四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

太田 天神山古墳(群馬県太田市)

2021年06月23日 | 古墳


名 称:太田 天神山古墳(おおた てんじんやまこふん)
別 祥:男体山古墳(なんたいさんこふん)
墳 形:前方後円墳 二重の周堀が巡り 陪塚が付属
規 模:墳丘長210m 高さ16.5m
築 造:5世紀中期頃
出土品:円筒埴輪、形象埴輪
指 定:国指定史跡(名称:天神山古墳 昭和16年〔1941〕1月27日指定)
所在地:群馬県太田市内ケ島町1606ほか(旧太田市)

東日本では最大、全国でも30位以内に入る規模の前方後円墳古墳である太田市の「天神山古墳」(別称:
男体山古墳)を散策して来ました。東日本では墳丘長が200メートルを超す唯一の古墳として知られるよう
です。




くびれ部に鎮座する天満宮の鳥居脇に設置されている「史跡 天神山古墳」説明板




「史跡 天神山古墳」説明文




測量図




墳丘全体




「前方部」を南方から




「前方部」を西方から  写真左側方向が後円部




後円部方向を西方から




後円部を北西方向から  内堀跡の上を道路が走っている(真っ直ぐな道にするために潰した?)




道路によって寸断された内堀
手前の道路が中堤帯跡の道路で内堀に沿ってじ湾曲しています




後円部を正面にして




後円部を東方から




中央に見えるのがくびれ部に設置されている「史跡 天神山古墳」説明板




後円部北側(道路際)




【史蹟 天神山古墳】標柱




表中の脇から後円部墳丘に向います




墳頂に近づくと葺石が顕著に




後円部墳頂  三角点が埋められています




後円部方向から前方部方向に




前方部方向から後円部方向に




鞍部あたりから前方部墳丘を




くびれ部東側に建つ天神社の鳥居と天神山古墳説明板




天神社までは階段が設けられています




天神社 この建物は覆屋で中に天神さまが祀られています(筈)
この写真ではちょっと分りませんが格子戸の上の額には 「目塚 天満宮」と揮毫されています
古墳名はこの天神社(天満宮)が元となっているようです




天神社の脇から鳥居方向を





「A陪塚」  住宅の裏手にありました
立ち入り禁止の立て札が立っていましたのでこれから先には行けずにこの写真だけです




女体山古墳の前から天神山古墳を

天神山古墳は東日本最大の前方後円墳と言われるだけあってほんとに大きくどこをどうやって撮ったらい
いのか迷いながら撮って来た中から何枚かを載せてみました。

散策日:令和3年(2021)5月20日(木)・24日(月)

復元西戸2号墳(埼玉県毛呂山町)

2020年12月29日 | 古墳


埼玉県毛呂山町の越辺川(おっぺがわ)流域にある三つの古墳群のうちの一つ【西戸(さいど)古
墳群】の2号墳の石室が毛呂山町歴史民俗資料館(同町大類)の庭に移築復元されていますので訪
ねて来ました。
 築 造:7世紀初頭
 別 名:行任塚
 墳 形:不明 



石室 天井部は原形をとどめていません




石室




西戸2号墳説明板




西戸2号墳説明文




発掘調査時の測量図




「西戸古塚記」碑




「西戸古塚記」説明板
     西戸古塚記
 この石碑は西戸二号墳上に建てられていたもので、明治二六年(1893)にこの古墳を発掘したと
きの様子を記したものです。縦書10行、漢文により刻まれ、その概要は次の通りです。

  入間郡川角村西戸に行任塚と云う古い塚がある。
  今年の秋、長雨により表土が崩れて石が出て来たので、下を掘ってみると槨(横穴式石室か)
  がすがたをあらわした。槨の内部は分かれて二つになっていて、その広さはどちらも一丈
 (畳)ばかりであった。中からは人骨・刀・鏃・金環が発見され、人骨は数体分あり、主従関
  係にあるようで、殉死者がいたようだ。この古墳は、行任その人の古墳であろうか。生きた
  人が一緒に葬られたのであるから、この墓の被葬者は貴人と考えられる。
  この土地の所有者は供養のために石碑を建てることを考えられ、私(この碑文の作者)も同
  感であるから、明治癸巳の初冬(明治二六年)古塚の由来を書き記したのである。

 なお、地元には道祖土(さいど)の祖である平維新(行任)と云う人物が初めてこの地に入り、
行任塚はこの人の墓であり、近くの丸山城(不明)は平維新が築いた城であると云う伝説があり
ます。殉死者や平維新伝説と云った内容は史実とは考えられないでしょうが、これらの碑文や伝
説から、明治中頃の人々がどのような思いで古墳を見つめていたのかが理解され、大変貴重な資
料となっています。

散策日:令和2年(2020)12月7日(月)

横塚山古墳(埼玉県熊谷市)

2020年12月28日 | 古墳


名 称:横塚山古墳(よこづかやまこふん)
別 名:―
墳 形:前方後円墳
規 模:全長約40m、後円部径22.5m、高さ後円部で3.2m、前方部で2.5m
築 造:5 世紀末頃(推定)
出土品:円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪など
指 定:市指定記念物 史跡 (名称:横塚山古墳 昭和44年(1969)9月11日指定) 
所在地:埼玉県熊谷市大字中奈良字横塚

この横塚山古墳に面する妻沼バイパスは数え切れないほど通っていますが、車の往来が激
しい上に駐車場もありませんので中々寄ることが出来ませんでした。
今回思い切って少し離れた場所の田園の中の道端に駐車して古墳まで。
この横塚山古墳は下野国の国造の任を終えて当地を開拓した奈良別命の墓所だとの伝承が
奈良神社にあるようす。




古墳の南側裾に設置の『横塚山古墳』説明板

  熊谷市指定文化財史跡
   横 塚 山 古 墳
                       指定年月日  昭和44年9月11日
                       所 在 地  熊谷市大字中奈良字横塚
 横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。
 墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22,5m、前方部先端幅12m、高さは後円部
で3,2m、前方部で2.5mです。
 妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の幅が確認
されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、
後円部南側で、5,8mです。
 本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると5世紀末と考え
られます。しかし埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。
 本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が
採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったこと
が考えられます。
  平成8年3月                     熊谷市教育委員会




国道407号妻沼バイパスの建設に伴い後円部の一部が削り取られています




墳丘南側




墳丘北側




墳頂




墳頂にはこんな石が

散策日:令和2年(2020)10月20日(火)

経塚古墳(埼玉県川島町)

2020年08月13日 | 古墳


名 称:経塚古墳(きょうづかこふん)
別 名:―
墳 形:円墳
規 模:高さ約2.5m
築 造:不明
出土品:―
指 定:―
所在地:埼玉県比企郡川島町長楽

越辺川左岸の自然堤防上に存在する2基からなる長楽古墳群のうちの1基で、もう1基の仙元塚
とはかなり距離が離れています。墳頂には稲荷社が祀られています。
これが古墳であるのかは素人にはよくわかりませんが、資料では古墳扱いになっているといいま
す。
当主の許可を得て写真撮影をさせていただきましたが、当主自身、古墳という認識はないような
感じでした。
「経塚」とは経典を埋めた塚のことですから、もしかしたら・・・かもしれません。
なお、すぐ脇を長楽用水路が通っていて、すぐ近くに「京塚樋管」があります。また、このあた
りの字名は「京塚」ですが、この京塚は経塚に由来するものかもしれません。




墳丘




墳頂に鎮座するは稲荷社?




用水路沿いの道路から

散策日:令和2年(2020)7月19日(日)

仙元塚古墳(埼玉県川島町)

2020年08月12日 | 古墳


名 称:仙元塚古墳(せんげんづかこふん)
別 名:ちょっぽり浅間
墳 形:円墳
規 模:径不明、高さ約2.5m
築 造:不明
出土品:―
指 定:―
所在地:埼玉県比企郡川島町戸守

越辺川左岸の自然堤防上に存在する2基からなる長楽古墳群のうちの1基ですが、もう1基の経塚
とはかなり距離が離れています。墳頂には浅間神社が祀られています。
富士塚として後世に大幅に加工したようです。
「ちょっぽり」とは円錐形に尖ったものをあらわす方言とのこと。




南西側は道路建設のために大分切り取られてしまっています




西方から見た墳丘

散策日:令和2年(2020)7月19日(日)

塩古墳群 ②(埼玉県熊谷市)

2020年08月02日 | 古墳


「塩古墳群 ①」に引き続き「塩古墳群 ②」では道路の西側に展開する古墳の紹介をしたいと思います。




黄色の線の枠で囲った古墳を番号順に




13号墳  測量図(配置図)がなければ見落とすような場所と規模です




14号墳




15号墳  やっと最後に見つけました




16号墳  右上にちょっと見えるのが17号墳




17号墳




18号墳  この右にある民家の庭の隅にちょこっとあったのがもしかしたら18号墳?




19号墳




21号墳

散策日:令和2年(2020)6月20日(土)

塩古墳群 ①(埼玉県熊谷市)

2020年08月01日 | 古墳


名 称:塩古墳群(しおこふんぐん)
別 名:-
墳 形:前方後方墳・方墳・円墳
規 模:全長:約35m・高:前方部1.7m 後方部5.9m(1号墳)
    全長:約30m・高:前方部2.2m 後方部5.5m(2号墳)
築 造:古墳時代前期(4世紀中葉~後半)
出土品:土器等
指 定:県指定史跡(名称:塩古墳群 昭和35年(1960)3月1日指定)
所在地:埼玉県熊谷市塩328ほか (旧大里郡江南町)

塩古墳群は7つの支群により構成され、第1支群に36基があり、うち21基が史跡指定の対象となって
います。
時期的には一番悪い時期に訪れたため、草が繁茂して墳形が隠れてしまっていたうえ歩くのも大変
ででした。
更に、古墳の数が多いことから、測量図(配置図)で1基ずつ位置を確認しながら、写真を撮りなが
らメモをして、後日、どの写真が何号基か分るようにしていたので時間もだいぶかかってしまいまし
た。1,2基ならこんな苦労もないのに。




県道11号(熊谷小川秩父線)を熊谷市街地方向から小川町方向に進行し、常安寺を過ぎて少しした
角に標柱が立っています。




標柱の建つ場所の県道に面した所に古い「塩古墳群」説明板 これでも十分に役に立ちます




標柱のある角を左折して道なりに進行すると杉林です この両側に古墳群が展開されています




史跡等に欠かせないのが石碑であったり石標であったりします これを見て史跡を実感します
逆光で文字が読まない真っ黒な状態でしたが画像処理をして何とか「塩古墳群」と読めるように




埼玉県指定史跡  塩 古 墳 群
                                  所在地 熊谷市塩
 塩古墳群は、滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。
 この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期
(4世紀中葉~後半)の土器等の遺物が出土しています。
 主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.
7m後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています
 南側の第2号墳は、全長約30m高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
 これらの古墳群は、極めて密集しており、保存状態も良好で、北武蔵地方の代表的な前期古墳
 群として貴重なものです。
 昭和35年3月1日埼玉県指定文化財となっています。
平成15年3月
                                 熊谷市教育委員会



案内板では、前方後方墳2基・方墳26基・円墳8基の計36基の古墳が残されているとありますが、こ
の測量図では20基の位置が示されています(不足分はどこに?)
このうち33号墳についてはあまりの藪で探すのを途中で断念しました。
この「塩古墳群 ①」では、緑の枠線で囲った道路の東側部分の古墳について紹介しておきます。

位置の順に紹介すればよいのでしょうが、番号順での紹介とします。




第1支群1号墳(狸塚1号墳)  説明板の背後にあります
支群中最大の前方後方墳で古墳群のほぼ中央に位置している




同じく1号墳




第1支群2号墳(狸塚2号墳)
①号墳のすぐ南西に位置する前方後方墳




同じく2号墳




3号墳




3号墳の北側に見つけた基準点石標 【塩古墳群 基準点 NO1 江南町】とあります
てっきり1号墳の墳頂にあるのかと思い伸びた草を掻き分け掻き分けて探してみましたが見つかり
ませんでしたが、まさかここにあったとは。




4号墳




5号墳




6号墳




7号墳




8号墳




8号墳(左)と7号墳(右)




10号墳




11号墳




12号墳




12号墳の南側に見つけた2つ目の基準点石標 【塩古墳群 基準点 NO2 江南町】とあります




道路から古墳群(東側)を

散策日:令和2年(2020)6月20日(土)

月輪神社古墳(埼玉県滑川町)

2020年07月30日 | 古墳


名 称:月輪神社古墳(つきのわじんじゃこふん)
別 名:-
墳 形:円墳
規 模:東西径46m 南北径46m
築 造:6世紀代
出土品:-
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡滑川町月輪418 月輪神社

「月輪古墳群」の東方に単独で存在する古墳で、墳丘の上に月輪神社が鎮座する。主体部および遺
物については不詳であるが、主体部が横穴式石室であったとの伝えがある。




神社なので南側の参道から
幟立て右背後に「月輪神社」の社号標  古いものだと旧社格が刻まれていることが多いですが、
社名しか刻まれていませんので比較的新しい社号標のようです。




以前は朱色の両部鳥居だったようですが、この鳥居は平成31年3月に改修建立されたばかりです
神額には「月輪神社」とあります
社殿までの参道は自然道で両脇に大木が並んでいます




墳丘上に月輪神社が鎮座しています  右の建物は【滑川町月輪中央集会所】




【月輪神社】御由緒
祭神の中に『九条兼実』という名がありますが九条兼実は平安時代に関白で、この地に荘園があり、
元々京都の月輪寺の近くに土地があり、「月輪殿」と呼ばれていたため、ここにもこの地名がつい
たと言われるようです。
残念ながら古墳に関する記述はありませんね。




【月輪神社】社殿




扁額「月輪神社」と揮毫




本殿覆屋と境内社




墳丘を南西から




墳丘を北東から




墳丘の北側に窪みが見られますが周溝の跡?




北側の道路沿い建立されて社号標「村社 月輪神社」と歴史のある石標柱




古い社号標のある角を入った所にある月輪稚蚕共同飼育所建設記念碑(左側)蠶魂之碑(右側)
滑川町郷土かるたの標柱「ゆ 月輪神社(ささら獅子)」
 勇壮に 舞って奉納 ささら獅子




境内東側道路の先にある【滑川町月輪中央集会所】




北側の道路から 月輪神社(月輪神社古墳)のある森を

散策日:令和2年(2020)6月20日(土)

月輪古墳群・こふん公園と30号墳(埼玉県滑川町)

2020年07月25日 | 古墳


名 称:月輪古墳群(つきのわこふんぐん)
別 名:-
墳 形:円墳・帆立貝形墳
規 模:直径約10mから20mの100基以上の古墳群(残存は40数基)
築 造:古墳時代(5世紀後半~7世紀)
出土品:円筒・象形埴輪
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:月輪古墳群 昭和44年(1969)10月1日選定)
所在地:埼玉県比企郡滑川町月の輪

嵐山町川島字屋田から滑川町月輪字西荒井にかけて、東西400メートル、南北800メートルの範囲に
所在する古墳群。嵐山町側を「屋田古墳群」、滑川町側を「月輪古墳群」と呼ぶこともある。
現存する全古墳を見て歩きたい思いがないわけでもありませんが、取り敢えずは「こふん公園」と
やはり住宅街の中にあり場所がはっきりしている1基の古墳を廻ってみました。




埼玉県選定重要遺跡  月 輪 古 墳 群
                         選定 昭和44年10月1日
                         所在 滑川町月の輪7-8-1ほか
                         時代 古墳時代(5世紀後半~7世紀)

 月輪古墳群は市野川右岸の東松山台地の北縁に分布しています。かつては100基以上の古墳が
あったと思われますが開墾等により多くの古墳が崩されてしまいました。また、近年の区画整理に
よって59基の古墳が記録保存の措置がとられました。発掘調査の結果、ほとんどの古墳は直径約
10mから20mの円墳でしたが、帆立貝形古墳も数基ありました。埋葬施設については棺を直接
埋めたと考えれれるものと横穴式石室を持つものがありました。多くの古墳からは円筒埴輪のほか
に人物・馬・鳥・家などの形をした埴輪が多数出土しました。月輪古墳群は狭い範囲の中で約1世
紀の間に連綿と古墳が作られ、古墳時代後期の群集墳として貴重です。この公園には2基の古墳が
保存されているため、むやみに土を掘り返したり、木を植えてはいけません。
 平成20年3月 
                                  滑川町教育委員会




こふん公園に保存されている17号墳 墳丘に高さがなく言われなければ古墳とは思えません




19号古墳 17号墳に比較すれば高さがあります




月輪古墳群 月輪30号墳のある稲荷大明神(月の輪6丁目2‐6)
区画整理された住宅街の中にあります こふん公園から南方約420mに位置します

滑川町郷土かるたの標柱「お 稲荷講(稲荷大明神)」
 オトウカさま イッケで祀る 稲荷講




月輪30号墳の規模は不詳ですが円墳で主体部は横穴式石室




墳丘の上に鎮座する稲荷大明神
青面金剛像の前に敷かれている平石は石室の石材?




石燈篭の前に大きな平石  これは間違いなく石室の石材でしょう




社殿の背後に【滑川町月輪中丸集会所】が建っていますが、その集会所の前にも石室の石材
このほか数か所に石室の石材と思われるものが置かれていました

散策日:令和2年(2020)6月16日(火)・20日(土)

山王塚古墳(埼玉県滑川町)

2020年07月24日 | 古墳


名 称:山王塚古墳(さんのうづかこふん)
別 名:大木古墳群1号墳・富士浅間神社・山王さま
墳 形:円墳
規 模:径約20m・高さ4.57m
築 造:不詳
出土品:-
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡滑川町福田

滑川町福田地内の県道47号(深谷東松山線)沿いにある古墳を探訪してきました。
正直、古墳の正式名は分りませんが、大木古墳群に属する古墳で、某古墳ブログで使用していた
名称は「大木1号墳」でしたが、古墳の本では「山王塚古墳」という名称が出てきますのでタイ
トルは山王塚古墳とさせていただきました。
大木古墳群は、滑川の沖積地に張り出した舌状地に築造された古墳群で10基近くが確認されたが
現存するのは1基のみとのことです。
不審者に見えたのでしょうか、たまたま付近の方二人に声をかけていただきましたが、お二方と
も古墳としてではなく富士塚と認識しているようでした。
また、何十年か前に大学の先生が来てレーザー探査をしたが何も見つからなかったというお話も
いただきました。




北西から




北側(裏側)から




南西から




正面(南側)から石段と鳥居、社殿を




社殿
写真は載せませんが、この社殿の中を格子の間から覗いてみたところ3年に1度行われる萩日吉神社
(ときがわ町)の鏑流馬の平成27年の際の的が奉納されていました。
日吉神社は山王さまと呼ばれます。このことからこの神社は山王さまも祀られていると考えられ、
この塚は別名山王塚で間違いないようです。




墳頂を墳丘斜面の北西を少し下がって
右上に挿入したのは墳頂の際ギリギリに西側の道路面井向けて建立されている大きな石碑で、
  天彦火瓊瓊杵命・木花開耶姫命・大山津見命
の3つの祭神名が刻まれています(墳丘斜面に下りて撮りましたが、今にも転げ落ちそうでした)

木花開耶姫命は浅間神社の祭神  大山津見命は日吉神社(山王さま)の祭神です
なお、地図上では「富士浅間神社」となっていることから主祭神は木花開耶姫命のようです。




社殿裏の北側墳丘斜面には「富士浅間大神」などとと刻まれた小さな石碑が幾つも建立されており、
富士信仰の富士塚となっている

散策日:令和2年(2020)6月16日(火)