仏式で葬式する人の多くは死んで仏になるように思っているようである。死んでから戒名(法名)をつけたり、年忌に追善供養したりしている。人としてその存在が無くなるのであるから成仏のしようがないのである。
人の生涯は、仏教では十二支縁起で示されている。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死である。しかし、この生以前なんて考えてみても意味がない。
さて、私が考えてみた生から死を示してみたい。
「人として生まれ、人間として生き、人格を作り、仏格を得て、涅槃に入る」
仏式で葬式する人の多くは死んで仏になるように思っているようである。死んでから戒名(法名)をつけたり、年忌に追善供養したりしている。人としてその存在が無くなるのであるから成仏のしようがないのである。
人の生涯は、仏教では十二支縁起で示されている。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死である。しかし、この生以前なんて考えてみても意味がない。
さて、私が考えてみた生から死を示してみたい。
「人として生まれ、人間として生き、人格を作り、仏格を得て、涅槃に入る」
今回でとうとう80種。前回は腎盂炎で入院する羽目になったが、今回は麦粒腫である。
17日頃から右目にゴミが入ったようにコロコロした感じで使用中の保健的目薬で流そうとしたが取れない。いつまでもいう訳ではコロコロ感がなくなる時もある。流れ出たかと思いきや、また繰り返す。2日ほど辛抱したが、治らない。
2日経ってこれは眼科に行った方が良さそうだと、何年も前に係ったことのある近所の眼科へ行ってみた。予約制になっていた。予約するとすれば25日だという。予約の間が空けば受診可能だがいつになるか分からないという。
待ってられないので、もう少し離れた予約制でない眼科を受診した。麦粒腫であるとの診断で目薬を2種処方してもらった。5日間点眼してどうやら治まったようだ。
しかし、数日前から左目も違和感があり、昨日辺りからコロコロ感が出て来たので、両眼に1日4回点眼しているような状況である。
というようなことを書いて病歴を更新しようとしたら抜けているのに気がついた。踵のひび割れである。寒くなって踵が乾燥してひび割れてくる、尿素クリームを常用している。
よって、自慢件数81,歳の数だけあることになる。
病歴
<頭、顔部>
脱毛症、白髮、健忘症、脳貧血、黒子、ガングリオン
<眼部>
近視、乱視、老眼、白内障、ドライアイ、網膜穿孔、網膜変性症、閃輝暗点、濾胞性結膜炎、飛蚊症、結膜炎、緑内障、右白目部出血、麦粒腫
<耳部>
中耳炎、耳鳴り
<呼吸器系>
感冒、インフルエンザ、蓄膿症、鼻炎、咽頭扁桃炎、気管支炎、胸膜炎、耳下腺炎
<口腔、歯科系>
虫歯、歯周病、口内炎、口唇ヘルペス、歯欠損、顎骨脱臼、口角炎
<消化器系>
逆流性食道炎、胃炎、胃ポリープ、食中毒、十二指腸虫症、腸炎、大腸ポリープ、痔疾、回虫、肝臓病、胆石、
<循環器系>
高血圧、冷え性、腹部大動脈石灰化、高ガンマグロブリン血症、足動脈狭窄、頸動脈プラーク、右足深部静脈血栓症
<泌尿器系>
慢性腎臓炎、腎臓結石、前立腺肥大症、貧血症、腎盂炎
<骨格>
橈骨骨折、肋骨亀裂骨折2回、腰椎椎間板ヘルニア、踵骨亀裂骨折、顎脱臼、手足の脱臼、各所捻挫、脊柱管狭窄症、第一腰椎圧迫骨折、骨粗鬆症
<皮膚>
擦り傷、切り傷、虫さされ、水虫、皮膚炎、両母趾巻き爪、日焼け炎症
<筋肉>
五十肩、こむら返り、背筋痛
今日は 縁起について考えてみたい。
「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る」
「法を見るものは、我(仏)を見る」
だから、縁起を極めれば仏教が分かる。
縁起は仏教の根本概念で四諦、十二支縁起、四法印、五蘊説、大乗仏教の空といった概念もこの縁起から派生する。
縁起は、すべての存在が相互の因縁によって生起することだが、縁起というと 、切ったり結んだり、 良かったり悪かったり、あったりなかったするような因縁話がよくある。
これは複数の事物を時間的あるいは空間的に関連付けてみた上の話でこれは頭の中の事実の世界の話である。十二支縁起(時間的関連)、五蘊説(空間的関連)なんかもそれにあたる。
真実の世界にあっては、一切が繋がり相互作用しその縁は切りようがないのである。私は宇宙全体と繋がり切り離しできない。宇宙全体が縁起し私はその一欠片だからである。
電磁力と重力の影響範囲は無限大であり、あらゆるものは相互作用、相補性原理で存在し運動しているのである。
「縁は切れない」、そんな縁起を理解する必要がある。
あなたと私は繋がっている。私がいればこそあなたもいる。あなたがいればこそ私もいる。
プーチンにも習近平にも金正恩とも繋がっているのである。私がいて彼らもいる。彼らもいて私もいる。
前回は 古代ギリシャ哲学者エピクロスの言葉を紹介した。
「 我々が存在するとき死は存在せず 死が存在するとき 我々は存在しない」
去年の10月には、古代ギリシャ哲学者 キケロの「死者の命は生ける者の記憶に留まる」という言葉を用いて文章を書いた。
それに関連するが「人は二度死ぬ」ということが言われるようになった。
「一度目の死は肉体が滅んだ時、二度目の死は全ての人から忘れられた時」という意味で使われるようだ。キケロのいう記憶に留まっていたものもなくなってしまうと意味である。
永六輔が言い出した言葉のようで膾炙されるようになってまだ日が浅い。
お釈迦さんなんか多くの人に今も記憶されているお方だから生存中ということになる。
まあ、悪名を残さないようにしましょう。
ヤフーの知恵袋の質問で「死ぬのが怖い」という内容のものがあったので、参考までに次のように回答した。
私の回答:
他人の死はあれども自分の死はありません。
自分の死は自分で体験できないからです。
古代ギリシャの哲学者エピクロス(紀元前341-270)
「 我々が存在するとき死は存在せず 死が存在するとき 我々は存在しない」