この地震には小生も驚かされました。携帯電話が赤い光を発しながら振動しまた妖しげな警戒音出したのですが、初めての体験なので瞬間戸惑いました。地震警報と分かって身構えて外に出ようとした瞬間、ガタガタと揺れが来ましたがこれくらいなら大丈夫と判断して、ソファに坐り直しました。
大阪は震度3、鳥取ではこの程度余震が頻繁に起こっているようで被災地の方は不安な精神状態でお過ごしでしょう。
一日も早く地震が終息しますようお祈りします。
表題のような質問がヤフーの知恵袋に出ていたので回答を書いてアップしたら、既にベストアンサーが選ばれたということで受付を拒否されてしまった。
折角書いたので、ここにアップします。
「回答」
座禅の座は坐る場所のことです。
坐禅は行為のことですから、坐るという意味の坐を用いるのが本来は正しいのです。常用漢字から外されているので座禅でもかまわないのですが、坐禅というを使ってほしいと思います。
瞑想というのは誰が使い出したのか知りませんが、北伝佛教典には一つも出てきません。つまり、大乗佛教では使われない言葉です。
明治以後南伝佛教が入ってきた時、使われ出したのでしょう。
さて、佛教は自己の生命を根本とします。
生命が頭を持ち、その働きとして想いが湧出してきます。我々はその想い中に入り込んでしまってそれに振り回されているのが我々の日常です。
そんな想いを手放して生命そのものに帰る、帰命といいますがそれを実現するのが坐禅です。生命がむき出しになっている状態、それが決着点だということなのです。我々、生命を生きているのだからその生命の働きに任せていこうというのが坐禅です。
瞑想というのはそもそも想という字が入っているとおり、想いによって生命をコントロールしようとするものです。
確かにその有用性は認められます。心地よいイメージの中に身をおけば体はそれに反応するのはよく体験するところです。
しかし、主人である生命を家来である頭が想いでコントロールしている図は、宗教としては違うのではないかと思います。
産経記事(10/7)
瀬戸内寂聴といえば嫌いな坊主の一人が、ビデオメッセージで物議を醸したようだ。
日弁連の死刑制度に関するシンポジウムにビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判した上で「殺したがるばかどもと戦ってくださいと発言していた。
何で耄碌した94歳のエロ婆さんの発言を日弁連は取り上げるのかこの組織はどうかしている。何万人もいる弁護士の中でわずか数百人の集まりの中で決議された死刑廃止宣言なんて弁護士の総意といえるのか。法律家の集まりなのに実におかしな組織である。
もう、随分昔のことだが、テレビのインタービューのやり取りでこんなのがあった。
Q:お坊さんの肉食はどうなのでしょう?瀬戸内さんは食べられますか?
A:お肉好きです。よく食べます。
Q:食べてもいいのですか?
A:私が殺すわけでないから。
こりゃだめだあ。一遍で落第点をつけてやりました。こんな坊主が説教してるだから・・・。