だから空気など読まない。忖度しない。おもねらない。孤立を恐れず、むしろ誇る。偏っているという批判に『ええ、偏っていますが、何か』と答える。そして、私が偏っていることが結果的に、あなたが誰かを偏っていると批判する権利を守ることになるんですよ、と言い添える」
平たく言えば、偏向批判とは、
「おまえの言っていることは気に入らない」
と言っているにすぎず、ためにする批判なのだから取り合う必要はない。だから、記者は思うところを書いていけばよい。・・・・「偏っていますが、何か」は、記者たちが自分たち自身に向けた戒めのメッセージでもあった。
(2)両論併記の体裁にこだわるメディアの「中立病」が言われる。空疎な論さえも同じ土俵に引っ張り上げて、結果、「お前の言っていることは気に入らない」が、さも真っ当な意見であるかのように仕立て上げられていく。
批判を恐れ、中立という隠れ蓑に逃げ込む保身にとどまらない問題がそこにはある。
(3)偏ることの大切さを強調するのは、ヘイトスピーチ取材の継続と無縁ではない。
川崎で繰り返されるヘイトデモの被害にさらされている在日3世の崔江以子(チエカンイヂャ)氏(42歳)が国会の参考人意見陳述で訴えたのも「偏ってほしい」だった。
「差別に中立はない。中立とは放置すること。国にも差別をなくす側に一緒に立ってほしい」
それは、
・人間の存在を否定する人権侵害を前にしてなお、表現の自由を絶対視し、規制に慎重論を唱えるメディア、
・あるいはネット右翼の攻撃にさらされることを恐れ、報じることもないジャーナリズムの姿勢
に向けられたものでもあるに違いなかった。
(4)ヘイトスピーチ解消法は、2016年5月24日に成立し、6月5日、川崎市における差別主義者のデモは中止に追い込まれた。抗議のカウンター市民が車道に体を横たえるシットインを敢行し、行く手を阻んだ結果だった。
人権侵害を未然に防ごうとする社会の良識は、ここに示された。
しかし、一部メディアは喧噪を目の当たりにした通行人の「反対する人も冷静になれないものか」「いがみ合って怖い」というコメントを紹介し、ここでも両論併記の体をとろうとしていた。それは、あたかも抗議する側の人にも問題があり、差別する側にも理があるかのような印象を与える記事になっていた。
(5)この「どっちもどっち」という態度が差別を温存し、ヘイトスピーチが街中で横行する事態を招く一因になった。
差別主義者たちのデモは、目的が政治的主張にあるのではなく、実際は「朝鮮人をたたき出せ」のシュプレヒコールがなされるのだから、
「在日コリアンをおとしめ、殺害まであおるヘイトデモ」
と書く。「在日特権を許さない市民の会」は、名称自体がデマを拡散させるものだから、「市民団体」ではなく
「人種差別団体」
と書く。偏るとは自ら思考し、判断することだ。有効で説得力を持った批判はそこからしか始まらない。
(6)時の権力が批判を封じるためにメディアをコントロールしようとするのは、いまに始まった話ではない。
統制される側の、批判することを放棄する思考停止にこそ、問題の本質がある。
□石橋学(「神奈川新聞」報道部次長)「ヘイトスピーチの取材を続けて 「偏っていますが、何か」 ~安倍政権と言論統制:新聞~」(「週刊金曜日」2016年6月17日号)
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