水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第四章(3)
舎利子 色不異空 空不異色
ワシの訳は「お前ぇよ~」だ。
ワシのブッちゃん(仏陀)イメージがある。
べらんめぇ口調のオッサンだ。
もちろん、魅力的であるのはいうまでもない。
カンちゃん(観音)が舎利子に話しかけたと訳されることが多い。
観自在は各自の内を観る方法(冥想)だ。
カンちゃん(冥想)が話してくれているという表現でもいい。
だが、観音菩薩という特殊な存在が話しているのではない。
ブッちゃん(の観自在)が話している。
それをアンタ達(玄奘も)の観自在が仲立をしている。
舎利子に話しかけていながら、アンタ達にも話しかけている。
ブッちゃんがアンタ達に直接話しかけているんだぜ。
心経って、気分がいいと思うぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第四章(2)
舎利子 色不異空 空不異色
「舎利子」は呼びかけの言葉だ。
「お前さん・貴殿・アンタ・君」なんでもいい。
一応ここから話言葉に変わるからだ。
場面は、二つ(以上)の世界に重なる。
仏陀が舎利子(シャリープトラ)に話しかけた。
同時に幾つかの場面が重なる。
冥想で同調した玄奘に話しかけた。
心経を通じて、読者に話かけた。
どれでもいい。
「行深」中だ。
2600年前の仏陀と同調する。
仏陀も舎利子も実在人物だ。
丁度、その場面に同調したのだ。
冥想は時間と空間を超えてしまうのだ。
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第四章(1)
舎利子 色不異空 空不異色
第二章、第三章で一区切り。
「まぁ、何とかなるさぁ~」ということだった。
第四章以降は更に細かく、繰り返しの言葉が続く。
幾ら説明しても、言葉では説明出来切れないからだ。
様々な理解段階があるから、繰り返しは無駄じゃない。
「舎利子」は実在人物名。
でも経だから、もちろん比喩でもいい。
経はマトモに受け取ってもいい。
経は、とてもヒネクレているのも事実だ。
どんな段階からでも活かせるようにできている。
この世を創ったグレちゃんはヒネクレている。
超素直という表現でもいい。
ヒネクレと素直は表現の違いだ。
素晴しい経もグレちゃん(の仕組み)に対応する。
どっちだって、いいんだなぁ・・・。
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第三章(12)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「度一切苦厄」の部分はゲンちゃんのオリジナル。
原文にはない言葉らしい。
ゲンちゃん(玄奘)は何故この言葉を付け加えたか?
膨大な原文の心(しん)を書いているのだ。
余計な言葉など、通常なら挿入しない。
だが、ゲンちゃんは加えた。
それは、この心経が頭で書いたものではないからだ。
「観自在菩薩行深」は「深い冥想」だ。
ゲンちゃんは行深しながら書いた。
すると大元のブッちゃん(仏陀)と同調したのだ。
つまり、この言葉はブッちゃんの言葉だった。
それも抜かす事の出来ない言葉だったのだ。
原文を書いたのも高僧だろう。
だが、ゲンちゃんは原文を超えて心経にした。
直接ブッちゃんの言葉と繋がったのだ。
その証拠がこの「度一切苦厄」の部分なのだなぁ。
次章からは話言葉の部分になる。
何故、話言葉になるのかは、ここにヒントがあったのだ。
このとらえ方はワシの独解だ。
だが、ワシだけのオリジナルではないと思う。
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第三章(11)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
ワシ的訳。
「この世は全部イイカゲンだぁ~、と解るぜ。
苦しさや辛さは、皆幻みたいなもんだ。
だから、どうにかなるから安心しなよ」
これなら誰にでも話が通じるだろ。
この第二章と三章だけで救われる。
ケモノや妖怪や、ついでに人間にも通じる。
聞くモノ達は嬉しくなる。
難しい話など、誰が聞くか。
そんなの一部のマニアだけだ。
心経は簡潔で、やわらかく書かれている。
救いや安心は「やわらか」にあるんだぜ。
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第三章(10)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「一切」は「一」を切る・・・。
全てを切る、という訳でも通じる。
「度一切苦厄」
「苦厄」の全てを切って渡す。
これでも意味は通じる。
だが、ワシはヘソ曲がりだ。
それでは面白くない。
ワシは「切」を「幻」と訳してみた。
すると「(どうせ)全て幻の・・・」となる。
これも、オリジナルの訳だと思うぜ。
ならば「度」も「勝手に渡ってしまう」ではイマイチ。
ここは「どうにか、なるもんだ」と訳そうぜ。
これでこの章の一文の意味が解りやすくなる。
何しろ、ケモノや妖怪などに話しているのだ。
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第三章(9)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「度」は「渡る」の意味。
渡す、ではなく、渡るのだ。
勝手に渡ってしまうのだ。
ど、何処へ?
な、何が?
「一」は「全て」という意味だ。
始め、初め、という意味もある。
「万(よろず)」を含む「はじめ」なのだ。
「一」は深い意味を内臓している。
ここでは「最初から(始め)から全て」だろうなぁ。
「一」と「一切」は違う。
「一切」を「全て」と訳すのが多い。
「切」を強調字とするのは安易だと思うぞ。
ゲンちゃんはナマケモノだ。
膨大な経を省略して心経を書いたのだ。
「一」と「一切」が同じなら「一」にするさぁ。
そう思わんかぁ?
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第三章(8)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
更にワシ流に「空」を訳す。
「いいかげん」・・・。
おそらく、日本でワシ一人だけだろう。
「空」を「いいかげん」と訳したのは。
だが、ゲンちゃんは頷いてくれると思うぞ。
この世は全て、いいかげんだぁ~。
(五蘊皆空)
自分で書いていても、惚れ惚れする訳だなぁ。
多分・・・書かされているのだと思う。
時々、御筆先様が下りるのだ。
「空」が「いいかげん」なら「寂」も同じだ。
誰の心の底にも「いいかげん」がある。
無常、万物流転。
同じ意味だ。
あらゆるモノは「いいかげん」なのだ。
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第三章(7)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
誰でも心を持っている。
誰でも宇宙に匹敵する心を持っている。
だから、誰でも「空」を理解できるようになっている。
ゲンちゃん(玄奘)はサービス精神旺盛だ。
心経は幾つもの仕掛けで書かれている。
「空」を理解する事。
それは「冥想」の理解と実践。
それは「この世」の姿を知る事。
それは「自分」の姿を知る事。
それは「こころ」の使い方。
一つが万事。
メンドウクサガリ屋の経典だ。
何か一つ理解できればいい。
理解とは実践が伴う行いだ。
ゲンちゃんは、ホンマモンの高僧だ。
だから、メンドウクサガリ屋なのだ。
心経は短く深い。
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第三章(6)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
素直に見れば、観えてくる。
大抵は、そんなものだ。
「空」を素直に見る。
・・・み、見えない・・・
・・・む、空しい・・・
空(くう)は空(むな)しいモノなのだ。
空と対応する心。
それを仏教的には「寂(じゃく)」という。
感情的な寂しさではない。
心の底は知っている。
心の底は「空」に通じている。
本質に寂があるのだ。
それは、何があっても揺るがないモノだ。
素直に心を観れば、寂がある。
寂は不安になる要素ではない。
安心できる基礎となっている。
「空」は頭で理解するモノじゃない。
感覚で理解するのはマレだ。
そういう時には心を使おう。
心は宇宙に匹敵する大きさがある。
心に反応させると「空」は観えるのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)