四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

平成30年度歴史講座「戦国の城館」第3回

2018年10月12日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
平成30年度歴史講座「戦国の城館」
第3回 国指定史跡「唐沢山城跡」の概要について
講師 太 田 嘉 彦 氏 (佐野市教育委員会文化財課係長)
日時 10月12日(金)13:45~15:30
会場 国立女性教育会館研修棟 講堂

を聴講してきました。




会場はいつもの女性教育会館研修棟 講堂




今回の資料(表紙)




今回のテーマの唐沢山城跡の高石垣     2015.03.10攻城時に撮影




二曲輪から本丸への虎口と鏡石        

唐沢山城跡は昨年4月6日に選定された「続日本100名城」のひとつ 機会あれば再攻城したいです

聴講日:平成30年(2018)10月12日(金)

分倍河原古戦場(東京都府中市)

2018年10月09日 | 古戦場・陣所


名 称:分倍河原古戦場
概 要:鎌倉時代末期、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で繰り広げられた合戦場跡
    この戦は新田義貞が北条氏を破り鎌倉幕府滅亡のきっかけとなる
指 定:都指定旧跡(大正8年〔1919〕10月1日指定)
遺 構:―
所在地:東京都府中市分梅町2丁目59番地の4(分倍河原古戦場碑の所在地)

元弘3年(1333)5月8日、上野国新田荘(群馬県太田市)生品神社で挙兵した新田義貞は、鎌倉に向けて進軍。義貞の南下を
阻止しようと差し向けられた幕府側との小手指ヶ原の合戦(埼玉県所沢市)で、長崎高重・桜田貞国を打ち破りました。続く久
米川の合戦(東京都東村山市)でも勝ち、ついで分倍河原の合戦に移りました。
幕府側は北条泰家を大将として向かわせ、新田軍は一度は敗れ後退しますが、義貞勢は援軍を受けて反撃し、幕府軍を大破、そ
のまま鎌倉に攻め込み、22日鎌倉幕府は滅亡しました。

そんな鎌倉幕府滅亡のきっかけ分倍川河原古戦場跡を訪ねてみました。古戦場跡は、現在、新田川分倍公園となっており、歴史
的な合戦の舞台となったとは思えない静かで穏やかな場所です。




「分倍河原古戦場碑」の標識が見えました




分倍河原古戦場碑がある新田川分梅公園入口
北条氏と新田氏が戦った場所ですので、「にったがわ」とよみたいところですが「しんでんがわ」と読みます。




「緑道・遊歩道案内図」
府中市には沢山の緑道・遊歩道が整備されているようです




入口から少し行ったところに目的のものが見えてきました




分倍河原古戦場碑と説明板




「分倍河原古戦場碑」
昭和10年、新田氏の子孫で、元男爵の新田義美氏の筆によるもの




「分倍河原古戦場」説明板




「武蔵府中郷土かるためぐり」標柱
 ほ 北条と新田の分倍古戦場




「新田川緑道」(しんでんがわりょくどう)
農業用の府中用水の流路である新田川にふたをして緑道して整備されたものだそうです




JR南武線・京王線の分倍河原駅の駅前ロータリーに、昭和63年(1988)、府中市によって建てられた「新田義貞公之像」
 所在地:府中市片町3丁目29番地の2




題字は、当時の府中市長吉野和男氏、像の製作は文化勲章受章者の富永直樹氏によるものだそうです。
その顔は、鎌倉の方向を見つめています。




折角ですから後ろ姿も




台座裏側に嵌め揉まれている説明板




「新田義貞公之像」を裏側から

ここまで来たら次は鎌倉か? まあ、その途中に「関戸古戦場」(東京都多摩市)・「極楽寺切通し」(神奈川県鎌倉市)・
「須崎古戦場」(鎌倉市)・「稲村ケ崎}(鎌倉市)でも戦いがあったようですから、これらまで回るのは厳しいです。
いっそ遡って挙兵の場所・群馬県太田市の生品神社か? 暫くは無理でしょう

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)

久米川古戦場 ③(東京都東村山市)

2018年10月06日 | 古戦場・陣所


名 称:久米川合戦の新田義貞後詰の地
概 要:元弘年間久米川の合戦の時新田義貞後詰を置いた所
指 定:―
遺 構:―
所在地:東京都東村山市久米川町5丁目 熊野神社

後詰を置いた所ということですので一時的な陣所であったのでしょう。いわば神社見学のようになってしまいますが、場所だ
けでも確認できればと訪ねてみました。なお、上記の名称は適当に付けただけですので。




「熊野神社」です。久米川村(町)の鎮守であることから久米川熊野神社と呼ばれるようです。




社号標と熊野神社由緒書 社号標の正面は道路ではなく参道を向いています。




熊野神社の由緒書(説明板) 由緒の中に《本社は、新田義貞が後詰を置いたとされる》と後詰に関する記述もあります。




狛犬、手水舎 その先に拝殿




「熊野宮」の扁額




参道を本堂側から




本殿  玉垣の朱色が陽に当たって映えています




拝殿と本殿




境内社




久米川神社崇教会集会所




久米川の富士塚
富士塚信仰が盛んになったのは江戸時代以降のようで、この富士塚は明治21年に築かれたようですから、この場所に新田義
貞が後詰を置いた頃には、この富士塚は未だなかったことになります。




富士塚ですが、もっと離れたところから全体を撮ればよかったと後悔しています。




塚の頂です  祠があったようですが見当たりませんでした。




熊野神社の北側「熊野公園」になっていますが、神社寄りにある池です。




「熊野公園」の一部
この熊野公園も熊野神社境内の一部のようです。これだけ広い境内でしたら、相当数の後詰の兵を置くことができたでしょう。

散策日:平成30年(2018)8月30日(木)

久米川古戦場 ②(埼玉県所沢市)

2018年10月03日 | 古戦場・陣所


名 称:新田義貞兜掛けの松・鎧稲荷
指 定:―
所在地:埼玉県所沢市久米2429 鳩峯八幡神社境内

元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府討幕のため挙兵した新田義貞は、武蔵国で幕府軍と衝突しました。この際、八国山に陣を
布いた義貞は、鳩峯八幡神社の社前の松に兜を掛け、境内に鎧を置いて戦勝祈願を行ったとの記録が残るそうです。
久米川古戦場跡散策の一環として、この参拝の時の兜をかけた「兜掛けの松」、鎧を置いた所に祀った「鎧稲荷」などの見学の
ため、埼玉県所沢市久米に鎮座する「鳩峯八幡神社」を参詣してきました。

なお、久米川古戦場跡は、現在の東京都東村山市諏訪町付近とされておりますが、鳩峯八幡神社は上記のとおり埼玉県所沢市に
所在していますので、本稿タイトルは「久米川古戦場②(埼玉県所沢市)」としました。埼玉県所沢市も東京都東村山市も元は
同じ武蔵国の中にありましたので地名を気にすることもないのでしょうが。




案内板「鎌倉街道(上道)のみちすじ」の中から当該部分を切り取り加筆しました。
〇で印した所に鳩峯八幡神社は鎮座しています。上のイラストが活きます。
埼玉県部分のみの鎌倉街道(上道)案内板のため久米川古戦場跡は入っていませんので文字は書き加えました。




鳩峯八幡神社の鳥居と社号標
旧社格は郷社  なお正式名称は「八幡神社」




「鳩峯八幡宮」の神額




参道を少し行くと鐘楼があります
神社になぜ鐘楼が。往時、鳩峯八幡神寺の別当はすぐ近くにある「仏眼寺」が当たっていましたが、神仏分離で分れました。
この洪鐘はその名残りのようで、洪鐘には仏眼寺及び当社由来が刻まれているそうです。




参集殿  




長い参道の先に社殿が見えてきました




宝物殿




この石段を上ると境内




手水舎  普通の水栓柱と蛇口が使われています




拝殿




拝殿




拝殿と本殿




扁額「鳩峯八幡宮」




神楽殿




鳩峯八幡神社案内板  所沢市観光協会設置

【由緒】の中に次の記述があります
《元弘3年(1333)5月、新田義貞公鎌倉討伐の折、八國山の将軍塚に陣し、当社に参拝して戦勝を祈願したと伝える。境
内には参拝の時兜をかけた「兜掛けの松」、鎧を置いた所に祀った「鎧稲荷」の祠の旧蹟がある。》




鳩峯八幡神社の文化財説明板   所沢市教育委員会設置




「兜掛けの松」と「新田義貞兜掛松 史蹟」碑

当時の松は枯れてしまい、その切り株に新たに植えられて数世代が経ったものが現在の松のようです。




「新田義貞兜掛松 史蹟」碑




石碑裏面

護良親王の令旨を受けた新田義貞は元弘3年5月8日、群馬県新田郡生品村生品明神の社前で、北条高時討伐の兵を挙げた時か
ら、5月22日鎌倉幕府が滅びるまでの経過がこと細かく書かれています。更に、義貞が戦勝を祈願し、その折、兜を脱いで神
前の松に架けた都の記録が当神社の記録に残されており、由来「兜掛けの松」として広く名を知られている。ここに由緒を石に
刻み、永く後世に伝えようとするものである。

とあります。「兜掛けの松」は単なる伝承ではなく記録があるということのようです。




社殿の斜め後ろにある「鎧稲荷」
この場所に祈願の際に脱いだ鎧を置いたということのようです。覆屋を見ても他の末社より手厚い扱いを受けている感じです。




八幡神社奥社




境内末社




摂社「八坂神社」




境内の一部




境内南側にある石段を下りると 摂社「久米水天宮」の境内




久米水天宮は独立の境内を持つ鳩峰八幡神社の摂社です
境内が独立していることから一見別々の神社のように思えます




久米水天宮拝殿
正式名称は「水天宮」のようですが、久米の地に鎮座することから久米水天宮と称されているようです




扁額「水天宮」




水天宮拝殿前にある休憩所(?)内の額




「久米水天宮」参道  右側の少し高くなったところが鳩峯八幡神社




「仏眼寺」

鳩峯八幡神社の南方50mくらいの所にありますが、鳩峯八幡神社の鐘楼の所で仏眼寺について触れましたのでスルーするわ
けにもいかず参考までに・・・




王禅山釋迦院と号す真言宗豊山派の寺院です。
例の石灯篭この寺にも2基ありました。所沢市内のお寺ですから・・・

散策日・平成30年(2018)8月29日(水)・30日(木)

久米川古戦場 ①(東京都東村山市)

2018年10月02日 | 古戦場・陣所


名 称:久米川古戦場
概 要:武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で
    行われた合戦の地
指 定:都指定旧跡(久米川古戦場の名称で 大正8年〔1919〕10月指定)
遺 構:将軍塚(埼玉県所沢市)
所在地:東京都東村山市諏訪町2丁目付近

小手指ヶ原の合戦に続いて行われた久米川合戦の古戦場跡及び関係場所を訪ねて来ました。




西宿公園  ここを目標にしたらよいかと思います
この公園の北側に更に小さな公園(西宿公園の一部)があり、そこに久米川古戦場跡」碑 「久米川古戦場」説明板があります。




久米川古戦場跡」碑  「久米川古戦場」説明板




東京都指定旧跡   
   久米川古戦場
                      所在地 東村山市諏訪町2丁目付近
                      指 定 大正8年10月

 北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永8年(12
71年)の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路
であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。
 『太平記』によれば、元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のた
め挙兵した新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍
との第二戦が行われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』によると、久米川合戦に勝った新田義貞が
塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190メートルの八国山は、駿河(富士)、伊豆(天城
山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山が眺め
られるのでこの名がついたといわれている。
 久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武2年(1335)の中先代の乱や応永23年(1416)と同24年(141
7)の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が進み当時の景観は偲ぶべきもない。
 国の重要文化財『元弘の板碑』は八国山山麓にあったものを文化年間(1804~18)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏
訪町1の26)に移したものである。

 平成10年3月 建設
                      東京都教育委員会




都立 八国山緑地の東端麓にあるハイキングコース入口と案内板 




下部が草で見えませんが 「都立 八国山緑地」案内板の全体を




久米川古戦場跡の文字が見えます  このあたり一帯で戦いがあったようです




所沢市久米地内を流れる柳瀬川(旧久米川)に架かる「勢揃橋(せいぞろいばし)」
新田義貞公がここに全軍を勢揃いさせたことからついたこの名がついた橋だそうです。当然、、全軍が橋の上にというわけには
いきませんが・・・




当時は家もなかったでしょうし、橋には欄干もなかったでしょう




八国山緑地には埼玉県所沢市松ヶ丘地内から登りましたが、例の如くすんなりとはいかずに入口が分らずに行ったり来たり。




尾根沿いの所沢市側にも立派な案内板が設置されています




「勢揃橋」の所が丁度写真で隠れてしまっていますので、◎勢揃橋 と加筆しておきました(右上)
0.1kmでは目指すというほどの距離ではありませんが、将軍塚を目指して




綺麗に整備された緑地です  この時も清掃中の作業員の方にお会いしました




将軍塚のある場所に着きました




「元弘青石塔婆所在跡」碑
「元弘の板碑」と呼ばれるこの板碑には久米川の合戦を裏付ける記述と、この戦いで亡くなった3名のなが刻まれており、実
物は現在、「徳蔵寺」にあります。




「将軍塚」説明板




塚と言ってもこんもりした程度でそれほどの高さはありません




将軍塚碑




将軍塚碑の裏面
「元弘三年 新田義貞公鎌倉討伐ノ際 白旗ヲ建テラレタル遺蹟」と記されています。




「勝陣場橋(かつじんばばし)」  北川に架かる橋で東村山市と所沢市に跨っています
戦いに勝利した新田軍が通ったとも陣を置いた場所とも言われます。
道が狭いうえに交通量が多くてこれ1枚を撮るのも苦労しました(笑)




「将陣場橋(しょうじんばばし)」  北川に架かる橋で東村山市須和町2丁目地内にあります
内容は上記と同様です




「徳蔵寺」
山号を「福寿山」と号する臨済宗大徳寺派に属するお寺で、東村山市諏訪町1丁目26-3に所在します
「徳蔵寺 板碑保存館」に保管されている「元弘の板碑」を拝観目的に訪れましたが、折角ですので本堂等の写真も何枚か




山門から本堂方向に  扉にある紋は「左三つ巴」




六地蔵尊等の石仏




本堂前から山門方向  例の(増上寺→西武鉄道→寄進先)大きな石灯籠がこの徳蔵寺にも4基ありました




本堂




山道脇の掲示板に貼ってある「江戸名所図絵」




庭園




庭園  左側の建物は「虚心庵」(茶室)




ここで板碑保存館拝観の申し込みをします  拝観料(おとな(高校生以上)200円




「徳蔵寺 板碑保存館」




「元弘の碑」




板碑保存館は昭和43年(2003)に完成した2階建ての建物で、1階には、石器・土器・国分寺瓦・古銭等 2階には、元弘
の碑を中心に、板碑・宝篋印塔・五輪塔・道標等が展示されています。
保存館ができる以前は数多くの板碑を本堂に所蔵していたことから、「ちらかし寺」とも呼ばれていたようです
とにかく沢山の板碑等が展示されており、よくここまで収集したかと感心します。
これから拝観に行く方の楽しみを奪ってはいけませんので、展示物の写真はこれだけにしておきます。




「元弘の碑」の実物の写真を先に載せましたが、ガラスに反射してよくわかりませんので、拝観時に頂いたリーフレットの中の
写真を載せておきます。




上掲「元弘の碑」の写真にある説明文




徳蔵寺の西側を流れる「前川」 下流で「北川」に合流

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)・30日(木)

小手指ヶ原古戦場(埼玉県所沢市)

2018年10月01日 | 古戦場・陣所


名 称:小手指ヶ原古戦場
概 要:越後上州方面から鎌倉への交通路にあたり、新田、足利の対立をはじめとする幾多の戦場として知られる
指 定:県指定旧跡(小手指原古戦場の名称で 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:白旗塚(伝承)
所在地:埼玉県所沢市北野二丁目12番地の4(石碑の所在地)

所沢市内の鎌倉街道上道(かみつみち)沿いにある小手指ヶ原古戦場跡を訪ねてみました。
詳細については現地説明板の内容を下記に転記しますのでそちらを参考にしてください。




まずは小手指ヶ原古戦場がどの辺にあったのか地図で説明しておきます。
この案内板は、埼玉県を通る鎌倉街道(上道)にある城館跡・古戦場等の史跡が表示されているもので、県内の鎌倉街道(上道)の
要所要所に設置されているようです。何か所に設置されているかまでは把握しておりませんが、私は4か所で目にしております。
設置から相当数の年数が経過しているようで、どれも汚れが酷かったり傷がついたりしております。
前置きが長くなりましたが、赤い線が鎌倉街道(上道)で、支道があったりしますので何筋にもなっています。
左下の黄色の〇印をしたところが小手指ヶ原古戦場跡です。




上の写真は案内板全体のため広範囲で見にくいとは思いますが、位置関係を知る上での参考にと載せました。これは小手指ヶ
原古戦場跡近辺を切り出してみました。
これなら文字もどうにか読めるかと思います。




小手指ヶ原古戦場跡の一画で鎌倉街道沿いに建立されている石碑と説明板




小手指原古戦場石碑




埼玉県指定文化財(旧跡)
小手指ヶ原古戦場

 小手指ヶ原は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の野原で、北方は入曾
(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位
置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
 特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉
攻めがあります。同年5月8日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を
一路南下した新田軍は11日に、ここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどであった一行は、進むにつ
れ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。
 新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も打ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍
は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌12日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍
は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂へ
の新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
 なお、背後にある小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立て
たという伝承があります。

   平成22年3月
                                     所沢市教育委員会




小手指原古戦場石碑之道向かいにある保育園前の道標




白旗塚への道  石碑から約60m程の所に白旗塚はあります  かつてこの辺りでも合戦が繰り広げられたのでしょう 




白旗塚  登り口左側に「白旗塚土盛修復記念碑」  右側に「古戦場碑」




《古戦場碑》

古武将の御魂祭れりこの塚を  護り通せと先祖より受
 此の塚を壊せし者は忽ちに  霊魔を受けて  死するやもあり
  武蔵野の小手指ヶ原古戦場  月の光は変らざりけ里




白旗塚土盛修復記念碑




白旗塚土盛修復記念碑  標柱の両側面いっぱいに白旗塚土盛修復の経緯が次のように書かれています。

この白旗塚は太平記縁の古戦場の一画にあり一説には古墳とも云い伝えられてきが 慶応4年村民の手により浅間神社(富士仙
元)の石祠を建てて浅間信仰の塚となった
以降百140年余に亘り風雨に晒され表土の流出が続き 白旗塚碑石祠共土台が露出転倒する事態となった 
さて 白旗塚隣地に農園をもつ北野中学校では 郷土の文化財を守ることは教育上の意義があると平成19年9月修理工事に着
手 盛土の土は地元の岩田清氏が提供 教員生徒全員が一丸となってバケツに土を入れ山頂と周辺部に運び上げ5ヶ年の歳月を
かけて修復し砂防に※※を植え平成24年1月31日をもって本事業を完了した盛土の総量約50立方米 生徒数(白旗塚自治
会の協力を含む)350名 この間文化財ぼ法師活動に尽力された北野中学校
   平成24年3月吉日 建立 

こうしたことによって今も白旗塚が守られているかと思うと感慨深いものがあります。




白旗塚土盛修復記念碑のある場所の上り口から上がって行きました




白旗塚の頂部に建立されている石祠と石碑




石碑「白旗塚・浅間神社」 をアップで




こちらは南側の上り口です





白旗束の南西方向の景色  ここでも合戦が繰り広げられたのでしょう




この鎌倉街道上道(何本かあるうちの支道のひとつ?)沿いの台地の長閑な田園風景があるこの付近一帯が古戦場跡ですが、
だいぶ宅地化が進んでいるようです。




国道463号線(所沢入間バイパス)「誓詞橋交差点」

誓詞橋(せいしがはし)は、砂川堀という小さな流れにかけられた橋で、新田義貞が所属した軍兵に忠誠を誓わせたところと
伝えられています。橋は交差点内部を斜めに横切っています。橋は小さく、欄干の一部(無論、後世の橋ですが)が残ってい
ます。注視しないと見落とします。国道の信号は5差路になっていて、小手指原から下りて来た角に誓詞橋の石碑があります。

※橋、交差点は「せいしがはし」と橋は濁らず バス停は「せいしがばし」と濁るようです




「誓詞ヶ橋」の銘板




欄干は進軍する馬に跨った兵の装飾になっています




橋と国道を挟んだ反対側(小手指古戦場跡寄り)に建立されている
左:誓詞橋の石碑   右:西国・坂東・秩父百番供養塔




誓詞橋の石碑 

今回も1度の散策では用が済まずに2度足を運ぶ。それでもまだ見落としに気付き3日目。これ以上細かなことまで気をかけ
たらあと何回行く羽目になるかも知れませんので取敢えずはこの程度で妥協しておきましょう。

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)・29日(水)・30日(木)