自己を図示したものを紹介してきましたが、一部修正もあるのでこれを機会に纏めて紹介します。
1 学習院大学の名誉教授 横山紘一氏 の自分図、自分というものを客観的に表したもの。
11月1日の図では細胞数が60兆となっていたが、最近は37兆と言われているので直した図にします。
2 内山興正老師の著作「進みと安らいー自己の世界」に書かれた自己生命図です。
3 科学的な世界観も加えた私の考えた自己生命図です。
4 3図の認識世界を部分を書いた図です。内山老師の図の中味を書いたものでもあります。
自己を図示したものを紹介してきましたが、一部修正もあるのでこれを機会に纏めて紹介します。
1 学習院大学の名誉教授 横山紘一氏 の自分図、自分というものを客観的に表したもの。
11月1日の図では細胞数が60兆となっていたが、最近は37兆と言われているので直した図にします。
2 内山興正老師の著作「進みと安らいー自己の世界」に書かれた自己生命図です。
3 科学的な世界観も加えた私の考えた自己生命図です。
4 3図の認識世界を部分を書いた図です。内山老師の図の中味を書いたものでもあります。
内山興正老師が自己生命の有り様について、自己生命の方程式というのを考えられてその著作や講話においてよく明示されていました。
アインシュタインの宇宙方程式よりご自分の生命方程式の方が上だなんて冗談めいて言われたていたこともあります。
つまり、老師自慢の方程式です。
内山老師の「人生科読本」にあるその方程式部分をお見せしますと、以下のとおりです。
ところがもう一つ、ピンと来ていない人も多いのではないかということです。
例えば2/2はペアの在り方を考えてみますと、ペアである限り相手のことも一緒に考えて一体感を持ち連帯していることが自己の在り方になるということです。夫婦の場合一心同体なんていいます。
2人いてそれぞれが単に2人の中の1人つまり1/2の存在でないという意味です。
それがトリオならば3/3。それを拡大していくと日本人/日本人、全体/全体ということになるというのです。
これを図示するといつも紹介する老師の自己生命図になります。
ところが1/全体の存在でもあると別に書かれています。つまり、その中の1員でもあるということです。
この自己生命は一つなのに式が2つに別れているところが私にはちょっと気になるところです。
老師はかつて「自分と自己」という文章も書いておられます。全体分の1の自分と全体分の全体である自己を分けて書いておられるのです。
そこで老師に異を称えるようだけど全体/全体と1/全体と一つの式に入れて一本化したものを考えてみました。この方が私にはスッキリしたものになるのです。
それが次の式です。
1 2 1 2 3 1 3 日本人 1 日本人 全体 1 全体
自己=1=─=──=─×─=──=─×─=・・・・・=─────=────×────=───=───×───
1 2 2 1 3 3 1 日本人 日本人 1 全体 全体 1
1/全体は全体の中の1部、部分であること、それは1なる自分は全体に支えられているということでもあります。
一方、全体/1は全体は部分よって出来ている、部分によって支えられてると形になります。
また、一なる自分の生命体験によって全体なる世界が出来ているということでもあります。
1 全体
自己=───×─── 自己というのは宇宙の中では部分でありつつ全体性を有しているということになります。
全体 1
この式の×は兼ねているという意味に解すると、佛教の言葉で出てくる「即」に当たるでしょう。
「一即一切 一切即一」「一心一切法 一切法一心」「煩悩即菩提」「色即是空 空即是色」etc
例えば、坐禅もそうではないでしょうか。全体分の1の肉体でもって全体の宇宙を体現することを意味します。
先週土曜日のNHK「こころの時代」に東大名誉教授で解剖学者の養老孟司氏が出ていたのを半分以上から経過したところから見ることになった。
面白かったのは、アメリカの脳科学者ジル・ボルティ・テーラーの脳卒中体験の話だった。左脳に脳内出血が起こり左脳が著しく障礙された結果見えている世界の状態とは違うあり方、つまり右脳で見た世界の不思議さを語ったことだった。
養老氏は簡単に説明していたが、その実際はテーラー女史自体が語っているのをYouTubeで見つけたので視聴をお薦めしたい。
なお、「奇跡の脳」というタイトルの本も出ている。
「奇跡の脳」脳卒中体験を語る / ジル・ボルティ・テーラー
https://www.youtube.com/watch?v=BsSWaYITW4g
自己生命図を形見のつもりでアップしましたが、補足します。
佛教に馴染みの少ない人はあの図で分かりやすかったのではないかと思いますが、佛法としては内山老師の図が正しいのです。
内山老師は正法眼蔵の味読会でいつもされていたことは、初めての人もいるだろうからと前回の話を復習し同時に佛法というものをそれこそ耳にタコができるほど話されました。
「あらゆるものは自己が生命体験するところにあり、自己はそのあらゆるものを体験しつつ生きている」ということで図にすると老師の図になります。
私の図は分り易いようにと生命を分けてしまっていますが、生命は絶対一元、分けようがないものなのです。分けたところに生命はありません。しかし、分けなければなかなか分かりません。
分かったところでそれを忘れて絶対一元の生命を生きるということでなければならないのです。
そこでもう一度理解を深めてもらうために簡略化した図を作りました。
分けて考えると分り易い。真実世界とは物の世界です。自分がいなくなった世界と考えると分かりやすいかも。そこに自分をおいてみる。五感が働いて周りの状況が分かってくる、そこに把握された世界の展開がある、過去の記憶も呼び出して頭の中にイメージを作る、心の世界である。
物の世界を今、五感でサーチしているそれが現実世界である。
しかし、生命はそれをバラバラに把握しているわけではなく今自分の体験としているのです。生命が働いているから唯識とも唯心ともいうのです。この唯心は哲学における唯物論の対概念ではありません。物心一如の唯心です。佛教は自己生命が根本ですから、心の働きを外す訳にはいかないのです。
下図では真実世界は鏡(生命)に事実世界として映っていると理解すると分かりやすのではないかと思います。
来年の年賀状の作成がいい案が浮かばずに遅れていたが、今日、文面の作成を終えることができた。印刷は数日中に行うつもりである。
以前、次のような記事を書いたことがある。
ーーーー
「宿命によって生まれ、運命によって生かされ、使命によって生き、寿命によって死す、これ天命なり」 である。
死す、これ天命なり」 である。
宿命と運命と寿命は黙って受け取るしかない。使命だけ考えて生きればいいのだと思う。ところが多くの人は使命を忘れ宿命転換、運命の好転だけを追っているようだ。そんなことをやっているうちにそれだけでいつのまにか寿命が尽きる、勿体無い命の使い方である。
使命とは大それたことを考えることではなくて今、ここにおいて命の限り精一杯生きることだと思う。生也全機現、死也全機現である。
ーーーー
これをちょっと変えて
天命(宇宙生命)
宿命によって生まれ、運命によって生かされ、使命によって生き、寿命によって死す
無着さんのいう人と人間の違いで言えば、使命を持たぬものは人であり、使命を持ってこそ人間として生きられるということだ。
以前の文章では生也全機現、死也全機現と書いたが、生命というものが分かっていなければ使い用がないということになる。
30日に懸案だった自己生命図をアップしてから、京阪デパートへ買い物に行った。
書籍売り場を覗いてから、いつもと違う通路から帰りかけたら、催し物をする部屋で骨董品の展示販売をやっていたので、入ってみた。テレビの何でも鑑定団を時々見ていて、ちょっと知識もついているが、実物は滅多に見たことがないので時間もあり覗いてみた。陶器、ガラス工芸品、それに掛け軸が中心に展示されていた。
これは素人目にも高そうと思われる品物もあるが、思いの外安かったり、逆にえっ、これが驚くほど高かったり、なかなか評価は難しい。百貨店だからまさか偽物はないと思うが、偽物混じりの中で掘り出し物を見つけるのは至難の技と感じた。
さてそんな中で西国33所の朱印を押した観音像の掛け軸が目に入った。観音像は印刷で軸も安物っぽいが、33所で朱印をもらってきたというのが売りなのだろう。それで25000円ほどの値札がついていた。
観音像は普通は光背が光が外方向に飛び出すように描かれるのが普通だが、そのその像は白っぽい丸が描かれてだけだった。それを見て私の自己生命図と似ていると思った。背景の余白が真実世界、立っている蓮華台が現実世界、頭の上の丸が認識世界を表現している。
そう考えると、家にある佛壇もそうである。本尊が自己で、光背があり、蓮華台があり、天蓋やら灯明、花瓶、香炉等諸々が宇宙である。
それぞれの家庭にある佛像、佛壇は自己生命を表現しているのである。そう考えると単なる彫刻や絵画とは意味合いが違ってくる。
お家に佛壇のある人はその前にひと時坐って見られるとよい。私の図は有り難みもない無味乾燥なものだが、何か感じられるところがきっとあるだろう。
若かりし頃人生の見通しが立たず悩みっぱなしだったが、内山老師の自己生命図でこれで生きていけると思った。
老師の生命図を機会ある毎に人に紹介もしてきたが、感動したという人が滅多に現れない。ここでもコメントが入ったことが一度もない。中にはケチをつける人までいる。認識世界の中にいるのにそれをそのまま真実だと思い込んでしまっているのである。この思い込みから脱却するのはなかなか難しい。
そこでここ1年ほど図を変えて説明してきたのであるが、自分でももう一つ感がある。今回改善を加えた。これが最終版である。字句等より適切なものがあれば修正はするかも知れないが、基本図は変えない。
図の解説をすると、以前のものに大きい円を描いた。宇宙である。前は余白が宇宙のつもりだったが、やはり、分かりづらい。
この、宇宙がお釈迦さんも分からない、望遠鏡もなかったし分かるはずもない。しかし、現代科学は次第にそれを解明してきた。
宇宙は原初、素粒子よりも小さなものだったが、インフレーション(急膨張)し、センチ大の大きさとなった。そこで相変異が起こって光と熱の火の玉となる。相変異とは液体が気体となるといった相が変わる現象である。その火の玉が爆発的に拡大して今の宇宙になった、ビッグバン宇宙である。最新の計算ではビッグバンから138億年、その広がりは470億光年、未だ拡大が続いている。
宇宙は今や大きく広がってバラバラしているようだけれど、元は一つの塊、それは何の塊か、それは力、パワーの塊としかいいようがないと思う。その力が宇宙全体を余すところなく覆っていて、宇宙は今もって一つの塊である。
宇宙の本質は力、宇宙力である。その力でいろんなものが生み出されてきた。宇宙としては自らを変化させているということになる。人間生命もその力によって生み出されたものである。生命力は宇宙力なのである。
だから、宇宙を生命体と見なすことができる。我々はその宇宙生命の一欠片で同じ一つの生命力を生きているのである。
そうするとその生命力は宇宙から来ると考えてしまうが実はその生命力の一翼を個々の生命が担っているのである。
宇宙生命があって我々の生命がある。我々の生命があって宇宙生命もある。一体なのである。
宇宙生命があって我々の生命がある。このことを知ることによって安らぎを得ることができる。
我々の生命があって宇宙生命もある。このことを知ることによって生き甲斐を得ることができる。自由でもある。
さて、この宇宙に実際に存在するものを「真実」と私は呼ぶ。一般的な辞書的な意味とは使い方が違うから注意。以下の現実、事実も同じである。
さりながら、その真実を我々知りうるかというとそうはいかない。知ろうとすれば五感を用いるしか仕方がない。自分の目で見たものは間違いないと皆妙に自信を持っているが、ところがこの五感がいい加減なものでしかない。何か物を見たといっても決してそのものを見たわけではなく、表面の反射光、あるいは発光を見ているに過ぎないのである。鏡で見た自分の顔など所詮は光の影、鏡を覗いた瞬間、表情を見やすい顔に変えてしまっているものでもある。
今、ここで五感で真実相をサーチして五感で捉えているものが現実と私はいうのである。私のように近乱老乾白緑の眼ではいささか心許ない。眼鏡をかければ世界が劇的に変わる。そんなものなのである。そんな世界を生きなければならない。五感という認識力に大きく依存しているのである。
真実から不確かな情報であるとしてもこの現実相から取り入れるしか仕方がない。行為もこの現実相で行われる、行為は今、ここでしかできない。今ここで真実に手を加え動かし変えていくということが行われるのである。
五官というセンサーで取り入れられた情報は頭の中で情報処理され頭の中のスクリーンに投影されそれを認識する。認識されたものは頭の中の存在であるから私はそれを「事実」という。事実は情報によって形作られたもの、情報多くは過去情報である。体験したものがいっぱい蓄えられてある。それを恣意的に組み合わせるのであるからとんでもないものが出来上がっても不思議ではない。事実は決して真実ではない。
しかし、事実がその人の世界を形成するのである。もっといえば真実と思い込んだ事実がその人の世界を構成するのである。
禅が真実と事実の接点である「今、ここ、自己」と重視するのはここである。
結論、誰でもたった1つの宇宙生命を共有し真実を生きている。しかし、その真実は知り得ない。現実においてわずかに捉えられる真実からの情報を大事にし、それで自己の認識世界を創造していくしかない。その認識世界の中で現に生きているのであり、その中の事実に基づいて真実を揺り動かしているのだということ。
(追記)図が一部違っていたので差し替えました。
先日、叔母のところへ電話をかけたが、なかなか電話に出ない。切りかけたところでやっと出た。「今、ちょうど司法書士さんに来てもらったとこ。後で」というので、2時間後にかけ直した。司法書士というから、遺言書の作成でもするのかと思っていたらやはりそうだった。
叔母には主人は遠の昔に亡くなり子供もいない。2年前には死にかけたことがあったし、最近は体調も不調気味、で後のことも考えたのであろう。
吾輩も病気自慢で書いたように、そろそろ危険水域に差し掛かってきたことを実感するが、財産があるわけでもなし、子供もいることだから法律的に処理すれば済むこととで叔母のような遺言書を作るつもりは今のところない。
良寛さんの歌に『形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉』というのがある。これでいいのだと思いつつも、生きた証となるものを何か残しておきたい気がする。
文才があれば本の一冊でも書いておきたいという気はずっと持っていたが、かかる拙文では・・・。文学者で歌人の折口信夫と親戚になるのだが、その文才の欠片でもあったらと思ってしまう。
仕方がない。で、私の形見としたいものは、「自己生命図」である。
元は内山興正老師の自己生命図で、それを発展させたものである。
昭和45年、今から47年前に安泰寺へ行くようになり、丁度その時期に「人生料理の本」が出版された。その本の中にあった老師の自己生命図に青天の霹靂ともいうべき衝撃を受けた。
普通の考えでは、まず出来上がった世界、宇宙であったり、地球であったりするのだが、そこに生まれてきて生きて死ぬと考える。確かに考えてみればそうである。しかし、それは自分を外から客観視しているのである。客観視するのも大事であるが、本来主観的に生きているのが人間である。生命の実物としての世界は体験している世界こそ現に生きている世界なのである。
澤木老師のいう「世界を持って生まれてきて、世界を持って死んでいく」ということなのである。
そしたら主観だけでとなると、他者との関係が上手くいかない。主観と主観のぶつかり合いでは意思疎通が上手くいかない。
主観と客観の使い分けが大事ということになる。いや、主客を分けないという見方が佛法的見方なのである。つまり、生命的に繋がっているといういうことなのである。
内山老師の言葉に「出逢うところわが生命」というのがある。これも「人生料理の本」で知ったのだが、実に素晴らしい。嬉しいことがあったら「出逢うところわが生命」、嬉しさが倍加する。辛いことに出逢っても「出逢うところわが生命」と胸を撫で下ろす。私の呪文である。
生命が世界ぐるみであらゆるものとの繋がりを知って、「出逢うところわが生命」と称える。坐禅は坐禅で素晴らしいものだが、坐禅修行しなくても、これで結構生きていける、私もなんとか以後47年生きてきた。請け合える。
さて、私の自己生命図であるが佛教的にはどうかという思いがある、つまり、科学的な考えを入れ込んでいるからである。しかし、これからはこうでなくてはと思う。顕微鏡も望遠鏡もなかった時代の世界観では駄目で説得力を持たない。
昔は西方に極楽があるなんて素朴に信じていたのであろうが、今は誰も信じない。
我が自己生命図は次稿で。
以前の分を改変しています。これが形見のつもりですから最終版です。
とか言いつつ、また、手直しするかも知れませんが・・・
生命の本体、本質をどう考えるか、つまり生命観によって人生が変わってくるのでこれをしっかり確立しておくことが大切である。
では、それをどう考えているか、大別すると3つに分けられる。
1 身体=生まれて生きて死ぬという生命で日常的に観察できるところから分り易い。無宗教者の大方はこれに該当する。
2 霊魂=佛教以外の宗教、スピリチュアルの信者が信じているもので、死んで肉体は滅びても霊魂は存在し続け、生まれ変わりや別世界に行くことになるというもの。
3 宇宙=佛教では宇宙全体を一つの生命体とみなし、一切のものはその同じ一つの生命を生きているとするものである。人体と細胞のような関係にあるのである。霊魂の存在は認めない。
しかるがゆえに宇宙について、もっと関心をもってもらいたいと思っている。
佛教が従来なぜ分かりにくかったかというと、望遠鏡の顕微鏡もなかった時代からの教えなので、説かれていることが今日の科学的に実証されたものでなく
曖昧で多分に想像の産物である教えだからである。
宇宙といっても今は有限で138億光年彼方に果てがある。昔は無限の世界としかとらえられなかった。今は宇宙観測でいろんな天体が観測されてその様相も少しは知れるようになってきた。はっきりしてきたことははっきり言わなければならないのにそれが言えていないのである、佛教界というところは・・・。
さて、テレビで近々宇宙に関する番組が告知されたので、ぜひご覧になっていただきたい。
10月17日(土)19:00~ Eテレ 地球ドラマチック 「ハッブル宇宙望遠鏡~宇宙の謎に迫る」 再放送 月曜0:00~
10月18日(日)23:30~ Eテレ サイエンスZERO 「宇宙の果てに迫る」 再放送 土曜12:30~
以前、自己世界図として下記の図を紹介しましたが、今回、自己生命図として身体を入れて立体的に分り易くしました。
「自己世界図」
「自己生命図」
ここでの「心の世界」には前の「事実世界」を当てはめて考えてください。
身体は者の世界つまり宇宙と不可分、つまり、切り離すことができずに一体です。そしてその者の世界を心の世界、スクリーンに写していてそれをあたかも外の世界を見ているように思っているのです。外からは光とか音とかの情報しか届きません。その情報を頭が加工して心のスクリーンに映しているだけです。ですから、日月星辰森羅万象、全部、全部自己の内にあるのです。
つまり、それは自己が創り上げた世界なのです。天地創造は自己が行っているのです。
真実によって生かされ、真実を生きているのでですが、生きるにあたっては事実の世界しか知り得ないからそれを基に生きているということです。事実に基づいて身体を動かし真実に影響しているのです。つまり、その動きはたとえわずかでも宇宙全体に波紋を拡げていきます。宇宙の姿形が変わってしまうのです。電磁力と重力の影響範囲は無限大ですから、光速で影響を与えていくのです。
ですから、自己生命図全体をもって、自己の真実の生命と理解すれば、人生に関する意味も大きく違ってくると思います。真実生命は死ぬことはありません。宇宙なのですからね。
すっかりご無沙汰しておりました。お見限りになってしまったかもと思いつつも、見て頂いている方がおられありがたく思っています。
今回は内山興正老師の自己方程式を紹介し、その式を私なりの解釈で分り易い形にして説明したい。
まず、老師の「人生科読本」という著作から、その自己方程式の説明部分の一部を引用する。この方程式は老師自慢の方程式で、他の本や講演なんかでよく用いられたものである。そして、この方程式は自身ノーベル賞ものと冗談のように言っておられたのを思い出す。
<引用開始>
たしかに「人類」あるいは「日本人」という一般(普遍)概念に対して「一人の人間」あるいは「一人の日本人」という「個」であるかぎりは、この個は普遍のもとに包摂され、従属すべきことは当然です。しかし「生死するマッサラなこの自己」としては、このようなたんなる「個」でのみあるはずはありません。むしろこのような「普遍と個との関係それぐるみ」がじつは「生死する自己の生命体験の一コマ」なのであつて、真実の自己の生命は、それらを含みながら、しかもそれを超えてマッサラに「われ今独り自ら往く」のでなければなりません。
これを分りやすく数学的公式にたとえていうならば、
自己=1=1/1=2/2=3/3=・・・=日本人/日本人=全体/全体
なのであつて、つまり「全体分の全体」であるような自己です。
たとえば、もし国法に忠実である平均的「国民分の1の人間ばかりであるならば、いったん悪法の国においては、この悪法を改める力はもはやどこからもでてくることはないでしょう。永遠に悪法のもとの国民でなければなりますまい。その点一個の国民としてあるかぎりは、どこまでも国法に従うのでなければなりませんが、しかしどこまでも悪法のままであっていいというものではないので、もしこの場合、この国法を改め、新たに国法を創り出してゆくような力がありとすれば、「国民全体分の国民全体」というような自己
を自覚する人たちの与論によってでなければならないのではないでしょうか。<引用終了>
これはたとえば、3/3の例なら、3人家族を考えると、3人のことが頭にちゃんと入っていること、絆、連帯感が保たれているということである。家族が勝手気ままにバラバラで名ばかりのものなら単なる1員過ぎなくなり1/ 3の存在に過ぎないというのである。
しかし、老師は単に1員でもあることでもあるから、1/全体でもあると説明がある。
でも、それが式の外に放り出されているのが、私はどうも気に入らないのである。
そこで、式の変更を試みた。
自己=1=1/1=2/2=3/3=・・・=日本人/日本人=全体/全体=1/全体・全体/ 1
=1/真実・真実/ 1=事実/ 1・1/事実
1/真実・・・宇宙の一欠片、宇宙によって支えられて生かされている自己
真実/ 1・・・宇宙は一欠片の集まりによってできていて、一欠片も欠くことはできない、一欠片によって宇宙は支えられている。
事実/ 1・・・事実は自己の生命体験によって造られたもの
1/事実・・・その生命体験された事実の基づき支えられて生きている
志賀直哉の小説に暗夜行路というのがある。文学的素養がなく、文学を読んだことはあまりない。
私の最大テーマである自己世界の説明をこの題名を拝借してより深めてみたい。
真実というのが誰でも知っていて皆、絶対といっていいほど自信を持っている。ところが誰も何も分かっていないのだということが私の主張である。
真実からやって来る情報は、情報源の持っている情報の微々たるものでしかない。それを五感で感じ取る。子どもの時に興じた犬棒かるたに「葦(よし)の髄から天井を覗く」というのがあった。視野の狭いことを言うのだが、それどころではない。真実というのなら対象物丸ごと知らないとそれを分かったとはいえない。人間は60兆の細胞でできているという。それを全て把握できるかというととてもできる話ではない。たった一つの細胞だって見えやしない。アバウト、いい加減で納得している。
見たり聞いたりするものは、五感に由来するので正確ではなく、歪んでいる。私の眼のように近乱老乾白緑変という欠陥を持っていれば、ぼやけ、歪みは明白である。
そこへ恣意的に思惑を挟み込んでくる。見るべきものを見ないで、より好みする。
そんな中では錯誤も伴ってくる。
限定された情報により、曖昧、歪み、恣意、錯誤により頭の中に事実として取り込まれる。
その事実を排列して自分の世界としている。それを唯一のものとしている。
自信たっぷりなのである。
さて、暗夜行路だが、真実世界は知りようがない無明である。つまり、闇夜、暗夜と同じ。その中で動き回らなければならない。暗夜に動くためには明かりがいる。今なら懐中電灯、昔なら提灯だ。それで照らすと照らされた世界が現れる。光は遮るものがなければどこまでも飛んで行く。その光が物に
当たって跳ね返って来るのをキャッチする視力に限界があるからその世界も自ずから限定的なものになる。
まず、照らし出す世界があってその先は来たことがあるなら、記憶されたイメージを呼び出して世界の継ぎ足しをする。それの先は地図や案内板なんかの情報を活用し想像の行路を考える。それが尽きればそれこそ闇の中だ。
道が分岐していればどちらに行けばよいか分からない。
とにかく、人生は一寸先は闇、闇夜を歩く準備をしておかなければならないということである。
終着点はどこか、そこに行く地図、コンパスを用意しておかなければならない理屈である。
「われを排列しおきて尽界とせり」
これは正法眼蔵有時の巻の一節だが、われが真実を体験したところつまり私の言う事実を並べて世界というものができているという。
たとえば、幽霊を考えてみよう。私にとって幽霊なんか出会ったこともないし、信じてもいない。つまり、配列しようのないものである。私の世界には幽霊は存在しないということである。しかし、その存在を本気で信じている人がいる。その人は他人から聞いたというだけでそれを信じてしまっている。つまり、その体験、思い込みの事実を自分の世界の中に配列してしまっているのである。
しかし、私にとっても幽霊という言葉を知っている以上その言葉を知るという経験の程度は自分の中に事実として存在していることになる。言葉さえ知らないということではない。
「真実✕心意識=事実、 事実✕心意識=<事実> 、<事実>✕心意識={事実}・・・・・・
いくらでも増殖することができるのが厄介なのである。ちゃんと整理できているかどうか。厄介物を配列してはいないか。
これを整理するのが佛道修行なのである。
衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、佛道無上誓願成
衆生無辺誓願度とは自分の外の誰かさんを済度しにいくという話ではなく、自分の頭の中のゴジャゴジャを整理するという意味である。もちろん、誰かさんを済度するということを否定するわけではなく、それもまた自分の中の事実を整理するという意味なのである。
澤木興道老師の言葉に正確には覚えていないがこんなのがあった、「真実、真実とよく言うが、どうせ俺の見た真実に過ぎない」
前にも自己世界図のところで書いたけど、真実というものは知りようがない。五感で捉えたものも頭の中のイメージでしかないと書いた。
今回、もうちょっと理解を深めるために真実と事実の違いを一覧にしてみた。
しかし、ここでの真実も実は私が頭の中で整理したものなので、私の頭の中の事実になってしまっているのでそれを知っておいてもらいたい。
真実 事実
身体 頭
無我 自我
実際 イメージ
外界 内面
物 心
無意識 意識
全体 部分
唯一 多数
即今 過去、現在、未来
当処 浮動
秩序 無秩序
PCにたとえると分り易い。真実はハード、OS。事実はアプリ、データ。
事実は真実の中、それぐるみ真実だし、真実によって事実が生じるものなのだが、その事実によって真実が動かされている。
真実からの僅かな情報によりバーチャル世界を作り上げ、その中にいるにもかかわらず真実世界の中にいるように錯覚しているのである。そのバーチャル世界の外には真実世界があることはいうまでもない。
真実はたった一つ、しかし、事実は山ほどある。富士山だって実物は一つだが、記憶された富士山は一杯ある。過去現在未来、写真、映像、記事、絵、等なんだってありで、そんなのでバーチャル世界ができているのである。そしてどこへだって飛んで行くのである。