水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第八章(7)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
「六根」とセットになっているのが「六境」だ。
眼耳鼻舌身意に対応して色声香味触法がある。
五感覚器官がそれぞれ認識する相手だな。
そして意根(心)が判断する相手が法境(思い込み)だ。
それぞれがペアなのだが、正誤は問わない。
ロクデナシの男とジダラクな女のペアかもしれない。
(味があって似合いのペアだと思っている)
だがなぁ・・・
六境が六根に対応するのは、誰でも知っている。
眼が認識しているのは、見えるモノだ。
耳は、聞こえるモノを認識するのだ。
今更説明はいらない。
六根を「無い無い」と訳したとする。
ならば六境をワザワザ「無い無い」と訳さないだろ。
六根あっての六境だもの・・・。
何故、六境を続けて書いたか?
ここにも仕掛けがあるに違いない。
オチャメなブッちゃん(仏陀)やゲンちゃん(玄奘)だ。
マトモに訳したらガッカリするかもしれないぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第八章(6)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
「観自在(冥想)」すれば六根がイイカゲンだと理解できる。
理解できると素直になれる。
素直になれば、道は見える。
歩き方は「こだわるな」と当たり前に気づく。
六根(空)は「無(こだわるな)」によって活きる。
空はいつでも無で活きるのだ。
「この世の仕組みは空だぁ!」
などと知っても意味が無い。
活かせなければ、何事も意味が無い。
知るだけでは、何も意味が無いのだ。
勉強する。
知識を広げる。
それだけでは、何の意味も無い。
まして、資格や地位を得ても意味がない。
下手をすれば、害になるだけだ。
全ての出来事は、活かして意味が生まれる。
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第八章(5)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
ブッちゃんは常に光と希望を話している。
六根は正確な判断出来ない。
これは困った事ではないのだ。
幅が広い、という事なのだ。
イイカゲンは、大きな範囲を覆っているのだ。
だが、客観できる方法もある。
それが、第二章の最初の「観自在」だ。
自の在を観ると・・・自を客観視できる。
自分を見つめると、自分を離れる事ができる。
この世の仕組みはヒネクレているのだ。
放れば理解できる。
捨てれば、得られる。
潜れば、木の上から見渡せる。
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第八章(4)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
この六根というヤツはイイカゲンだ。
「色(肉体)即是(は)空(イイカゲンだぁ)」
五根の感覚を認識するのが自分しかいない。
客観的には認識できない仕組みだ。
(正確にいえば感覚器官には判断能力が無い。
感覚を認識するのは脳なのだが、
そんなメンドウな話を衆生にはしない。
一応感覚器官が認識している、と仮定して話している)
その認識に基づいて、更に意根(心)が動く。
心は元々揺れ続けるヤツなのだ。
だから「判断」は二重にイイカゲンなんだなぁ。
(六根がイイカゲンなのは実は優れた能力なのだが、
その説明はここではしていない)
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第八章(3)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
耳も人によって能力の違いがある。
ある音は聞こえるが、ある音は聞こえない。
鼻もそれぞれ違う。
舌の感覚も人によって、動物によって違う。
身体感覚は千差万別だ。
心なんて、自分でさえ一定にする事が難しい。
心の中には星の数ほどの、多種多様なカケラがある。
それが、常に揺れ動いているんだぜ。
同じ体験でも他の心とは正反対の受け止め方さえする。
それでも、心は「有る」のだ。
「無い」わけじゃないぜ。
だからこそ「無」は「こだわらない」という意味なのだ。
この世は自分一人の世界じゃないんだぜ。
いろいろな眼があり耳がある。
様々な思いや感じ方がある。
見た事や感じた事を「確か」だと思うなよ。
大切なのは「こだわらない」事の方なんだぜ。
ブッちゃんは、一つ一つ丁寧に説明している。
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第八章(2)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
「無」を「ない」と訳したら「無い無い」づくし。
眼も耳も鼻も舌も身体も心も・・・となる。
その後の言葉も「無い無い」ばかりになる。
それでは、あまりに芸が無い・・・。
訳だって芸のうち。
芸は他を楽しませる為にあるのだ。
「無い無い」と言われて喜ぶ衆生はいない。
病は無い、苦しみも無い、現象も無い、では納得できない。
言われても、楽になれない。
「無い」と訳したら、無芸のツマラン人間になる。
「無」はアリなのだ。
アリもアリ、オオアリだ。
どんな眼も大丈夫、気にするな。
濁り目だって、偏見だって大丈夫だ。
どんな風に見えたって、いいんだぜ。
例え、見えなくっても、いいんだぜ。
一人一人、見え方なんざ、違って当たり前だぁ。
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第八章(1)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
眼耳鼻舌身意は五感覚器官と脳(心)だ。
特に仏教用語で「六根」という。
(ちなみに男性器は入っていないぞ・・・)
「六根清浄(しょうじょう)」という言葉が有名。
六根を清浄にしたい気持ちは(一応)解る。
だけど、無理に近いと思うぜ。
五根清浄までは完璧でなくても、ある程度なれるだろう。
だが意根(心)まで清浄な人はなぁ・・・
地球上で数名いるかどうか・・・
(いない、とも言えないんだなぁ・・・)
たぶんアナタの可能性は限りなくゼロに近い・・・。
ワシは間違いなく(一つも)清浄から程遠い・・・。
ブッちゃんは衆生に「聖人をめざせ!」とは言わない。
その逆でいいんだぜ、と優しく話した。
「六根清浄」でなくていいんだぜ、と話しているのだ。
それが六根に「無」を付けた理由だ。
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第七章(11)
是故空中無色 無受想行識
ワシ的訳。
(第六章からの続きの言葉)
「このように仕組みはイイカゲンだからよ、
この世の出来事に、こだわる事ぁねぇぜ。
自分の心や行いだって、イイカゲンなんだぜ。
失敗や間違いなんて当たり前なんだ。
そんな事にも、こだわらなくて大丈夫だぁ。
苦しみや病だって、こだわるなよ。
大丈夫。何とかなるぜ」
ブッちゃんは衆生達を安心させる為に伝法をしている。
そして、実際に楽になる方法を説法しているのだ。
その大きな鍵が「無(こだわるなよ)」だ。
「空」が仕組みの説明。
「無」が実践方法だ。
この世自体もイイカゲンなのだが、
この世を認識する自分側の感覚や心や考えもアイマイなのだ。
そのイイカゲンは「希望」であり「救い」である。
ただし、希望や救いになるには「こだわらない」事が重要になる。
自分の感覚や心が、つい「確か」だと勘違いしやすい。
だから、この後もブッちゃんは丁寧に話を続けるのだ。
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第七章(10)
是故空中無色 無受想行識
無(こだわるな)だけでは難しい。
意識は「こだわり」で働こうとするからだ。
だが、空(イイカゲン)を認めれば難しくない。
仕組みが「空」なら「無」は当たり前になるからだ。
心経は「空と無」を示した経なのだ。
無は空で活きる。
空は無で活きる。
「空即生無・無即活空」
「是故空中無・是故無中空」
無と空は強い絆で結ばれた愛人同士・・・。
鍵があれば、経は解ける。
漢字だらけの心経も意味が解ける。
すると、心経は結構オチャメに書かれているのが判る。
ゲンちゃんは高僧だからヒョウキンなのだ。
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第七章(9)
是故空中無色 無受想行識
元々、判断力は当てにならない。
特に人間の判断は当てにならない。
判断できる、と勘違いしている人間が多い。
マトモな判断ができたら、危機的な現状にならない。
だからブッちゃんは、ここから更に丁寧に話す。
いかに、いろいろが当てにならないか、を話す。
判断できない人間の段階だもの。
真実や真理を追い求めても判断できない。
無駄じゃないけど、捕まえられない。
出来るのは、追い求める事じゃない。
手放す事なのだ。
方向を向く、という事は大切だろう。
楽になれる方向と一致しているのなら。
だが、真実や真理を捕まえられると思ったら、
その時点で方向が狂う。
ブッちゃんは、自らの修行体験で知っている。
そして「無」という鍵を手に入れた。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)