貧乏道は捨離行と似ている。
命は求心力で守る。
求心力は「我」から出る。
この肉体世界は「我」が無いと死んでしまうのだ。
「我」を無くすと、この世にいる意味を失う。
「我」は求心力で成り立っている。
「調和」は遠心力で成り立っている。
この世は多種多様な万物があるのだ。
自他が存在できるのは「調和」があるからだ。
求心力は遠心力とのバランスで保たれる。
求める力が強いと、本体を壊してしまう。
出会う「他」にも大きな迷惑をする。
つまり「我」を無くしては生きられないが、
主張しすぎると「自」を壊し「他」を不調にする。
ブッちゃん(仏陀)の指摘した「中道」
正道だと訳すから難しくなる。
難しい道は大抵間違うものだ。
未熟な人間が歩くんだぜ。
「いいかげん」と訳せば間違いは少ない。
ブッちゃんは難しい事は言わない。
この世はヒネクレて創られている。
求めると得られる。
求め続けると失う。
それが「正しさ」でも「幸せ」でも同じだ。
だが「我」がある限り求めてしまう。
哀しい人の性というものだ。
哀しいモノは抱きしめてやるのが自然だ。
だから「我」は嫌うでなく、可愛がるモノだ。
この世はヒネクレている。
嫌うと大きくなる「我」だが、
可愛がると小さくなってしまう。
結構・・・テレ屋さんだ・・・。
「強い我」は自立できないが、
「小さい我」なら自立できる。
「自立は共生の自覚」だからだ。
求め、得たモノは捨ててこそ、役に立つ。
捨てる、離れる行を「捨離行」というが、
自分の霊性を高める為じゃない。
そんな事にとらわれる限り、無駄な時を過ごすだけだ。
自他の調和(幸せ)だから捨てるだけだ。
一度得ればいいじゃない。
一度味わえばいいじゃない。
捨てれば軽くなる仕組みだ。
離せば自他が観える仕組みだ。
貧乏道は自他が喜ぶ方法を示している。
というわけで、早速、現金などはワシに送ろう。
捨てれば幸せになれるのだ。
(こう言う宗教組織が世の中には多い。
もちろん、ワシも遠慮なく便乗するぞ~)
大丈夫!ワシが不幸の種(現金)は引き受けるから。
(本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間・氣功療法院」