四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

杉山城跡(埼玉県嵐山町)

2015年03月03日 | 続日本100名城


「杉山城跡」(所在地:埼玉県嵐山町杉山) を攻城してきました

『中世城郭の教科書』と評される【杉山城】は、市野川左岸の鎌倉街道を見下ろす比高40m程の丘陵に築かれた山城です。築城主は不明で、地元豪族の金子主水の築城
によるとの伝承はあるものの、文献資料にはあらわれていないようです。従来、城の縄張りの状態から後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力でしたが、
発掘調査にもとづく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきたようです。
これは、今までの年代より50年くらい遡るため、歴史が全然変わってしまい、常識が一気に覆ることになるので、縄張論と考古学との間で大論争となり、これを「杉山城問題」と言っているようです。

2008(平成20)年3月28日、すでに国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)に、松山城跡(吉見町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)
とともに杉山城が追加指定され、「比企城館跡群」の名称で一括して国の史跡に指定された。




杉山城跡は関越道嵐山小川ICの南方にあります





攻城は積善寺裏手の大手口から行うのが一般的なようです   縄張り図の右下




杉山城跡遠景




県道296号線から攻めた場合は「杉山城跡」等と書かれた道標のある交差点を矢印方向に




「杉山城跡大手入口」の看板の手前を左折




車でしたら積善寺の駐車場を使わせてもらう 本堂脇の坂を上がった所に駐車は遺構を壊すので好ましくありません
※2019年に見学者専用駐車場が玉ノ岡中学校の北側にできましたのでそちらを利用して下さい。それまでは積善寺
さんのご好意で使わせていただきましたが、今はお寺関係者だけの利用に限られています





右手のゆるい坂を上がるとすぐ「出郭」に  右の建物が「玉の岡中学校」




「出郭」です  杖と杉山城跡のリーフレットが置いてあります いやー親切ですね




リーフレットを1部頂いて攻城開始




早速案内板があります




読み難かったらルーペを使って読んで下さい(笑)




「大手口」です  ここにもイラスト入りの説明板が




「外郭」 あれ「馬出郭」だったかな 自信ありません




「木橋」 以前は竹で作った簡易な橋が架けてあったようです




「馬出郭」




「馬出郭」西側・「南三の郭」南東側の「空堀」




南三の郭南側の「空堀」・「土塁」




南三の郭南側の「空堀」・「土塁」




「竪堀」  他にも数条ありました




「井戸跡」  落城の際に敵方に使われないように蓋の石は落城の際に敵方に使われないようにしたのではないかとも




本郭西側の空堀




本郭と北2二の郭の間の空堀




「北二の郭」




「北二の郭 虎口」




「北二の郭 横堀」




「北三の郭」




「搦手口」




「本郭 北虎口」 下から




本郭西隅を下から




本郭の「杉山城址石碑」と「杉山城跡案内(説明)板」




「国指定史跡 杉山城跡」案内(説明)板




「本郭」表示板 出土品等を説明記載




城址碑後方の土塁上からの本郭全景




「本郭」 ①




「本郭 南虎口」




「本郭」 ②




「本郭」 ③




「本郭 東虎口」




本郭から「東二の郭」・「東三の郭」を




「東二の郭」




「東三の郭」




東三の郭から本郭方向を




「南二の郭」




「南二の郭 西虎口」




「井戸郭」




「井戸郭 東虎口」




井戸郭から井戸跡を




「食い違い虎口」




「南三の郭」




切岸「屏風折り」 ①




切岸「屏風折り」 ②




「帯郭」(土塁)・「切岸」




「帯郭」(土塁)




外郭から南二の郭・本郭を




帯郭・外郭・玉の岡中学校

『中世城郭の教科書』と評されるだけあって城歩き初心者の私でさえも素晴らしいと思う縄張りの城跡です。
城跡よく整備されていますし、各所にイラスト(写真)入りの案内板が立てられており、更にリーフレットまで置いてありとても分りやすく城攻めを堪能できます。

実は今回は2度目の攻城でした。初回は2009年5月のことですから約6年前のことになります。このころは城郭用語にも疎く、
「馬出」というのを見て、馬を出したり入れたりする場所なのかと思ったくらい知識が全くありませんでした(今もたいして変わりありませんが)

なお、掲載した写真の箇所表示に誤りがあるかもしれませんが、これだけ広い城跡ですので場所を確認しながら写真を撮ったつもりでもどこかで記憶違いをしているかもしれませんので・・・

攻城日:2015年(平成27年)3月2日(月) 続日本100名城選定前          

山田城跡(埼玉県滑川町)

2015年03月02日 | 100名城以外の城館跡


山田城跡   

形態・面積 : 卵型に近い長方形で約9100㎡ある。        
築造年代目的 : 形態からほぼ戦国時代の出城の一つとして考えられている。
遺 構 : 土塁(だいたい二重に見える)及空堀は良く残っており、水堀はない。                           
伝承記録:創築年代は不明ですが、忍の成田氏の被官、小高大和守父子及び贄田摂津守等が居城し、平山城としての城郭を 整えていたものと思われます。  
天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家によって陥落したと言われています。    
                                    (郭内に設置の案内板より)



特別なところを除き、通常では中世の城跡を攻城(見学)するのにお金がかかることはありませんが、この「山田城跡」はそうはいきません。攻城自体に費用が
発生するわけではありませんが、何せ、この山田城跡は「国営武蔵丘陵森林公園」の中にありますから入園料を支払って入園しないことには始まらないからです。




南口から入園してすぐの右手にある小高い山が「山田城跡」です




















攻城日:2015年(平成27年)2月28日(土) 

羽尾城跡(埼玉県滑川町)

2015年03月01日 | 100名城以外の城館跡


羽尾城(別名:宮前城) 所在地:埼玉県比企郡滑川町羽尾

『滑川村史』によれば築城は元亀3年(1572)松山城の出城として山崎若狭守が普請奉行となって当たり山田伊賀守が城主となる。
天正3年(1575)山田伊賀守が没し、山崎若狭守が城主となった。

天正18年(1590)豊臣秀の小田原の役により、豊臣方の前田利家軍に包囲され激戦数十日、戦闘熾烈の攻防を繰り返したが、4月上旬散る桜と共に陥落した。

そんな『羽尾城跡』を攻城してきました。




地図に示したよう羽尾城は市野川が大きく蛇行した北側丘陵上に築かれていました




この藪の先に羽尾城跡があります。右端の建物が羽尾打越・金光地集会所(写真失敗)




集会所から西方に少し行ったところに標識が設置されています。ここから攻城開始しました。




少し歩いたところの南側(進行方向右側)に土塁がありました。だいぶ低くなっていますが・・・




空堀です。ここもやはりだいぶ浅くなっています。土塁ともども長い時間の経過の成せることかも・・・




ここの土塁もだいぶ低くなっています。土塁南側は郭跡でしょうか(仮に「三郭」としておきます)




標柱が立てられています。左側の藪が「二郭」(やはり仮称で)でしょうか




右に折れずそのまま東方に進んでみます




両側(北側・南側)とも藪です。この道は堀跡でしょうか・・・




北側の藪




南側(二郭)の藪ですが、空堀跡があります。多くの時間の経過でこんなに浅くなってしまったと思うことにして




藪の間を抜けるとそこは畑でした。郭跡かどうかはわかりません。




一旦、市野川のある南側の道路に出てから「本郭跡」と思しき場所に上がりました。




中央の土塁の南側(左側)が「本郭跡」、北側(右側)が「二郭跡」でしょう


今回、『羽尾城跡』を攻城するにあたり、WEBで複数の方の攻城記を読ませていただき予備知識とさせていただきました。
案内標識や標柱が設置されていたことから「もしや」と希望を持ってしまいましたが、それ以外の案内板や標識等はなく、
城跡整備のあとは見られず、一部は農地になっていたり住宅地となっていたりで、どこまでが城域かわかりませんでした。
土塁は崩れ、空堀は埋まっている姿を見て、これでは何の防御の役には立たないと思ってしまいます。それが、多くの時間が
流れた結果によるものとわかってはいても、整備された城跡とつい比較してしまいます。
因みに、この『羽尾城跡』は埼玉県選定重要遺跡となっているようです。      

攻城日:2015年(平成27年)2月28日(土)