水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・96」

2007-11-10 19:21:14 | Weblog



  第八章(7)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

「六根」とセットになっているのが「六境」だ。
眼耳鼻舌身意に対応して色声香味触法がある。
五感覚器官がそれぞれ認識する相手だな。
そして意根(心)が判断する相手が法境(思い込み)だ。
それぞれがペアなのだが、正誤は問わない。
ロクデナシの男とジダラクな女のペアかもしれない。
(味があって似合いのペアだと思っている)

だがなぁ・・・
六境が六根に対応するのは、誰でも知っている。
眼が認識しているのは、見えるモノだ。
耳は、聞こえるモノを認識するのだ。
今更説明はいらない。

六根を「無い無い」と訳したとする。
ならば六境をワザワザ「無い無い」と訳さないだろ。
六根あっての六境だもの・・・。
何故、六境を続けて書いたか?
ここにも仕掛けがあるに違いない。
オチャメなブッちゃん(仏陀)やゲンちゃん(玄奘)だ。
マトモに訳したらガッカリするかもしれないぜ。


      
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・95」

2007-11-09 10:56:53 | Weblog




  第八章(6)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

「観自在(冥想)」すれば六根がイイカゲンだと理解できる。
理解できると素直になれる。
素直になれば、道は見える。
歩き方は「こだわるな」と当たり前に気づく。

六根(空)は「無(こだわるな)」によって活きる。
空はいつでも無で活きるのだ。
「この世の仕組みは空だぁ!」
などと知っても意味が無い。
活かせなければ、何事も意味が無い。
知るだけでは、何も意味が無いのだ。

勉強する。
知識を広げる。
それだけでは、何の意味も無い。
まして、資格や地位を得ても意味がない。
下手をすれば、害になるだけだ。
全ての出来事は、活かして意味が生まれる。

     
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・94」

2007-11-08 10:25:42 | Weblog




  第八章(5)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

ブッちゃんは常に光と希望を話している。
六根は正確な判断出来ない。
これは困った事ではないのだ。
幅が広い、という事なのだ。
イイカゲンは、大きな範囲を覆っているのだ。

だが、客観できる方法もある。
それが、第二章の最初の「観自在」だ。
自の在を観ると・・・自を客観視できる。
自分を見つめると、自分を離れる事ができる。

この世の仕組みはヒネクレているのだ。
放れば理解できる。
捨てれば、得られる。
潜れば、木の上から見渡せる。
 

     
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・93」

2007-11-07 13:01:20 | Weblog



  第八章(4)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

この六根というヤツはイイカゲンだ。
「色(肉体)即是(は)空(イイカゲンだぁ)」
五根の感覚を認識するのが自分しかいない。
客観的には認識できない仕組みだ。

(正確にいえば感覚器官には判断能力が無い。
感覚を認識するのは脳なのだが、
そんなメンドウな話を衆生にはしない。
一応感覚器官が認識している、と仮定して話している)

その認識に基づいて、更に意根(心)が動く。
心は元々揺れ続けるヤツなのだ。
だから「判断」は二重にイイカゲンなんだなぁ。
(六根がイイカゲンなのは実は優れた能力なのだが、
その説明はここではしていない)


     
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・92」

2007-11-06 10:46:07 | Weblog




  第八章(3)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

耳も人によって能力の違いがある。
ある音は聞こえるが、ある音は聞こえない。
鼻もそれぞれ違う。
舌の感覚も人によって、動物によって違う。
身体感覚は千差万別だ。

心なんて、自分でさえ一定にする事が難しい。
心の中には星の数ほどの、多種多様なカケラがある。
それが、常に揺れ動いているんだぜ。
同じ体験でも他の心とは正反対の受け止め方さえする。
それでも、心は「有る」のだ。
「無い」わけじゃないぜ。

だからこそ「無」は「こだわらない」という意味なのだ。
この世は自分一人の世界じゃないんだぜ。
いろいろな眼があり耳がある。
様々な思いや感じ方がある。
見た事や感じた事を「確か」だと思うなよ。
大切なのは「こだわらない」事の方なんだぜ。

ブッちゃんは、一つ一つ丁寧に説明している。
     
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・91」

2007-11-05 10:36:39 | Weblog



  第八章(2)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

「無」を「ない」と訳したら「無い無い」づくし。
眼も耳も鼻も舌も身体も心も・・・となる。
その後の言葉も「無い無い」ばかりになる。
それでは、あまりに芸が無い・・・。

訳だって芸のうち。
芸は他を楽しませる為にあるのだ。
「無い無い」と言われて喜ぶ衆生はいない。
病は無い、苦しみも無い、現象も無い、では納得できない。
言われても、楽になれない。
「無い」と訳したら、無芸のツマラン人間になる。

「無」はアリなのだ。
アリもアリ、オオアリだ。
どんな眼も大丈夫、気にするな。
濁り目だって、偏見だって大丈夫だ。
どんな風に見えたって、いいんだぜ。
例え、見えなくっても、いいんだぜ。
一人一人、見え方なんざ、違って当たり前だぁ。

    
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・90」

2007-11-04 12:07:13 | Weblog



  第八章(1)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

眼耳鼻舌身意は五感覚器官と脳(心)だ。
特に仏教用語で「六根」という。
(ちなみに男性器は入っていないぞ・・・)
「六根清浄(しょうじょう)」という言葉が有名。

六根を清浄にしたい気持ちは(一応)解る。
だけど、無理に近いと思うぜ。
五根清浄までは完璧でなくても、ある程度なれるだろう。
だが意根(心)まで清浄な人はなぁ・・・
地球上で数名いるかどうか・・・
(いない、とも言えないんだなぁ・・・)
たぶんアナタの可能性は限りなくゼロに近い・・・。
ワシは間違いなく(一つも)清浄から程遠い・・・。

ブッちゃんは衆生に「聖人をめざせ!」とは言わない。
その逆でいいんだぜ、と優しく話した。
「六根清浄」でなくていいんだぜ、と話しているのだ。
それが六根に「無」を付けた理由だ。

    
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・89」

2007-11-03 17:41:26 | Weblog



  第七章(11)
  是故空中無色 無受想行識 

ワシ的訳。
(第六章からの続きの言葉)
「このように仕組みはイイカゲンだからよ、
この世の出来事に、こだわる事ぁねぇぜ。
自分の心や行いだって、イイカゲンなんだぜ。
失敗や間違いなんて当たり前なんだ。
そんな事にも、こだわらなくて大丈夫だぁ。
苦しみや病だって、こだわるなよ。
大丈夫。何とかなるぜ」

ブッちゃんは衆生達を安心させる為に伝法をしている。
そして、実際に楽になる方法を説法しているのだ。
その大きな鍵が「無(こだわるなよ)」だ。
「空」が仕組みの説明。
「無」が実践方法だ。

この世自体もイイカゲンなのだが、
この世を認識する自分側の感覚や心や考えもアイマイなのだ。
そのイイカゲンは「希望」であり「救い」である。
ただし、希望や救いになるには「こだわらない」事が重要になる。
自分の感覚や心が、つい「確か」だと勘違いしやすい。
だから、この後もブッちゃんは丁寧に話を続けるのだ。
  
  
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・88」

2007-11-02 11:13:30 | Weblog



  第七章(10)
  是故空中無色 無受想行識 

無(こだわるな)だけでは難しい。
意識は「こだわり」で働こうとするからだ。
だが、空(イイカゲン)を認めれば難しくない。
仕組みが「空」なら「無」は当たり前になるからだ。
心経は「空と無」を示した経なのだ。

無は空で活きる。
空は無で活きる。
「空即生無・無即活空」
「是故空中無・是故無中空」
無と空は強い絆で結ばれた愛人同士・・・。

鍵があれば、経は解ける。
漢字だらけの心経も意味が解ける。
すると、心経は結構オチャメに書かれているのが判る。
ゲンちゃんは高僧だからヒョウキンなのだ。
  
  
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷説般若心経・87」

2007-11-01 10:34:46 | Weblog



  第七章(9)
  是故空中無色 無受想行識 

元々、判断力は当てにならない。
特に人間の判断は当てにならない。
判断できる、と勘違いしている人間が多い。
マトモな判断ができたら、危機的な現状にならない。
だからブッちゃんは、ここから更に丁寧に話す。
いかに、いろいろが当てにならないか、を話す。

判断できない人間の段階だもの。
真実や真理を追い求めても判断できない。
無駄じゃないけど、捕まえられない。
出来るのは、追い求める事じゃない。
手放す事なのだ。

方向を向く、という事は大切だろう。
楽になれる方向と一致しているのなら。
だが、真実や真理を捕まえられると思ったら、
その時点で方向が狂う。
ブッちゃんは、自らの修行体験で知っている。
そして「無」という鍵を手に入れた。

  
  
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする