伝源経基館跡(鴻巣市大間) 別名:箕田城・大間城 埼玉県指定史跡
源経基は清和天皇の皇子貞純親王の子で、親王の第六子にあたることから六孫王と称した。
源姓を賜って源朝臣を称したが、武蔵介となって関東に下り、この地に館を構えたと伝えられている。
(現地案内板「伝源経基館跡」から抜粋)
この経基が清和源氏の祖であり、この流れをくむ者に鎌倉幕府の源頼朝、義経兄弟や朝日将軍木曽義仲などがいます。
いつ頃からこの館跡が源経基館跡と呼ばれるようになったかは不明だが、江戸時代に作られた『新編武蔵風土記稿』
(巻150足立郡之十六・大間村)による所が大きいとされる。
『将門記』には足立郡司判官代の武蔵武芝と争った時に『源経基が妻子を連れ比企郡狹服山(ひきぐんさふくやま・
さやきやま)に登っている』と記述があり、これを元にここが経基館跡であると考えられたようです。
しかし、確たるものもなく、発掘調査でもこれを裏付ける物の発見はなかったとのこと。これらのことから現段階では
あくまで伝承としての域を出ず「伝」源経基館跡と呼んでいるようです。
また、方形のこの館跡の遺構は平安時代のものではなく鎌倉時代から戦国時代のものであり、平安時代のものであった
としてもその後に手を加えられたのではないかといった見方をされている方もおります。
伝源経基館跡は県立鴻巣高校の南側に位置し、「城山ふるさとの森」として保護されています。
南側からみた伝源経基館跡 西側道路はかつては湿地帯であったといわれています
案内板 (長文につき内容は省略します)
標柱 文字が薄くなっていてよく読めませんが 「埼玉県指定史跡 伝源経基館跡」とあります
ここから館跡内へ
郭 ① (方位は失念 以下同様)
郭 ②
土塁 ①
土塁 ②
北西側の一段高くなったところに碑が建立されています
「六孫王経基城址」とあります これについてはここを源経基館跡と決めつけちゃっていいのという疑問の声も
北側にも標柱があります これは新しいようで文字もはっきりしています
空堀 ① 右側フェンス内が鴻巣高校
空堀 ②
空堀 ③ 西側です
散策日:2015年(平成27年)4月18日(土)