ご案内したペリリューの戦いをご覧になりましたか。
何故あそこまで命を捨ててまで戦ったか。
そのもののために命を投げ出してもいいという、自分の命以上の価値を持っていたということだと思う。
かくすれなくなるものと知りながらやむにやまれぬ日本魂(吉田松陰)
私もここで自己生命が一番大事だと言ってきたが、そうするとそれ以外のもののために命を投げ出すことはないではないかという疑問が出てくることになる。
しかし、あらゆるものとぶっ続きの生命を生きていて、内山老師のいう「出逢うところ我が生命」なのだから、自己生命が自己生命として完結することになのである。
法隆寺の国宝、玉虫厨子に描かれた絵に「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というのがある。釈迦の本生譚という前世物語に出ている話だが、釈迦の前世である薩埵王子が修行の旅の途中、山の中で雌の虎に出くわす。虎は弱って横たわっていて周りに7匹の仔の虎がいて乳房に吸い付いているが乳は出ない。放っておけば仔も死んでしまうだろう。そこで薩埵王子は自分の身を虎に供養しようとするが、かぶりつく元気もない。そこで崖から身を投げて血を出して母虎に気力を出させて我が身を食べさせたという話である。
でも、相手が現代人には現実感がない話だが、先の東北大震災の時には見ず知らずの人を救おうとして亡くなった人が幾人もおられたようである。
ところで他人のために命を落とすのを犠牲とよくいわれるが、犠牲とは元々生贄のことで己と他人と分別した上で己を捨て他を生かす行為である。しかるに佛教では自他の区別がない、他を見ること自の如しだから犠牲といわない。他を生かす中に自己が最も尊いところを目指す生き方のである。
さて、ペリリュー島の戦いは、まさに「捨身飼虎」だったのだ、それで虎の仔はちゃんと育ったんだろうか。トラ猫ばかりが育ったような・・・