十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

ChatGPTの活用

2024年11月10日 | 佛教
 

ある人にChatGPTによる成唯識論の訳を頼まれたので使ってみた。元の文が3回に分かれていたので、3回分をまとめたものである。

あまりに長文になるので、ここに掲載することにした。このようなこともできることを知っていれば便利に使えると思う。

しかし、元データが古いのがあって、役に立たないことがある。注意が必要。

謂假必依真事似事共法而立,如有真火、有似火人、有猛赤法乃可假說此人為火,假說牛等應知亦然。我法若無,依何假說?無假說故,似亦不成,如何說心似外境轉彼難非理,離識我法前已破故。依類依實假說火等,俱不成故。依類假說理且不成,猛赤等德非類有故,若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。若謂猛等雖非類德而不相離故可假說,此亦不然,人類猛等現見亦有互相離故。類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。依實假說理亦不成,猛赤等德非共有故。謂猛赤等在火在人其體各別,所依異故。

この漢文は仏教の唯識思想(特に唯識派や法相宗)に関する論理的な説明で、特に「仮(か)=仮のもの」の概念と、それが依存する「真=真実のもの」との関係について論じています。内容としては、「仮の存在」(例えば「火」という概念)は、何らかの「真の存在」に依存して成り立つべきだとする論を展開し、対象がなければ仮の概念も成立しないという論理を説明しています。

この漢文の大まかな意味を整理して説明します。

1. 仮のもの(仮説)は真実のものに依存する

  • 「謂(いわ)く、仮(かり)に必ず真に依る」とありますが、これは「仮のもの、すなわち本質がないものは、必ず真のものに依存して成り立つ」という意味です。つまり、何かを「仮に火である」と言うためには、本当の火のような実体が必要だとしています。

  • 例として「真火(本物の火)」と「似火(火に似たもの)」が挙げられており、火のように「猛(勢いがある)」「赤(赤い)」という性質が見られなければ、「火」だと仮定することはできません。

2. 仮の概念は、真の事物の性質に基づく必要がある

  • この論では「牛(うし)」や「火」などの具体例を使い、仮の概念が成り立つためには、その概念を支える共通の性質(「猛」や「赤」など)が必要であると述べています。もしもそのような性質が欠けているならば、「火」や「牛」という仮説すら成り立ちません。

  • また、「我(が)」「法(ほう)」といった概念も、真実のものがなければ仮のものとして存在することはできないと述べています。例えば、「我」や「法」という仏教用語も、その根本的な実体がなければ成り立たないということです。

3. 心が外界の事物(外境)に似て転ずるという考えへの反論

  • 続く部分では、「心が外界の事物に似て変化する」という唯識派の主張に反論しています。この主張は、心(識)が外界のような事物に影響され、似たものを生み出すという考えですが、この文では「我や法が実体を持たない」という前提を破っているとしています。

  • この部分では、「仮に火を表現するための実体がなければ、火という仮の概念も成り立たない」と述べ、外界に似た心の作用を説明するためには、「実体としての火」が必要であり、単なる仮説としては成立しないと批判しています。

4. 共通の性質がなければ、仮のものは成立しない

  • さらに、「もしも水に火の仮名を付けることができるならば、すべてのものに対して仮名をつけることができるはずだ」という指摘も行われています。これは「共通の性質を欠くものに仮の名前を付けることはできない」と論じている部分です。

  • 例として「猛(勢い)」「赤(赤色)」が火の属性であり、火であるために欠かせない要素であるため、これがないものに火と呼ぶことはできません。

5. まとめ

この漢文は、仮説や名称は必ず何らかの「真の事物」に依存して成り立つということを論理的に説明しています。そして「真の事物」がなければ、仮説も成り立たないという結論に導き、仮の概念は実体のないものに基づいて生じるものではないとしています。

この論理の背景には、唯識思想の「心と外界の関係」に対する批判が含まれており、仮説と実体の関係を通して「真実の事物なしに、仮の概念を成り立たせることはできない」という考えが示されています。

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此識行相所緣云何?謂不可知執受處了。了謂了別,即是行相,識以了別為行相故。處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。有根身者,謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,即以所變為自所緣,行相[3]仗之而得起故。此中了者,謂異熟識於自所緣有了別用,此了別用見分所攝。然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現。彼相應法應知亦爾。似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。若心心所無所緣相,應不能緣自所緣境,或應一一能緣一切,自境如餘、餘如自故。若心心所無能緣相,應不能緣如虛空等,或虛空等亦是能緣,故心心所必有二相。如契經說
 
この漢文は、仏教の唯識思想における「識」の働きや、識が何を対象としているかを詳しく説明しています。唯識思想は、すべての現象は「識」すなわち心の働きによって構成されるという考え方で、特に「阿頼耶識(あらいやしき)」という無意識の層が根本にあり、そこからさまざまな現象が生じると説かれます。以下、段落ごとに内容を解説します。
 

1. 識の「行相」および「所縁」

「此識行相所緣云何?」

ここで、「識の行相(ぎょうそう)」と「所縁(しょえん)」についての説明が始まります。「行相」とは、識の働きや様子のことであり、「所縁」とは識が認識する対象のことです。


2. 行相と所縁についての説明

「謂不可知執受處了。」

識の働き(行相)は、不可知であり、把握しがたいものであり、その根底にあるのは「執受」「処」「了」という3つの概念です。ここでの「了(りょう)」は、識が対象を明確に知覚するという意味です。

「了謂了別,即是行相,識以了別為行相故。」

「了」とは「了別(りょうべつ)」、すなわち「認識して区別すること」を指します。これが「行相(識の働き)」です。識は、ものごとを区別して認識する働きを本質としています。

「處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。」

「処」とは「処所(場所)」のことで、ここでは「器世間(きせけん)」、すなわち有情(生きる存在)が依存する外界や環境を指します。

「執受有二,謂諸種子及有根身。」

「執受(しゅうじゅ)」は二つに分類されます。一つは「種子(しゅうじ)」、もう一つは「有根身(うこんしん)」です。


3. 執受の二分類:「諸種子」と「有根身」

「諸種子者,謂諸相名分別習氣。」

「種子」とは、さまざまな対象や名称、区別する習慣(習気)が含まれているものです。これらは、識の内部に蓄積される潜在的な印象のことです。

「有根身者,謂諸色根及根依處。」

「有根身」とは、感覚器官(五根)やそれを支える身体(依処)を指します。識はこれらを執受し、自己の一部として扱います。

「此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。」

この二つ(種子と有根身)は、識によって執受され、識の自己の一部とされるため、安危(安全や危険)を共にします。


4. 阿頼耶識の働きと所縁

「阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。」

阿頼耶識は、因縁(条件や原因)の働きによって、内側においては「種」と「有根身」を生じ、外側には「器世間」を生じます。こうして生じたものを、自らの所縁(対象)として識が働きを起こすのです。


5. 識の「了別用」とその二つの側面

「此中了者,謂異熟識於自所緣有了別用,此了別用見分所攝。」

ここでは「了別用(りょうべつよう)」、つまり識が対象を認識・識別する働きについて説明されています。この働きは、見分(けんぶん)、すなわち「識別の作用」によって捉えられるものです。

「然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現。」

「有漏識(うろしき)」が生じるとき、識は必ず「所縁の対象」と「能縁の作用」が現れる形で働きます。これは、対象を似たような形で認識することを指します。


6. 「相分」と「見分」

「似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。」

「相分(そうぶん)」は「所縁の対象に似たもの」として現れる部分を指し、「見分(けんぶん)」は「能縁(主体)の働きに似たもの」を指します。このように、識の中には対象に似た部分と認識する主体に似た部分が存在するのです。


7. 所縁相と能縁相の存在理由

「若心心所無所緣相,應不能緣自所緣境,或應一一能緣一切,自境如餘、餘如自故。」

もしも識に「所縁の対象」がなければ、識は対象を認識することができなくなる、という論理です。さらに、識が無差別にすべてを対象とできるならば、区別の意味がなくなります。

「若心心所無能緣相,應不能緣如虛空等,或虛空等亦是能緣,故心心所必有二相。」

もし「能縁の作用」がなければ、識は虚空(空間)などの無形のものを認識することができません。したがって、識には必ず「所縁の相」と「能縁の相」が備わっている必要があります。


8. 経典の証言

「如契經說」

このように、これらの説明は経典に基づいて述べられていると結ばれています。


まとめ

この文章では、識の働きがいかに対象(所縁)に依存して成り立つかが詳細に論じられています。識には「所縁」と「能縁」の二つの側面があり、対象を認識する際には対象に似た姿(相分)と認識する働き(見分)として現れます。

 
 一切唯有覺, 所覺義皆無, 能覺所覺分, 各自然而轉。 執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心心所自體相故。心與心所同所依緣行相相似,事雖數等而相各異,識受想等相各別故。達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,相見所依自體名事,即自證分。此若無者,應不自憶心心所法,如不曾更境必不能憶故。心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別領納等作用各異故,事雖數等而相各異,識受等體有差別故。然心心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相見必有所依體故。如《集量論》伽他中說

この漢文は、仏教の「唯識思想」における「識」(認識の働き)と「所縁」(対象)との関係についての説明です。唯識思想では、私たちが知覚している世界がすべて「識」(意識の働き)によって構成されていると考えます。このテキストでは、識が対象をどのように認識するかを「能覚(認識する側)」と「所覚(認識される側)」の観点から議論しています。

以下、段落ごとに解説していきます。


一切唯有覺, 所覺義皆無, 能覺所覺分, 各自然而轉。

  1. 「一切唯有覺,所覺義皆無」
    • すべては「覚(意識・認識)」に過ぎず、認識される対象には本質的な意味がないとされています。すなわち、対象そのものに実体がなく、すべてが「識(意識の働き)」だけで成り立っているという考えです。
  2. 「能覺所覺分,各自然而轉」
    • 「能覚」(認識する側、つまり主体としての意識)と「所覚」(認識される側、つまり対象としての意識)は区別され、それぞれが自然に働きを展開します。唯識思想では、能覚と所覚が相互に作用し合い、識の働きを支えています。

執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心心所自體相故。

  1. 「執有離識所緣境者」

    • 「識(意識)」とは別に実在の「所縁境(対象としての世界)」があると考える者について述べています。彼らは、「外の世界」が意識の対象(所縁)であると主張します。
  2. 「相分名行相,見分名事,是心心所自體相故」

    • この考え方では、対象(相分)は「行相」(識の働きによって現れるイメージ)とされ、認識する側(見分)は「事」(認識の実体)とされています。つまり、「相分(対象)」と「見分(主体)」は心(意識)の働きであり、識の内部にあるものとされています。

心與心所同所依緣行相相似,事雖數等而相各異,識受想等相各別故。

  • 「心與心所同所依緣行相相似」

    • 心(識)とその働き(心所)は、同じ依りどころ(根本的な基盤)と対象(所縁)を持ち、行相(意識の働き)として似通っています。
  • 「事雖數等而相各異,識受想等相各別故」

    • 認識の働きはそれぞれ異なる性質を持っています。たとえば、識(認識)、受(感覚)、想(思考)の働きはそれぞれ異なる特性を持っており、それぞれが別々の役割を果たします。

達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,相見所依自體名事,即自證分。

  1. 「達無離識所緣境者」

    • 「識(意識)」とは別に実在する「所縁境(外界の対象)」がないと達観する立場について述べています。つまり、外界の対象は実体ではなく、意識の働きによって現れているという考え方です。
  2. 「則說相分是所緣,見分名行相,相見所依自體名事,即自證分」

    • この立場では、「相分(対象としての意識)」を「所縁(認識の対象)」とし、「見分(認識する側)」を「行相(識の働き)」とします。この二つの相が依拠する本質的なもの(自体)は「事(実体)」とされ、これは「自証分(意識自身が認識する部分)」として定義されています。

此若無者,應不自憶心心所法,如不曾更境必不能憶故。

  • 「此若無者,應不自憶心心所法」

    • もし「自証分」がなければ、心や心所の働きを自ら認識することはできないはずです。
  • 「如不曾更境必不能憶故」

    • つまり、一度も経験したことがない対象を記憶することができないのと同じように、認識の働きを保持するためには何らかの「自証分」が必要だという理屈です。

心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別領納等作用各異故,事雖數等而相各異,識受等體有差別故。

  • 「心與心所同所依根,所緣相似,行相各別」

    • 心と心所は同じ基盤(依りどころ)を持ち、対象に似た性質を共有しますが、行相(認識の働き)は異なります。
  • 「了別領納等作用各異故」

    • 識の働きには「了別(理解・識別)」「領納(受け取る)」といった異なる役割があるため、各々の認識の働きも異なるということです。

然心心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相見必有所依體故。

  • 「然心心所一一生時,以理推徵各有三分」

    • 心と心所の各々が生じるとき、それぞれに三つの分(要素)があると推測できます。
  • 「所量、能量、量果別故」

    • 具体的には、「所量(対象)」「能量(主体)」「量果(結果)」がそれぞれ別々に存在するということです。
  • 「相見必有所依體故」

    • つまり、「相(対象)」と「見(認識)」には、それぞれが依存する実体が必要とされています。

結論

この文全体は、唯識思想における「識」と「対象」の関係について説明しており、認識(識)は外界の対象をそのまま映し出すのではなく、識の内部で「能覚」と「所覚」を分けて働き、対象と認識が互いに相依存する関係で成り立っているということを示しています。

 

次の漢文の意味を教えてください。 似境相所量, 能取相自證,
即能量及果, 此三體無別。

又心心所若細分別應有四分:三分如前,復有第四證自證分。此若無者,誰證第三心分既同,應皆證故。又自證分應無有果,諸能量者必有果故。不應見分是第三果,見分或時非量攝故。由此見分不證第三,證自體者必現量故。此四分中,前二是外、後二是內

この漢文は、仏教の唯識(ゆいしき)思想における「識(しき)」の四分説について説明しています。四分説は、心(識)の構造を四つの分(ぶん)に分けて考える教義で、主に「似境相所量」「能取相自証」「能量」「果」の関係を通して、識の成り立ちと働きを説明しています。

以下、各部分について詳しく解説します。


1. 似境相所量,能取相自証,即能量及果,此三體無別。

  • 「似境相所量」

    • 「似境相」とは、「境(外界の対象)に似た相(すがた)」のことです。つまり、私たちが心の中で対象としているイメージです。この「所量」は、対象として認識されるものを意味します。
  • 「能取相自証」

    • 「能取相」とは、対象を捉える側の働き、つまり認識する主体の部分です。「自証」は、この認識自体が確かであること、すなわち認識が自らを認識することを指します。
  • 「即能量及果,此三體無別」

    • 「能量」とは、認識する主体のこと、「果」とはその認識の結果です。この三つ(所量=対象、能量=主体、果=結果)は一体であり、別々に存在しているわけではないという意味です。すなわち、唯識では認識の対象と主体と結果が一体であるとしています。

2. 心心所若細分別應有四分:三分如前,復有第四證自證分。

  • 「心心所若細分別應有四分」

    • 「心」とは意識の働き、「心所」はその働きに付随する心理的な要素です。これらを細かく分けると「四分(しぶん)」に分類できると述べています。
  • 「三分如前」

    • 先に挙げた三つの分(似境相、能取相、自証)に加え、さらにもう一つの「第四の分」を含めて説明します。
  • 「復有第四證自證分」

    • 第四の分は「証自証分」と呼ばれます。これは「自証分」を認識する働きで、認識そのものを捉える機能を持ちます。すなわち、自分の認識そのものをさらにもう一段階で認識している働きです。

3. 此若無者,誰證第三心分既同,應皆證故。

  • 「此若無者,誰證第三」

    • もし「証自証分」がなければ、誰が第三の分(自証分)を認識するのかという問いかけです。証自証分がなければ、自分の認識(自証分)を捉える主体が存在しなくなります。
  • 「心分既同,應皆證故」

    • 論理的に考えると、識の四分は連続的で一体的に働いているため、各分が互いに証明し合っていると見なされるべきだと示しています。

4. 又自證分應無有果,諸能量者必有果故。

  • 「又自証分応無有果」

    • 自証分は、その働き自体が「結果」ではなく「自分を確認する働き」に過ぎないため、通常の認識における結果(果)とは異なるとしています。
  • 「諸能量者必有果故」

    • 一方で、通常の認識作用(能量)は、必ず認識の結果(果)を伴います。このため、自証分と一般的な認識の結果は区別されるべきとしています。

5. 不應見分是第三果,見分或時非量攝故。

  • 「不応見分是第三果」

    • 「見分」(認識する主体の働き)は第三の分(自証分)ではありません。見分は認識そのものを表しますが、必ずしも結果に含まれるものではないためです。
  • 「見分或時非量攝故」

    • また、見分は認識に含まれるものですが、常に正しい結果をもたらすわけではないこともあるため、結果とは別に捉えるべきです。

6. 由此見分不證第三,證自體者必現量故。

  • 「由此見分不証第三」

    • 見分は第三の分(自証分)を証明する役割を持っているわけではありません。見分は外界の対象を認識する働きであって、自己認識にまで及ぶわけではないためです。
  • 「証自体者必現量故」

    • 自証分は自己を証明するものであり、必ず現量(実際の直接経験)として働きます。

7. 此四分中,前二是外、後二是内。

  • 「此四分中,前二是外、後二是内」
    • 識の四分のうち、最初の二つ(似境相=対象、能取相=認識)は外界の対象と関わるものであり、後の二つ(自証分=自己の認識、証自証分=自己認識を確認する)は内面的な意識の働きとされています。

まとめ

このテキストでは、唯識思想に基づき、識の働きを四つの要素(四分)に分けて説明しています。四分は以下の通りです:

  1. 似境相:対象に似たイメージ
  2. 能取相:その対象を認識する主体の働き
  3. 自証分:認識そのものを確認する働き
  4. 証自証分:自証分をさらに認識して確証する働き

この四分構造により、唯識では「心が対象を捉え、自己を認識する構造」を明確にし、外界の対象(所縁)と識の内的な働きの関係が説明されています。

 

 

 
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4歳下の弟の葬儀に参列

2024年05月31日 | 佛教

 5月28日に弟が死亡した。

 弟は15年8ヶ月前に一人で観光に出かけた福知山城の近くので心疾患を発症。近くにいた人の救急呼び出しで福知山の市民病院へ運ばれて救命治療を受けた。

 命は取り留めたが頭に血が回らずに脳に大きなダメージを受けた。古い記憶は思い出すことも多かったが、新しい記憶は失われてしまった。妻や3人の子のことが分からない。

 内科医だったが当然のごとく医師としての能力を失った。

 私が会いに行くと、覚えていてヤーというわけである。元々タイガースファンでタイガースの試合は必ず見る。

 しかし、いわゆる痴呆状態、誰かが介助していないと、自発的には何も出来ないのである。

 以来、奥さんがずっと介護してきていたのである。勿論、子の手助けや病院、介護サービスを取り混ぜて見守りであった。

 15年8ヶ月ですよ。長過ぎる。

 事故から救急治療に至る1分、2分の時間の違いで、正常回復、あるいは死亡、そして長期間の認知症状に運命が分かれたのである。

 ピンピンコロリが理想と言われていますが、このようなケースも起こり得るということを知っておいていただきたいと思い、記事にしました。

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安泰寺での修行風景

2024年03月14日 | 佛教

 以前テレビ放送された安泰寺の修行風景がユーチューブにアップされたので興味のある人はご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=vj84dJHwbBo

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人生料理の本

2023年06月10日 | 佛教

 その後、申し込みがありません。

 遠慮深い人が多すぎるようです。

 一部、PDFにコピーしたサンプルをメールで送りますから、メッセージからアドレスを書いて申し込んでください。

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人生料理の本

2023年06月08日 | 佛教

 前回、「人生料理の本」を読みたい希望の方に差し上げたい旨のお知らせを致しましたが、今日まで一人もお申し出がありません。

 内山老師は私にとって、日本一お坊さん、つまり、それは世界一のお坊さん、その老師のナンバーワンの著作と考える本です。つまり、私が最も影響を受けた本なんです。

 今日はこの本に関わるエピソードをお示ししたいと思います。本の中の3ージをご覧ください。

 

 エピソードというのが、この部分が盗作されたのです。
 この「人生料理の本」は、曹洞宗の発行する小冊子「禅の友」に昭和44年ごろ連載されていたものを纏めて昭和45年単行本として出版されたものです。

 普通の場合は盗作は他者の著作を無断引用して自分の著作として発表するものです。その場合、バレないように気をつけるはずです。

 ところが、食物文科史研究家の平野雅章氏はけしからんことに、内山老師の人生料理の本を丸写しして自分の文章として「禅の友」に投稿していたのです。

 上のPDF「第二話 宗教生活について」のところをちょっと変えてほぼ丸写しだったのです。

 普通の場合は盗作は他者の著作を無断引用して自分の著作として発表するものです。その場合、バレないように気をつけるはずです。


 私がビックリしたのは、老師と同じ「禅の友」にほぼ丸写し文を載せたことなんです。「禅の友」は曹洞宗宗務庁が出している檀家向けの雑誌で「人生料理の本」の出版元は曹洞宗宗務庁です。

 そんな文章を投稿する方もする方だが、誰も気づかずに来てしまっていたようだ。

 私は昭和55年ごろ宗仙寺の正法眼蔵味読会に参加していた時、無料配布されて「禅の友」にそれを発見したのです。これには私がビックリしました。私には「人生料理の本」座右の書として何回も何回も繰り返し読んでいる文章です。すぐ気が付きました。

 私もこんなのが出てますよと老師のところへ持って行こうか、いや、いらない気を揉ませてもと思ったりして結局私としてはそのままにしていまいました。

 後にパソ通でコミしていたHさんが、平野氏の全集を調べてくれまして、全集の中に「典座教訓・赴粥飯法」(昭和48年)というのがあり、ちゃんとパクられた文章が確認され、また、中根環堂先生の「赴粥飯法現代講話」からも,パクパクやっているということでした。

 北大路魯山人の弟子だというのに、パクリばっかりなのには驚きました。

 素晴らしい本なのに申込者0なんて(泣)、とにかく「メッセージ」から申し込んでください。タダです。

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出逢うところわが生命

2023年06月03日 | 佛教

 5月20日に内山興正老師との出逢いについて書いたが、「縁は異なもの」という出来事があった。

 今、居住しているアパートの屋根や壁面の補修工事をするというので、長年扉を閉めっぱなしにしていた物置を開けてみた。前に物をおいていて見ることがなかったのである。

 開けてビックリ、ガラクタを整理すると混じって出てきたのが「人生料理の本」5冊である。

 私が人生において一番影響を受けた本である。

 秋月龍珉さんが、ある著書の中で布施として施本を勧められていたので、この本こそそれにふさわしい、有縁の人に配ろうとまとめ買いをしていたものである。

 しかし、施本もなかなか難しい。誰にどのように言って渡すのか、誰彼なしに渡せるほど小遣いに余裕がない。

 この本は曹洞宗宗務庁発行のもので、絶版後再刊行されていない。老師の本の再刊行に尽力されてきた櫛谷宗則さんに頼んでみたこともあるのだが、曹洞宗宗務庁が何故か応諾しないのだそうである。

 そこで、読んでみたい人はメーッセージから申し出ください。読めるようになるかも知れません。

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縁は切れない

2023年05月14日 | 佛教

 ヤフーの知恵袋で一切皆苦、十二支縁起、四諦、諸行無常、諸法無我等の質問があったので、下のとおり回答を書いた。

 仏教の根本教説は縁起説、あらゆる教説は縁起を根本としそれから派生したものである。

 ところが縁起が切ったり結んだり、あったりなかったりしている。私は縁は切れない、切りようがないと考える。宇宙の果まで繋がっているのである。

 

「以下知恵袋の文章」

 仏教の根本命題は苦からの解脱です。それをいろいろの視点から説いています。
 物事を分析的に見る、諸要素にバラバラしてしまう。それらが仮にくっついて成り立っている、つまり、縁起だというわけです。
 本来、バラバラなものだから実態はない、無我、無常、無自性だというわけ。だから、自分も存在しない、その苦しみも本来ないのだというのです。

 しかし、これは無茶な論理です。それで納得しているのがおかしいでしょう。

 例えば、五蘊説というのがある。人間生命を色受想行識の五蘊から成り立っているという。では五蘊に分かられるかというと実際に分けようがない、無理に分ければ死んでしまいます。
 元々、生命がちゃんとあるのです。そして、生きているのです。
バラシは頭の中での思考によるもので、実際にはバラせていない。バラしようがないのです。

 仏教の根本教説は縁起説です。
縁というのは繋がりです。それは切りようがないのです。
ところが、皆んな切って考える、切ったものをくっつけても元には戻りません。

 我々の身体も切り分けられるとして切り分けて行くと、素粒子まで行ってしまいます。素粒子には4つの力が働いていて、電磁力と重力は影響範囲が無限大で相互作用していると言います。
相互作用は仏教で言うところの縁ですから、実は縁は切れないのです。

 ところが従来の仏教の縁は切れてしまいます。切ったり結んだり、あったりなかったり。

 切れない縁で仏教を考え直す時代に来ています。
誰がそんな事を言っている? 私が言っているのです。(笑)

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村上光照老師が亡くなられました

2023年01月28日 | 佛教

 以前当ブログでも紹介した村上光照老師が亡くなられました。

 年始めには写真のような年賀状を頂いたのですが、1月22日に亡くなられたということです。お年は私より少し上です。

 老師について、以前ニフティサーブのパソコン通信で対話していたいちりんさんが、ご自身のブログで老師のことを紹介されていますので、ご覧ください。

https://ichirindo.hatenablog.com/entry/2023/01/28/064941

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上座仏教の生命観

2023年01月14日 | 佛教

 以前はヤフーの知恵袋で、多くの回答を書いてきたが、近頃はあまり覗かなくなった。回答する気の起こらない、私の関心を呼ばない質問が増えて来たようだ。

 で、近頃はツイッターを見ることが多くなった。仏教関係のツイートにリツイートすることがほとんどである。

 その中で、特に気になるものがあったので、紹介する。

アーチャン・チャーと上座仏教の僧侶の言葉である。

「もし、あなたが「人」というものは実際には存在せず、本当はただ五蘊とその要素だけが存在すると明晰に理解することができるのなら、誰かがあなたに何か言っても、もはやそれは大したことではないでしょう。

 けれども、もしただ存在するのは五蘊だけであるということを理解していない人が中傷されたり、侮辱されたりしたら、彼はあまりいい気はしないでしょう。その場合、中傷に対し、彼は歯を食いしばって自分を抑えなければならないことになるのです。」

 これは、「人」は存在せず、五蘊だけが存在すると言っている。

 「人」は五蘊と要素からできており、縁起による要素の寄せ集めに過ぎない。だから、「人」が存在すると言えないと言うのである。

 「無我」ということを文字通りに我の存在を否定している。が、存在している自分を否定するのはやはり無理がある。五蘊があって「人」があるのではない。

 五蘊なんてどこにある?

 初めに「人」がいるのである。「初めにいのちありき」である。それを分析的に考えると、五蘊に分けて考えることができる。

 考えられるが実際には分けようもない。無理に分けようとすれば「人」は死んでしまう。ありもしない五蘊を組み合わせて「人」にできるはずもないのである。

 縁起というのは、いろんな要素の寄せ集めである。その要素は無限なのである。人間の思量では届かないものである。

 五蘊なんてたった5つの要素にすぎない。

 人体(内向考察)→37兆の細胞→分子→原子→素粒子⇒宇宙力
 人体(外向考察)→地球→太陽系→銀河→銀河団→大規模構造→宇宙⇒宇宙力

 宇宙力とは宇宙を生み出し構成する力、私の造語(多分)である。 

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切れない縁 宇宙力

2022年12月05日 | 佛教

 12月8日は成道会の日、釈尊が悟りを開かれた日とされている。
それに因み、禅門においては1日から8日まで臘八摂心という8日間連続の坐禅の修行が行われている。

 7日7晩、自己の内面を点検された結果、バラモン教のいう我の本体たる霊魂、いわゆるアートマンの存在を見つけることはできなかった。

 しかし、現に生きている自己の存在がある。それをいろんなものの寄せ集め、つまり縁起による化和合の存在と考えられたのである。

 つまり、縁の集合体だから、我という本体はない、それを無我にしてしまった。でも、これが問題。

 無我という言葉に囚われ、縁による集合体を認めない人がいる。それでいて輪廻を認めている。どういう思考からそうなるのか。不思議である。

 その問題の根本は、縁というものが切れると考えられていることである。縁を切る、縁を結ぶ、有縁、無縁という言葉のとおりである。寄せ集めだからバラバラになる。ないとも思えばないということにもなる。

 しかし、私の探究では縁は切れないということである。遠ざけたり近づけたりはできるが絶対に切れない。一つの存在にあらゆるものが関わっている、宇宙の一切のものが関わっているのである。私のいう宇宙力とは縁のことなのである。

 そのことは仏教でもちゃんと言っているのである。
 一即一切、一切即一
 重重無尽 法界縁起

 なぜそう言えるのか、これは近代科学のお陰である。電磁力と重力の影響範囲が無限大という物理の法則があるからである。この無限大の力が縁なのである。

 我々は縁で繋がった宇宙全体を生きているのだし、そうすると我々のちょっとした動きが宇宙全体を動かしているということにもなる。

 その宇宙生命を我が生命とするなら、それは死ぬことはないのである。この宇宙は釈尊の生きられた宇宙であり、釈尊の生命である。
 宇宙生命から新しい生命が生まれてくる。我々は釈尊の生命を継いで生まれてくるのである。

 私がいて、あらゆるものが存在する。あなたがいてあらゆるものが存在する。あらゆるのものが欠けることなく繋がり合って、宇宙を構成する。
 私がいなければ、宇宙は存在しない。あなたがいなければ、宇宙は存在し得ない。 

 
 「宇宙力で生きよう 死んでも死なないいのちを生きよう」

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七仏通戒偈

2022年11月22日 | 佛教

 近頃、マインドフルネスや上座仏教の冥想(瞑想)をやる人が増えてきているようである。

 日本にはちゃんと仏祖正伝の坐禅があるのに、新しいものに飛びつく日本人の癖なんだろうか。

 前にも紹介したことがあるが、坐禅について内山興正老師の文章を再度転載し直してみる。

 ーーー
 『龍樹祖師いわく。坐禅はすなわち諸佛の法なり。しかも外道も亦坐禅あり。
しかりといえども外道は着味の過あり。邪見の刺あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず。二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず (永平広録 巻七)』

 つまり外道の人もーーたとえばインドのヨガの人なども坐禅するし、日本の生長の家の人でも、神想観といって坐禅みたいなことをやるわけです。「然りといえども、外道は着味(じゃくみ)の過あり、邪見の刺あり」と出ていますが、何か色合いがついている。味付けがしてあり、坐禅すると健康にいいとか、頭がよくなる、とかいう。インドの人たちは、坐禅して昇天の福を得ようとか、来世は天人に生まれ変わろうというのが殆どで「ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」といいます。

 それから又「二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」とあります。いま南方佛教の人たちは、坐禅してだんだん煩悩を細めていって、最後にはそれを全く無にするという。これはいわゆるの「自調の心」であり、最後には煩悩を断滅してニルバーナをえようというので、そういうつもりになっています。

 ところが「諸佛菩薩の坐禅」というのは、これに反して「坐禅はまっすぐにただ坐禅する」という一事に尽きます。坐禅するーーただそれだけで、何の「つもり」ももたない。これが本当の坐禅であり、これを「只管打坐(しかんたざ)」といいます、それが道元禅です。

ーーー

 マインドフルネスは上の例からするとヨガ禅みたいものでしょう。

 とすると、我々、諸仏菩薩の坐禅をやっていくしかないと思うところである。

 ところが禅門の坊さんが瞑想を取り入れているのはどうかと思う次第である。

 勿論、仏教の範疇であることは否定しないが・・・。

 佐々木閑先生は瞑想は精神の集中だと言われている。で、その言を取り入れることにして思いついたのが、七仏通戒偈である。

 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 これを修行のやり方として2つに分けてみた。

   諸悪莫作 衆善奉行  (瞑想  念、想、観の測量あり  思い手放し)

 自浄其意     (只管打坐  念、想、観の測量なし  頭手放し) 

 仏法としてはたとえ瞑想をやってもその集中を解く只管打坐の坐禅に落ち着かざるを得ないと私は考える。

         

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無我について

2022年11月04日 | 佛教

 私は2年半前から、駒澤大学の佐々木閑名誉教授のユーチューブ講座を視聴している。説明が一般向けに分かり易く説かれていて、いろいろ学ばせていただいて仏教に関心のある者として非常に有り難いことだと思っている。

 ただ、仏教信奉者としてもこれは認められないと、思うことがある。一例を挙げれば輪廻説である。死んだ者がそのままの続きとして再生してくるなんて信じようもない。

 輪廻思想は先生も信じていないと言われているが、講義としては阿含経に書かれているとおり輪廻を前提として話をされている。

 信じていないけれど、学問としてはお経に書かれていることを解説しなければならない、先生もジレンマを感じておられることであろうと思う。

 さて、昨日の講座は十二処に関するものだった。六根があって、六境があり、それら要素を集めたものを自分だと思っているが、その自分は錯覚である。元にである十二処は無常であり、苦であり、無我なのであるから、それが集った私というものも錯覚で無我なのであるという説明である。

 ところが私はこの説明が気に入らないのである。自分はちゃんと存在しているではないか。自分は存在しないという意味の無我はどう考えておかしい。

 バラバラしたものを先に持ってきて、それが無我だからつなぎ合わせて出来上がったものも無我と言っているのである。

 そもそも、無我なんていうのも先に思考力を持った人間が先にいて言えるのである。無我よりも自我が先である。

 十二処も五蘊も生きている人間を観察して、頭の中で分析思考したものでしかない。実際に分けることもできないが、分ければ生命は死ぬことになる、そんなものをつなぎ合わせても生き返ることはない。

 では、無我とは何か。限定できないということ、肉体も精神も常に変化しているし、それだけで存在し得ないということ。つまり、無限ということ、宇宙一杯ということである。

 生命体が存在するためには、空気、水、食べ物、着る物、寝るところがいる、それらは地球上にある、地球は太陽がなければ存在し得ない、太陽は銀河、銀河は宇宙、みんな揃って自分という存在がある。宇宙全体の力で生きているのである。

 物と物がどうして繋がっているのかというと、電磁力と重力による。電磁力と重力はその影響範囲が無限大なのである。我々、地球を介して月や太陽に繋がっているのではダイレクトに繋がっているのである。

 これが仏教で言う縁である。縁は切れない、相手を遠ざけることはできても絶対に切れないのである。

 佐々木閑名誉教授 仏教講座
https://www.youtube.com/watch?v=7hfQ9gyOS-4&t=617s

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生まれ変わり

2022年09月01日 | 佛教

更新をサボっています。

安直にヤフーの知恵袋で、「生まれ変わりがあるのか」との質問があったので次の通り回答したのを転載します。

死んだ人が生まれ変わるということはありません。
しかし、その人の記録、記憶は残ります。遺産です。後の人がそれを活かすことを事ができます。

例えば、お釈迦さんの教えは2500年、代を替えて引き継がれてきました。今もお釈迦さんの教えを継いだ人がおられます。

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道元禅師の輪廻観

2022年06月23日 | 佛教

前回、生まれ代わり思想としてのいわゆる輪廻転生に2種類あると、書いた。

道元禅師はどう考えていたか。私の思うところを書いてみたい。

道元禅師は正法眼蔵弁道話で、霊魂による輪廻をはっきり否定している。霊魂により生まれ変わるとするのは外道の説であると言われてる。

しかし、正法眼蔵三時業の巻では、業による生まれ変わり、現生、次生、後次生という三世における生があることを解説している。

晩年において、なぜこのような三時業の巻を書かれたのか、訳の分からない話で、道元禅師のような知性をもってしても、経文の記述から脱することができなかったようである。

この三時業については、秋月龍珉老師が口を極めて批判しておられる、以前に老師の著書「間違いだらけの仏教」を引用して紹介したことがあるので、読み直しされることを勧めたい。

「正法眼蔵三時業」
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou.htm

「間違いだらけの仏教」

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/4fd9211ab82b33afe30155fe89394aed

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/9e17c5c87447962833b5a71875ebc5a3

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/93d1f615e5b8547b566b6264a24b583c

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3つの輪廻

2022年06月10日 | 佛教

 知恵袋で輪廻転生について、質問があったので次のとおり回答したので、ここに記録しておく。

 

 輪廻はサンスクリットの原語サンサーラは「流れること」「転位」を意味します。つまり、物事が法則に従って動いていくさまをいうのです。
それを漢訳された時に輪廻としたのです。壊れた輪が蘇るそんな意味は飛躍がありすぎるでしょう。

 生死を繰り返す様を輪の回りに例えたという説もあります、むしろ、こちらが主流です。

 さて、そんな輪廻転生説を唱えたのはバラモン教です。バラモン教では輪廻の主体をアートマンという霊魂だとしました。アートマンは不滅であり、輪廻から解脱しないかぎり永遠に苦しみの生死を繰り返す、解脱するには長い期間の苦行をしなければならないのです。解脱することができればアートマンは天に上り、ブラフマン(梵天)と一緒になります。梵我一如とか梵我合一とか言われ、もう生まれ変わりることはなくなるというのです。

 お釈迦さんはその修行に挫折されます。絶望のあまり、菩提樹のふもとでへたりこまれたのでしょう。7日7晩、坐り込んで8日目の朝、明けの明星を見た途端、悟りを開かれたのです。

 お釈迦さんの悟りは輪廻の根源たるアートマンの否定です。代わりに縁起説が唱えられました。無我です。アートマンの否定で輪廻転生思想は終わりのはずですが、そうはいかなかったのです。

 世の中は輪廻を信じる人ばかり。お釈迦さんが解脱されたとしても特別な人扱いだったのでしょう。

 輪廻思想は無くならず、輪廻の理由が業に置き換えられたのです。

 その業とか縁起というものは、一本つながりで論じられるものでなく関係するものは無数にあり、それが皆関係しているのです。

 生命のような複雑なものが、こうすりゃこうなるというようなトンコ節のような簡単な因果で生じるものではありません。

 生命は心理の問題であり、生理の問題であり、物理の問題です。心理だけでどうかなるものでは決してありません。 

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