■2015.08.30 雨でテニスはできず、桑名方面の日帰り温泉ドライブへ。
まずは名四経由で「輪中の郷」へ。
この輪中の地(木曽川、長良川、揖斐川)は長島一向一揆が起こった地域で信長が三度攻め込んでいます。
立派な施設ですが来客は私達を含め数名なので映像を含めゆっくり見学。
さらにこの地の宝暦治水で多くの薩摩義士がなくなっています。
幕末における薩摩藩の倒幕原動力は、「関ヶ原」と「宝暦治水」の普請であったと言われています。
そして「ニューハートピア温泉」で昼食を食べゆっくり温泉に浸かる。
ここはテニスコートもあり合宿も出来そうです。
2時間ほどここでゆっくりし次なる目的地へ向かう。
※六華苑(桑名市)
六華苑は、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年(1913年)に完成した、ここの設計も鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドル氏。建物は4層の塔屋をもつ木造2階建て天然スレート葺きの洋館、和館や蔵、池泉回遊式庭園などが組み合わさっている、和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化遺産で、国の重要文化財に指定。
また、庭園は国の名勝に指定
明治の政治家:井上馨は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考え作られたのが鹿鳴館で不平等条約を破棄するのが目的。
設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当した(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎 が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)
六華苑←設計:ジョサイア・コンドル→鹿鳴館←施行:大倉喜八郎→大倉財閥(南アルプスの多くを所有する)
※井上馨(井上聞多)花燃ゆにも出てきます。
・長州藩士時代
比較的裕福な長州藩士、藩校明倫館に入学。
御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らと共に12月のイギリス公使館焼討ちに参加。
長州五傑の1人としてイギリスへ密航。
高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)。
・外交と条約改正に尽力
また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設(これも大倉喜八郎が作った)に尽力した。
明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入るが思ったように行かず大命拝辞した。
晩年は桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立。(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分 は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。
この日露戦争戦費の完済は1996年。
六華苑を出てしばらく歩くと「七里の渡」跡に行ける。
※七里の渡跡(しちりのわたしあと)
熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。
ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
ここでタイムアウト。
桑名と言えば蛤(はまぐり)、いつかこれを目当てに再訪しましょう。
■2015.08.23 昼から安城市の丈山苑へ
※丈山苑
石川丈山は寛永18年(1641)一乗寺に詩仙堂を築いた。
丈山苑は、その詩仙堂のイメージを生誕地(安城市)に再現したものです。
蚊取り線香のそばに陣取り
夏茶碗でお抹茶をいただく(300円)
体育会系でもワビサビは楽しむ。
まずは名四経由で「輪中の郷」へ。
この輪中の地(木曽川、長良川、揖斐川)は長島一向一揆が起こった地域で信長が三度攻め込んでいます。
立派な施設ですが来客は私達を含め数名なので映像を含めゆっくり見学。
さらにこの地の宝暦治水で多くの薩摩義士がなくなっています。
幕末における薩摩藩の倒幕原動力は、「関ヶ原」と「宝暦治水」の普請であったと言われています。
そして「ニューハートピア温泉」で昼食を食べゆっくり温泉に浸かる。
ここはテニスコートもあり合宿も出来そうです。
2時間ほどここでゆっくりし次なる目的地へ向かう。
※六華苑(桑名市)
六華苑は、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年(1913年)に完成した、ここの設計も鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドル氏。建物は4層の塔屋をもつ木造2階建て天然スレート葺きの洋館、和館や蔵、池泉回遊式庭園などが組み合わさっている、和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化遺産で、国の重要文化財に指定。
また、庭園は国の名勝に指定
明治の政治家:井上馨は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考え作られたのが鹿鳴館で不平等条約を破棄するのが目的。
設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当した(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎 が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)
六華苑←設計:ジョサイア・コンドル→鹿鳴館←施行:大倉喜八郎→大倉財閥(南アルプスの多くを所有する)
※井上馨(井上聞多)花燃ゆにも出てきます。
・長州藩士時代
比較的裕福な長州藩士、藩校明倫館に入学。
御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らと共に12月のイギリス公使館焼討ちに参加。
長州五傑の1人としてイギリスへ密航。
高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)。
・外交と条約改正に尽力
また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設(これも大倉喜八郎が作った)に尽力した。
明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入るが思ったように行かず大命拝辞した。
晩年は桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立。(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分 は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。
この日露戦争戦費の完済は1996年。
六華苑を出てしばらく歩くと「七里の渡」跡に行ける。
※七里の渡跡(しちりのわたしあと)
熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。
ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
ここでタイムアウト。
桑名と言えば蛤(はまぐり)、いつかこれを目当てに再訪しましょう。
■2015.08.23 昼から安城市の丈山苑へ
※丈山苑
石川丈山は寛永18年(1641)一乗寺に詩仙堂を築いた。
丈山苑は、その詩仙堂のイメージを生誕地(安城市)に再現したものです。
蚊取り線香のそばに陣取り
夏茶碗でお抹茶をいただく(300円)
体育会系でもワビサビは楽しむ。