四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

宗永寺舟形石棺

2023年05月08日 | 古墳


藤岡市上落合848-1にある「宗永寺」(そうえいじ)境内に宗永寺裏東塚古墳から出土したとされる
『舟形石棺』(ふながたせっかん)が覆屋の中で保存されているとのことから見学して来ました。
実は、この5日前に宗永寺の目の前にある「七輿山古墳」を散策してきたのですが、この時に寄れ
ばよかったのを寄らずに過ごしてしまったのです。このことから改めて出かけてきたという極めて
非効率的な行動でした(恥)
なお、国、県、市の何れからも史跡・重要文化財等の指定は(現在のところ)ありません。




舟形石棺はこの覆屋の中に保存されています
緑色の建物の後ろが宗永寺裏西塚古墳のようです(石棺が出土した古墳ではありません)




覆屋の前に立てられている石碑




線刻の文字・図ともに見辛い状態になっており写真では文字はほとんど読めませんので上書きしました




碑文を転記しておきます
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       宗永寺石棺
この石棺は凝灰石を刳り抜いて作った舟形石棺の身部である 長さ二・三五㍍ 幅八六~九一㌢ 高さ六〇㌢の
大きさで 一方がやや幅広く作られている 身部の長側面には楕円形の縄掛突起が二個ずつ付いているが 先方
が欠けている 蓋も凝灰石製で天井部を深く刳り抜いて作られていて 縄掛突起は付いているが一部しか残って
いない
これは昭和八年頃には本寺山門の西南方約三五㍍の所に存在した天神山古墳の墳頂にあったが 住職や地元古老
の伝えによれば 前方後円墳である宗永寺裏東塚古墳に存在したもののようである 
製作年代は六世紀前半頃とみられ このような舟形石棺は県内では十例余りと極めて少なく 五~六世紀代の豪
族の墳墓の主体部と考えられている

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製作年代について、藤岡市のHPでは「5世紀後半ごろに造られたと推定されます。としています。








※いつものことなのですが、見学・散策の対象物を見つけるとそれだけに気を取られて周りの様子等の写真を撮らずに帰
ってきてしまいます。この場合ですと宗永寺の堂宇や山門、境内の様子などの写真を撮ることを全く忘れてしまっていま
した。更に肝心の覆屋さえも離れたところから撮っていないのですから。依って今回も対象物の写真しかないことをお断
りしておきます。そんなときは「失念」という便利な言葉を使ってごまかしていますけれど(恥・泣)


散策日:令和5年(2023)4月25日(火)

国指定史跡 白石稲荷山古墳

2023年05月03日 | 古墳


藤岡市白石、上落合などに分布する古墳で構成される白石古墳群の古墳のひとつである『白石稲荷
山古墳』を散策してきました。
白石稲荷山古墳は、墳丘を大きく見せる、また、どこからでも見えることを意識して、河岸段丘の
急斜面に接するように築造されています。

名 称:白石稲荷山古墳(しろいしいなりやまこふん)
別 称:-
墳 形:前方後円墳 
規 模:全長155m、前方部幅80m、後円部径90m、高さは前方部6m・後円部13.5m
築 造:5世紀前半
出土品:鏡、直刀、石製模造品、家形埴輪、短甲形)埴輪
指 定:国指定史跡(名称:白石稲荷山古墳 昭和5年〔1993〕11月30日指定)
所在地:群馬県藤岡市白石

なお、この古墳のほぼ北方にある十二天塚古墳、十二天塚北古墳が平成21年(2009に追加指定されましたので、
これらを一括した国指定史跡となっています。
ただ残念ながらこの二つの古墳は開墾によって墳丘が削られてしまっていて見つけるまでに至りませんでした。





北西方向から白石稲荷山古墳を見ています 左側が後円部 右側が前方部




前方部から後円部方向に




北方から後円部を見る




後円部墳頂




後円部墳頂に設置されている『国指定史跡 白石稲荷山古墳』説明板
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 国指定史跡
   白石稲荷山古墳
      所在地 藤岡市白石一三六五ほか
       所有者 飯玉神社ほか
 古墳は、鮎川左岸の上位段丘面東端に占地する前方後円墳である。大きさは全長一七五㍍、後円部径
九二㍍、くびれ部幅五〇㍍、前方部幅約一四八㍍、後円部高一三・五㍍、前方部高六㍍である。昭和八
年の調査で、墳頂部から東槨(全長八・二㍍、幅九〇㌢)、西槨(全長五・三㍍、幅四〇㌢)の二つの
竪穴式礫槨が確認されている。出土遺物は鏡、直刀、装飾品類、石製模造品(石枕・刀子・案・杵・坩・
箕・釧・勾玉・屐など)などのほか家、短甲などの埴輪がある。
 本墳は十二天塚古墳や十二天塚北古墳を陪塚とし、五世紀前半に造られた東日本を代表する古墳の一
つで、豊富な副葬品から当時の生活
文化を考える上で極めて重要である。
                                    藤岡市教育委員会

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『国指定史跡 白石稲荷山古墳』の標柱




石碑が2基建立されています
左側の石碑の額題には「稲荷神社舊跡」 右側の石碑の額題には「稲荷山古墳碑」とあります
※舊跡・・・旧跡




後円部墳丘から前方部を




後円部の北東側の裾




東方から




北東から後円部を




南東から




南東方向から  左側が前方部  右側が後円部

散策日:令和5年(2023)4月20日(木)

国指定史跡 七輿山古墳

2023年04月30日 | 古墳


藤岡市にある『七輿山古墳』は6世紀前半につくられた三段築成の前方後円墳で、6世紀代の古墳と
しては東日本最大級のもののようです。そんな国指定史跡である七輿山古墳を散策してきました。

名 称:七輿山古墳(ななこしやまこふん)
別 称:-
墳 形:前方後円墳 三段築成
規 模:全長150m、前方部幅115m、後円部径85m、高さは前方部・後円部ともに16m
築 造:6世紀前半
出土品:円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物・形象埴輪類や須恵器・土師器
指 定:国指定史跡(名称:七輿山古墳 昭和2年〔1927〕6月14日指定)
所在地:群馬県藤岡市上落合831
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『七輿山の伝説』
七輿山の名前の由来は、羊太夫の伝説からきています。奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束の小脛とい
う神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。ある日、羊太夫は悪ふざけで昼寝をしている小脛の両脇に一本づつ
生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷へ日参できなくなりました。朝廷は羊
太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」とい
う地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と言う名称が伝えられてい
ます。
                            《藤岡市ホームページから引用》
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後円部東端の裾部から七輿山古墳の散策開始です




説明板が設置されています




『国指定史跡 七輿山古墳』説明板
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 国指定史跡
   七興山古墳
      所在地 藤岡市上落合八三一-一ほか
       所有者 国ほか

この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。大きさは全長一四六㍍、後円部径八
㍍、前方部幅一〇六㍍、前方部と後円部の高さは一六㍍です。
四回にわたる範囲確認調査で、墳丘の周りに内堀・中提帯・外堀・外提帯・埴輪列が明らかになりました。ま
た、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡っています。出土遺物は円筒埴輪・朝顔形埴輪のほかに人物・馬・
盾などの形象埴輪があります。特に、円筒埴輪は七条凸帯を有し、径五〇㌢、高さ一・一㍍の大型品です。古
墳の埋蔵施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られたものと考えられます。
                                        藤岡市教育委員会

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墳丘中段(と言っても僅かな高さですが)に「石幢六面六地蔵」があります。




沢山の石仏が並んでいます




よく見るとみんな首がありません。「首なし地蔵」と言われているようですが、これは地蔵ではなく五百羅漢で
すね。なぜ首がないかの説は幾つかありようですが、ここにそれを書くと長くなってしまいますので・・・





墳頂を目指します 




後円部の墳頂です




後円部墳頂東端に後円部の外側を向いて釈迦三尊がありますが、これも首がありません。
立札があり「重要文化財にかってに補修や損傷を与えることは、文化的価値を著しく損なわれます。文化財を大
切にしましょう!
 藤岡市教育委員会」とあります。





後円部から前方部方向を見ています




くびれ部分あたりでしょうか?




前方部




前方部西端の裾  いくつもの石は「葺石」でしょうか?




前方部を西方から




手前が前方部




前方部先端  濠跡  奥に見えるのは堤の一部?




墳丘北側面  手前が前方部




墳丘北側面




後円部の北東端あたり




後円部




後円部東側




後円部東側




散策を開始したところまで戻ってきました




後円部南方から前方部方向に

墳丘から離れたところを歩いてきましたが、墳丘が大きすぎて全体の姿を1枚の写真におさめることはできませ
んでした。付近を含めて見落としてきた場所が複数ありますので再訪する機会があったら、それを含めてその時
は更に離れた場所を歩いてみたいと思うのですが・・・


散策日:令和5年(2023)4月20日(木)

平井地区1号古墳

2023年04月28日 | 古墳


歴史的な空間を憩いの場とするため整備された毛野国白石丘陵公園内にある『平井地区1号古墳』
を散策してきました。平井地区1号古墳の南側には皇子塚古墳あります。

名 称:平井地区1号古墳(ひらいちくいちごうこふん)
別 称:-
墳 形:2段に築かれた円墳
規 模:直径24メートル、高さ3.5m
築 造:6世紀後半
出土品:形象埴輪、須恵器、土師器、装飾大刀など
指 定:群馬県指定史跡(名称:平井地区1号古墳 平成5年〔1993〕4月20日指定)
所在地:群馬県藤岡市三ツ木249ー9ほか




憩いの場として整備された毛野国白石丘陵公園  四阿もあります




平井地区1号古墳




石標柱『群馬県指定史跡 平井地区一号古墳』




『県指定史史跡 平井地区1号古墳』説明板
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 県指定史跡
  平井地区1号古墳
   所在地 藤岡市三ツ木字東原二四九-九番地ほか
    所有者 藤岡市

本墳は直径二四㍍、高さ三・五㍍、二段に築かれた円墳で、幅広の基壇を有する。石室は北に開口する横穴式両
袖型石室で、羨道、玄室からなり、大きさは六・八㍍である。壁面は凝灰岩の切り石積みで、随所に切り組みの
手法を取り入れている。
出土遺物は墳丘上から家、大刀・靭・帽子・鞆などの形象埴輪、須恵器、土師器などが、石室からは装飾大刀・
直刀・桂甲・鉄鏃・馬具・耳環などが出土している。特に、装飾大刀の銀象嵌円頭大刀・単鳳環頭大刀は貴重な
もので、群馬県指定重要文化財に指定されている。
出土遺物などから六世紀後半に造られたと考えられる。
  平成六年十二月十五日
                                          群馬県教育委員会
                                          藤岡市教育委員会

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北側から
横穴式石室の開口部がこの北側にあったようですが、埋め戻されていて確認できません




南側から?




墳頂部




西側から?




平井地区1号古墳の墳頂から平井地区2号北古墳と平井地区2号古墳




皇子塚古墳の墳頂から平井地区1号古墳を




平井地区2号北古墳と平井地区2号古墳

散策日:令和5年(2023)4月20日(木)

皇子塚古墳

2023年04月27日 | 古墳


歴史的な空間を憩いの場とするため整備された毛野国白石丘陵公園内にある『皇子塚古墳』を散策
してきました。皇子塚古墳の隣には平井地区1号古墳、2号古墳もあります。平井地区12号古墳に
ついては別途アップします。

名 称:皇子塚古墳(おうじづかこふん)
別 称:-
墳 形:4段に築かれた円墳
規 模:直径31メートル、高さ6m
築 造:6世紀後半
出土品:金銅装単龍環頭太刀の柄頭
指 定:群馬県指定史跡(名称:皇子塚古墳 平成4年〔1992〕5月15日指定)
所在地:群馬県藤岡市三ツ木247ほか




『毛野国白石丘陵公園』
国指定史跡七輿山古墳と白石稲荷山古墳を結ぶ間の場所で皇子塚古墳、平井地区1号古墳周辺を整備した公園で、
芝生広場や史跡散策を楽しめる園路やあずま屋があります。





「平井地区1号古墳」と「皇子塚古墳」
平井地区1号古墳は皇子塚古墳の北方に位置しています




皇子塚古墳を西方から




石標『群馬県指定史跡皇子塚古墳』




『県指定史跡 皇子塚古墳』説明板
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    県指定史跡
      皇子塚古墳
                         指定日 平成四年五月十五日
                            所在地 藤岡市三ツ木字東原二四七番地ほか
                            所有者 藤岡市
 
本墳は、直径三一㍍、高さ六㍍、四段に築かれた円墳である。内部構造は両袖型横穴式石室で、羨道、前室、玄
室からなる複室構造である。石室の大きさは全長八・三三㍍、前庭部を含めると十二・十六㍍になる。県内では例
の少ない複室構造の石室を持つ古墳で、保存状態も良好である。石室は前庭部から全室までが河原石の乱石積み、
玄室が凝灰岩の切り組手法を取り入れた截石積みという特長が見られる。出土遺物から六世紀の後半に築かれ、七
世紀前半まで追葬行われたと考えられる。
                                          群馬県教育委員会
                                          藤岡市教育委員会

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石室の開口部は南東側にあったということですが、すでに埋め戻されていますので確認できませんが、この辺り
かと思います。





南方から?(自信なし)




北側から?




皇子塚古墳の墳頂から平井地区1号古墳と平井地区2号古墳を




平井地区1号古墳の墳頂から皇子塚古墳を




古墳の東側  この下を「猿田川」が流れています

散策日:令和5年(2023)4月20日(木)

伊勢塚古墳

2023年04月25日 | 古墳


藤岡市に所在する群馬県指定史跡伊勢塚古墳を散策して来ました。

名 称:伊勢塚古墳(いせづかこふん)
別 称:-
墳 形:円墳あるいは不正八角形墳 
規 模:径27.2m、高さ6m、
築 造:6世紀後半
出土品:円筒埴輪・人物埴輪・盾形埴輪
指 定:群馬県指定史跡(名称:伊勢塚古墳 昭和48年〔1973〕8月21日指定)
所在地:群馬県藤岡市上落合318ほか
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伊勢塚古墳は、藤岡駅の北西約4キロメートルに所在します。この古墳の周囲には、国指定史跡七輿山古墳、県
指定史跡皇子塚古墳、国指定史跡白石稲荷山古墳等が存在し、白石古墳群を形成しています。
伊勢塚古墳は、七輿山古墳の北400メートルの平坦地に造られた径27.2メートルの円墳あるいは不正八角形墳と
考えられます。昭和62年から3回にわたる範囲確認調査により、墳丘は4段に造られた古墳で、特に、3段目は最
上段の葺石を積み上げてから、その外側に河原石を敷き詰めて造りだした段築面であることがわかりました。出
土遺物に円筒埴輪・人物埴輪・盾形(たてがた)埴輪があり、6世紀末ごろに造られたと推定されます。
                                   《藤岡市ホームページから引用》

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西側の農道から伊勢塚古墳を




古墳尾西南のところに石標と説明板が立てられています




石標柱『群馬県指定史跡 伊勢塚古墳』



『伊勢塚古墳』説明板
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県指定史跡 
 伊勢塚古墳
 所在地 藤岡市上落合字岡三一八番地ほか
 所有者 藤岡市
本墳は当初、円墳と考えられていたが、昭和六二年度の範囲確認調査により直径二七・二㍍、高さ六㍍の二段に
築かれた不正八角形墳と考えられる。内部構造は羨道、玄室からなる両袖型横穴式石室で、大きさは八・九㍍で
ある。
石室の石積みに特長がある。玄室は流麗な曲線を描く胴張りプランで、模様積み(珪岩質の転石を中心に片岩製
の棒状の石を配する)と称される独特な石積み技法で、ドーム状の構造になっている。また、擬似楣も架設され
ている。出土遺物に須恵器、埴輪などがある。六世紀後半に造られたものと考えられる。
  平成六年十二月十五日
                                          群馬県教育委員会
                                          藤岡市教育委員会

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※その後の調査で上記内容と異なる部分が生じている可能性もありますが、このまま載せておきます。
 なお、墳丘は2段説から4段説に変わってきているようです?





開口部は南を向いています




開口部




羨道




羨道から玄室(石室)を




石室の左右の壁には、大小の河原石を組み合わせた「模様積」(もようづみ)と呼ばれる積み方が見ら
れる。この模様積石室は藤岡市とその周辺の一部でしか見られない特殊なもののようです。




玄室(石室)内から羨道・外方向を




墳丘東側




墳丘西側




墳頂
長方形の石で桝形が造られています
これは何なのか調べてみたのですが答えに辿り着けませんでした


散策日:令和5年(2023)4月20日(木)

「踊る埴輪」モニュメント

2022年06月30日 | 古墳


熊谷市野原(旧大里郡江南町)の八幡神社の境内に2体の「踊る埴輪」モニュメントが建立され、
4月23日に除幕式が行われたとのことから、モニュメントを見に行って来ました。
2体の「踊る埴輪」は、この八幡神社の社殿裏にある野原古墳群から出土したもので、実物は東京
国立博物館が所蔵しています。
モニュメント台座にはめ込まれた銘板には

        踊る埴輪 出土地
   野原古墳群「埴輪 踊る人びと」1930年(昭和5年)3月21日出土
    (古墳時代6世紀 復原高さ 左57.0cm  右64.1cm)

とあります。
2体の「踊る埴輪」モニュメントは石製(花こう岩)で、高さは 左174cm 右195cmですので
実物の約3倍の大きさです。




野原の八幡神社  
社殿の裏から西方にかけて野原古墳群が展開されていますが、開墾や採土等により損壊され、今は20
数基を残すのみです。
『踊る埴輪』はこの野原古墳群から出土しました。




以前から設置されている『八幡神社と野原古墳群』説明板の横に「踊る埴輪」モニュメントと碑が
建立されました。




『踊る埴輪、この地に出土する』碑
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   踊る埴輪、この地に出土する
「踊る埴輪」(「埴輪 踊る人びと」)は、1930年(昭和5年)3月212日、この地に所在する埼玉県大里郡小原
村(現在の埼玉県熊谷市野原)の野原古墳群で出土した2体の人物形象埴輪である。
「踊る埴輪」の製作年代は、周辺の遺構状況や、埴輪の造形比較などから6世紀頃と推定される。踊るような容
姿と、独特の顔の表情が印象的で、国内の埴輪の中で有数の知名度を誇る。その一方で、手綱を持ち、馬を引く
「馬飼」を表現したとする設もある。
 出土後,当時の関係法令に基づき東京帝宝博物館へ移管され、欠損部を補填する修理措置を受けた後、同館が
正式に購入した。戦後は東京国立博物館が所蔵し、考古学者・後藤守一が2体を踊る人物と定義したことで知ら
れる。
 両像は共に左腕を上に揚げ、右腕を前方斜め下に置いている。口と目の部分は概ね大きさの円形にくり貫かれ、
目を見開き、口を大きく開けたような造形が表現されている。髪形や装備の様子から小さい像の埴輪が男子像と
考えられている。
 このモニュメントは、野原古墳群で出土した「踊る埴輪」の記憶を次世代に引き継ぐことを目的に建立された。
この埴輪の躍動感は、野原における大地の響きとなり、ここに住まう人々に勇気と希望を与え続けることだろう。

【裏面】   2022年(令和4年)4月1日
           撰文 高階秀爾・山下祐樹

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「踊る埴輪」モニュメントと碑




2体の埴輪を背後から
「踊る埴輪」モニュメントの台座の裏側には2枚の銘板が嵌めこまれています。

左側の銘板には           右側の銘板には  
  埼玉県熊谷市野原古墳群       踊る埴輪モニュメント建立委員会
  八幡神社 野原自治会        協力 野原自治会 野原八幡神社氏子総代各位
  熊谷市立江南文化財センター     熊谷市教育委員会
  寄贈者 八木賢十郎         ※※※※ ※※※※
                    総括 熊谷市立江南文化財センター山下祐樹
                    施工 ※※石材店 代表※※※※
                    2022年(令和4年)4月1日




写真左  熊谷市江南文化財センターに展示されている『踊る埴輪』レプリカ
     昨年訪館した際の写真ですがショーケースのガラスに反射してしまい1体は残念ながら
写真右  旧江南町の代名詞・キャッチフレーズともいうべき「緑とおどるはにわの里」の看板で
     旧江南地域の市境に何カ所か建てられています。
     下には「江南町 江南町観光協会」と書かれていますがほとんど読めなくなっています。
     代わりに柱に「熊谷市」のシールが貼られています。これは野原古墳群から1kmほどの
     場所に建っていました。

仮に、「踊る埴輪」ではなく「馬飼」(馬曳き人)の埴輪であったとされていたなら、ここまで有
名になることもなかったでしょうし、旧江南町の代名詞はおろか、東京国立博物館のキャラクター
「トーハクくん(本名:東 博 あずまひろし)」のモデル
となることもなかったでしょう・・・!!

散策日:令和4年(2022)6月25日(土)

踊る埴輪 野原古墳群(埼玉県熊谷市)

2022年01月12日 | 古墳


『緑と踊るはにわの里』とは、江南町(現・熊谷市)の代名詞でもあります。
その旧・江南町の野原古墳群の唯一の前方後円墳の野原古墳(既に消滅)から出土した埴輪がその形から、
踊る男女とも呼ばれる特徴的な人物埴輪で「踊る埴輪」と呼ばれ一躍有名になりました。
その後の研究から、踊っているのではなく馬を曳いている埴輪。つまり「馬曳人」埴輪というのが現在の
定説になっているようです。踊っていない「踊る埴輪」だったということになってしまいました。
そうした経緯はともかくとして、「踊る埴輪」が出土した和田川左岸の江南台地上に分布する終末期古墳
群の野原古墳群を訪ねてみました。

名 称:野原古墳群のはらこふんぐん
形 態:古墳群
時 代:古墳時代終末期~奈良時代(6世紀末~8世紀前半)
現 況:20数基現存
選 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:野原古墳群 昭和51年〔1976〕10月1日指定)
所在地:埼玉県熊谷市野原(旧・大里郡江南町)





『八幡神社と野原古墳群』説明板
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  八幡神社と野原古墳群
                               所在地 熊谷市野原
八幡神社の祭神は誉田別命で、御神体は御鏡と奇石である。
創立年代は不明であるが、寛永20年(1643)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じ
て社殿の造営に当たらせたことが社伝の棟札に記されている。また、宝暦11年(1761)、時の領主前田
半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。
前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社へ御供米一斗二升が献納されていたという。
 社前にある一対の石灯籠は、天保3年(1832)前田信知の後室が「武運長久、家士安穏、采地村民安
全」を祈願し献納したものである。
 なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。
 荒川の一支流和田川に面した南傾斜の小高い丘にある古墳は、昭和初年には30余基を数えたが、開墾
や採土等により損壊され、今は20数基を残すのみである。
 有名な「踊るはにわ」(昭和5年出土、国立博物館蔵)が出土した前方後円墳も神社西方にあったが、
現在は開墾されて桑畑となり、その跡をとどめていない。
 これらの古墳の築造は、6世紀後半から7世紀前半にかけて行われたものといわれ、当時、この地方に
かなりの勢力をもった豪族が居住してことを物語っている。
 平成11年12月                    埼玉県

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『八幡神社』




『拝殿』




社殿の左方に鎮座する境内末社




神社裏の様子  ここが古墳群と呼ばれる場所ですが、古墳らしきものが見当たりません?




かろうじて古墳と思しき土の盛り上がりを見つけましたが、他はどこにあるのかと更に北側に行っ
てみましたが竹林で古墳らしきものは皆無でした。




再び神社裏に戻りましたが、最初に目にした木の枝が積んである場所が何カ所もあるのが気になり
ました。
残されている古墳(円墳)の墳丘は僅かの高さしかなく、それを保護するためと古墳の位置を示す
ために木の枝を積んだ。つまり、ここが古墳だと勝手に解釈しました。
そう考えてみれば、数こそ数えませんでしたが、20数基はあるようでした。




こんな感じです




木の枝をどかしてみれば墳丘が現れるかもしれませんが、さすがにそれはできません。




台地の裾に並んでいる庚申塔などの石造物




八幡神社と野原古墳群の南方向を拝殿前から  写真中央に東西に流れる和田川があります




現地説明板にもあるよう「踊る男女の埴輪」は国立博物館に所蔵されており、現物を見ることはで
きませんが、野原古墳群の北西約4㎞のところに「押切橋南公園」に踊る男女の埴輪のモニュメント
があります。




「踊る男女の埴輪」モニュメント

散策日:令和3年(2021)12月21日(火)

塚廻り古墳群第4号古墳(群馬県太田市)

2021年06月26日 | 古墳


名 称:塚廻り古墳群第4号古墳(つかまわりこふんぐんだい4ごうこふん)
別 称:-
墳 形:帆立貝形古墳(造出付き円墳)  
規 模:墳丘長106m、円丘部84m、高さ7m、造り出し部幅18m、長さ16m
築 造:6世紀前半頃
出土品:円筒埴輪、形象埴輪
指 定:群馬県指定史跡(名称:塚廻り古墳群第4号古墳 昭和52年〔1927〕9月20日指定)
所在地:群馬県太田市龍舞町3089ほか(旧太田市)

塚廻り古墳群は1号墳から13号墳の13基からなりますが、その大半は削平されたり埋戻し保存されており、
第4号墳が古墳公園として整備され公開されています。
今回もこの場所に辿りゆくまでが大変でした。番地はあれどナビには表示されませんし、広い耕地の中で
墳丘がありませんので全く目立つことがありませんので・・・




北西方向から古墳公園の塚廻り4号墳を  
公園北西隅に「群馬県指定史跡塚廻り古墳群第4号古墳」の石標が建立されている


北東方向から塚廻り4号墳を 




『群馬県指定史跡 塚廻り古墳群第四号古墳』説明板
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 群馬県指定史跡 塚廻り古墳群第四号古墳
                             指定年月日 昭和52年9月20日
                             所 在 地 太田市龍舞町3089-2ほか
 昭和51年度に行われた太田市東部地区ほ場整備(土地改良)事業の際、偶然水田下から発見された7基の
古墳のひとつである。
 円丘部に台形の造り出し部を付け加えた形で、帆立貝式古墳と呼ばれる形式である。墳丘の全長は22.5m、
円丘部の直径17.7m、造り出し部は幅8.7m、長さ4.8mである。
 周囲に幅4.5mの堀を持つ。
 主体部は、円丘部中央と北側裾部の二か所で発見されており、後者は埴輪列を壊して造られている。
 墳丘部から円筒、朝顔形円筒、家形、器財、人物、馬の計304点の埴輪が出土している。これらの埴輪は、
その優れた造形を、埴輪祭式の様子をリアルに再現することが可能なことから、昭和60年に一括して国の重
要文化財に指定された。
 築造時期は、6世紀前半と推定される。
                                      平成27年3月25日 
                                      太田市教育委員会
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『国指定重要文化財「上野塚廻り古墳群出土埴輪」(模造)』説明板
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国指定重要文化財「上野塚廻り古墳群出土埴輪」(模造)
 この塚廻り古墳群第4号古墳に並べられている模造埴輪類は、発掘調査によって明らかにされた埴輪類を
忠実に復元製作し、出土状態からその配置を復元したものである。
 墳丘部には、円筒埴輪、盾形埴輪、家形埴輪、大刀などが配置されていた。
 造り出し部には、円筒埴輪のほか、人物埴輪や馬形埴輪が配置されていた。西端には4体の女子像が配置
され、その東部には椅子に座った男子、跪く男子などの7体の男子像が配置され、その北部には飾り馬と馬
子が配置されていた。
 このような埴輪の配列から、椅子に座った男子を中心人物として、首長権が継承される儀式を再現したの
ではないかと推察できる。
 各々の埴輪のつくりは表現も豊かで、造形的にも非常に優れており、この4号古墳出土の埴輪類を含め「上
野塚廻り古墳群出土埴輪 一括」として、昭和60年6月に国の重要文化財に指定された。現在、埴輪の現物は
群馬県立歴史博物館に保管されている。
   平成27年3月25日 
                                     太田市教育委員会
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上掲説明板にある「第4号古墳の埴輪配列」図




左側が「円丘部」  右側が「造り出し部」
高さを伴わない平面形で復元されているため離れたところから見ると墳形を確認しづらい?




台形の造り出し部に並んでいる埴輪




「円丘部」 周囲に円筒埴輪が並んでいます




「復元(模造)埴輪」 1




「復元(模造)埴輪」 2

散策日:令和3年(2021)5月24日(月)

女体山古墳(群馬県太田市)

2021年06月24日 | 古墳


名 称:女体山古墳(にょたいさんこふん)
別 称:-
墳 形:帆立貝形古墳(造出付き円墳)  
規 模:墳丘長106m、円丘部84m、高さ7m、造り出し部幅18m、長さ16m
築 造:5世紀前半頃
出土品:円筒埴輪、形象埴輪
指 定:国指定史跡(名称:女体山古墳 昭和2年〔1927〕4月8日指定)
所在地:群馬県太田市内ケ島町1506ほか(旧太田市)

女体山古墳は、天神山古墳の東の平坦地に造られた帆立貝形古墳で、帆立貝形古墳では全国第3位・関東
地方第1位の規模を持っています。 天神山古墳と女体山古墳は、ほぼ同一時期に同一方向を向いて造ら
れていることから、2つの古墳に埋葬された人物には、密接な関連があると考えられています。




女体山古墳墳丘南側に設けられている「造り出し部」




「造り出し部」に建てられている【史跡 女体山古墳】石標 「史跡 女体山古墳」説明板




【史跡 女体山古墳】石標




「史跡 女体山古墳」説明板から説明文を




「史跡 女体山古墳」説明板から測量図を




女体山古墳部分をアップで




白線で囲った部分が「造り出し部」




「造り出し部」左側(西側)部分周堀




「造り出し部」右側(東側)部分周堀




造り出し部側から見た墳丘




墳頂に鎮座する石祠




墳頂部を北西側から




墳丘北側




墳丘西側の周堀




北側道路からみた女体山古墳の北面




北方からみた女体山古墳の北東側




東方から見た女体山古墳東面ほぼ全体を  左端に造り出し部




東方から見た女体山古墳東面  左端に造り出し部




南東方向から  正面に「天神山古墳」 右に「女体山古墳」
左のセブンイレブンのある場所に「目塚1号墳」があったと思われます

散策日:令和3年(2021)5月20日(木)・24日(月)