佐渡先生は自然体だ。
自然体を「本能の赴くまま」と訳すと間違う。
自然は調和で成り立っている。
自分勝手でも他人任せでもない。
「自他の調和」が自然体というものだ。
この世は、自と他が混同、混合している。
だから調和度が増すほど、息が楽になる。
自然体は、自他が楽になる生き方だ。
自他の区別や摩擦や決り事は、
「ゆるやか」なほど、楽に生きられる。
とはいえ、人間は未完成品だ。
硬かったり、柔らかかったりして触れ合う。
(遠慮なく、意味深に受け取ってくれ)
「やわらぎ」というのは柔らかいことじゃない。
硬かったり、柔らかかったり、自由に出来ることだ。
だから、佐渡先生も時々は硬いセリフもある。
「百里の道を行くときは、九十九里をもって半ばとせよ」
もう少しで着ける、という時に言った言葉だ。
優しいなぁ・・・佐渡先生は・・・。
ワシはもっと冷たい。
「百里目に着いたら、百里だ」
到着しないと着かない。
当たり前なんだけど、当たり前が通用しないのが常識だ。
到着地が見えた(と思い込んでいる場合が多い)だけで、
アレコレ着いた感想を話す評論家が多い。
他人の感想をそのまま話す人も多い。
まぁ、それもいいけど・・・空っぽすぎないかぁ?
せっかく自分があるのに、もったいなくないかぁ?
完成されたエラソウな意見もいいけど、
未完成でもその人の言葉が魅力あると思うがなぁ。
佐渡先生や故御師匠様は独自だった。
個性溢れる言葉が素敵だった。
ワシは10以上年たった今でも活き活きと思い出す。
10年以上かかって、意味が光りだす。
生きている言葉は、素敵だ。
ワシも言葉に生命を吹き込んで書いている。
(上手くいく時もたまにはある・・・)
「個性」は生きている証拠だ。
ワシが佐渡先生や故御師匠様に惹かれたのは、
「個性」があり「自然体」だったからだな。
個性だけでは、アクになる。
自然体(調和)と合体で魅力となる。
さて、これから、何処まで近づけるか・・・
ワシは
佐渡先生のように、故御師匠様のように、
いいかげんで節操の無い人になりたい。
地球の未来を続ける為に出航したヤマトだ。
何とか間に合いそうに帰ってきた。
その時の沖田艦長の最後の言葉がある。
「佐渡先生・・・ありがとう」
(本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間・氣功療法院」