ある人にChatGPTによる成唯識論の訳を頼まれたので使ってみた。元の文が3回に分かれていたので、3回分をまとめたものである。
あまりに長文になるので、ここに掲載することにした。このようなこともできることを知っていれば便利に使えると思う。
しかし、元データが古いのがあって、役に立たないことがある。注意が必要。
謂假必依真事似事共法而立,如有真火、有似火人、有猛赤法乃可假說此人為火,假說牛等應知亦然。我法若無,依何假說?無假說故,似亦不成,如何說心似外境轉彼難非理,離識我法前已破故。依類依實假說火等,俱不成故。依類假說理且不成,猛赤等德非類有故,若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。若謂猛等雖非類德而不相離故可假說,此亦不然,人類猛等現見亦有互相離故。類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。依實假說理亦不成,猛赤等德非共有故。謂猛赤等在火在人其體各別,所依異故。
この漢文は仏教の唯識思想(特に唯識派や法相宗)に関する論理的な説明で、特に「仮(か)=仮のもの」の概念と、それが依存する「真=真実のもの」との関係について論じています。内容としては、「仮の存在」(例えば「火」という概念)は、何らかの「真の存在」に依存して成り立つべきだとする論を展開し、対象がなければ仮の概念も成立しないという論理を説明しています。
この漢文の大まかな意味を整理して説明します。
1. 仮のもの(仮説)は真実のものに依存する
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「謂(いわ)く、仮(かり)に必ず真に依る」とありますが、これは「仮のもの、すなわち本質がないものは、必ず真のものに依存して成り立つ」という意味です。つまり、何かを「仮に火である」と言うためには、本当の火のような実体が必要だとしています。
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例として「真火(本物の火)」と「似火(火に似たもの)」が挙げられており、火のように「猛(勢いがある)」「赤(赤い)」という性質が見られなければ、「火」だと仮定することはできません。
2. 仮の概念は、真の事物の性質に基づく必要がある
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この論では「牛(うし)」や「火」などの具体例を使い、仮の概念が成り立つためには、その概念を支える共通の性質(「猛」や「赤」など)が必要であると述べています。もしもそのような性質が欠けているならば、「火」や「牛」という仮説すら成り立ちません。
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また、「我(が)」「法(ほう)」といった概念も、真実のものがなければ仮のものとして存在することはできないと述べています。例えば、「我」や「法」という仏教用語も、その根本的な実体がなければ成り立たないということです。
3. 心が外界の事物(外境)に似て転ずるという考えへの反論
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続く部分では、「心が外界の事物に似て変化する」という唯識派の主張に反論しています。この主張は、心(識)が外界のような事物に影響され、似たものを生み出すという考えですが、この文では「我や法が実体を持たない」という前提を破っているとしています。
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この部分では、「仮に火を表現するための実体がなければ、火という仮の概念も成り立たない」と述べ、外界に似た心の作用を説明するためには、「実体としての火」が必要であり、単なる仮説としては成立しないと批判しています。
4. 共通の性質がなければ、仮のものは成立しない
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さらに、「もしも水に火の仮名を付けることができるならば、すべてのものに対して仮名をつけることができるはずだ」という指摘も行われています。これは「共通の性質を欠くものに仮の名前を付けることはできない」と論じている部分です。
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例として「猛(勢い)」「赤(赤色)」が火の属性であり、火であるために欠かせない要素であるため、これがないものに火と呼ぶことはできません。
5. まとめ
この漢文は、仮説や名称は必ず何らかの「真の事物」に依存して成り立つということを論理的に説明しています。そして「真の事物」がなければ、仮説も成り立たないという結論に導き、仮の概念は実体のないものに基づいて生じるものではないとしています。
この論理の背景には、唯識思想の「心と外界の関係」に対する批判が含まれており、仮説と実体の関係を通して「真実の事物なしに、仮の概念を成り立たせることはできない」という考えが示されています。
1. 識の「行相」および「所縁」
「此識行相所緣云何?」
ここで、「識の行相(ぎょうそう)」と「所縁(しょえん)」についての説明が始まります。「行相」とは、識の働きや様子のことであり、「所縁」とは識が認識する対象のことです。
2. 行相と所縁についての説明
「謂不可知執受處了。」
識の働き(行相)は、不可知であり、把握しがたいものであり、その根底にあるのは「執受」「処」「了」という3つの概念です。ここでの「了(りょう)」は、識が対象を明確に知覚するという意味です。
「了謂了別,即是行相,識以了別為行相故。」
「了」とは「了別(りょうべつ)」、すなわち「認識して区別すること」を指します。これが「行相(識の働き)」です。識は、ものごとを区別して認識する働きを本質としています。
「處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。」
「処」とは「処所(場所)」のことで、ここでは「器世間(きせけん)」、すなわち有情(生きる存在)が依存する外界や環境を指します。
「執受有二,謂諸種子及有根身。」
「執受(しゅうじゅ)」は二つに分類されます。一つは「種子(しゅうじ)」、もう一つは「有根身(うこんしん)」です。
3. 執受の二分類:「諸種子」と「有根身」
「諸種子者,謂諸相名分別習氣。」
「種子」とは、さまざまな対象や名称、区別する習慣(習気)が含まれているものです。これらは、識の内部に蓄積される潜在的な印象のことです。
「有根身者,謂諸色根及根依處。」
「有根身」とは、感覚器官(五根)やそれを支える身体(依処)を指します。識はこれらを執受し、自己の一部として扱います。
「此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。」
この二つ(種子と有根身)は、識によって執受され、識の自己の一部とされるため、安危(安全や危険)を共にします。
4. 阿頼耶識の働きと所縁
「阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。」
阿頼耶識は、因縁(条件や原因)の働きによって、内側においては「種」と「有根身」を生じ、外側には「器世間」を生じます。こうして生じたものを、自らの所縁(対象)として識が働きを起こすのです。
5. 識の「了別用」とその二つの側面
「此中了者,謂異熟識於自所緣有了別用,此了別用見分所攝。」
ここでは「了別用(りょうべつよう)」、つまり識が対象を認識・識別する働きについて説明されています。この働きは、見分(けんぶん)、すなわち「識別の作用」によって捉えられるものです。
「然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現。」
「有漏識(うろしき)」が生じるとき、識は必ず「所縁の対象」と「能縁の作用」が現れる形で働きます。これは、対象を似たような形で認識することを指します。
6. 「相分」と「見分」
「似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。」
「相分(そうぶん)」は「所縁の対象に似たもの」として現れる部分を指し、「見分(けんぶん)」は「能縁(主体)の働きに似たもの」を指します。このように、識の中には対象に似た部分と認識する主体に似た部分が存在するのです。
7. 所縁相と能縁相の存在理由
「若心心所無所緣相,應不能緣自所緣境,或應一一能緣一切,自境如餘、餘如自故。」
もしも識に「所縁の対象」がなければ、識は対象を認識することができなくなる、という論理です。さらに、識が無差別にすべてを対象とできるならば、区別の意味がなくなります。
「若心心所無能緣相,應不能緣如虛空等,或虛空等亦是能緣,故心心所必有二相。」
もし「能縁の作用」がなければ、識は虚空(空間)などの無形のものを認識することができません。したがって、識には必ず「所縁の相」と「能縁の相」が備わっている必要があります。
8. 経典の証言
「如契經說」
このように、これらの説明は経典に基づいて述べられていると結ばれています。
まとめ
この文章では、識の働きがいかに対象(所縁)に依存して成り立つかが詳細に論じられています。識には「所縁」と「能縁」の二つの側面があり、対象を認識する際には対象に似た姿(相分)と認識する働き(見分)として現れます。
この漢文は、仏教の「唯識思想」における「識」(認識の働き)と「所縁」(対象)との関係についての説明です。唯識思想では、私たちが知覚している世界がすべて「識」(意識の働き)によって構成されていると考えます。このテキストでは、識が対象をどのように認識するかを「能覚(認識する側)」と「所覚(認識される側)」の観点から議論しています。
以下、段落ごとに解説していきます。
一切唯有覺, 所覺義皆無, 能覺所覺分, 各自然而轉。
- 「一切唯有覺,所覺義皆無」
- すべては「覚(意識・認識)」に過ぎず、認識される対象には本質的な意味がないとされています。すなわち、対象そのものに実体がなく、すべてが「識(意識の働き)」だけで成り立っているという考えです。
- 「能覺所覺分,各自然而轉」
- 「能覚」(認識する側、つまり主体としての意識)と「所覚」(認識される側、つまり対象としての意識)は区別され、それぞれが自然に働きを展開します。唯識思想では、能覚と所覚が相互に作用し合い、識の働きを支えています。
執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心心所自體相故。
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「執有離識所緣境者」
- 「識(意識)」とは別に実在の「所縁境(対象としての世界)」があると考える者について述べています。彼らは、「外の世界」が意識の対象(所縁)であると主張します。
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「相分名行相,見分名事,是心心所自體相故」
- この考え方では、対象(相分)は「行相」(識の働きによって現れるイメージ)とされ、認識する側(見分)は「事」(認識の実体)とされています。つまり、「相分(対象)」と「見分(主体)」は心(意識)の働きであり、識の内部にあるものとされています。
心與心所同所依緣行相相似,事雖數等而相各異,識受想等相各別故。
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「心與心所同所依緣行相相似」
- 心(識)とその働き(心所)は、同じ依りどころ(根本的な基盤)と対象(所縁)を持ち、行相(意識の働き)として似通っています。
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「事雖數等而相各異,識受想等相各別故」
- 認識の働きはそれぞれ異なる性質を持っています。たとえば、識(認識)、受(感覚)、想(思考)の働きはそれぞれ異なる特性を持っており、それぞれが別々の役割を果たします。
達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,相見所依自體名事,即自證分。
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「達無離識所緣境者」
- 「識(意識)」とは別に実在する「所縁境(外界の対象)」がないと達観する立場について述べています。つまり、外界の対象は実体ではなく、意識の働きによって現れているという考え方です。
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「則說相分是所緣,見分名行相,相見所依自體名事,即自證分」
- この立場では、「相分(対象としての意識)」を「所縁(認識の対象)」とし、「見分(認識する側)」を「行相(識の働き)」とします。この二つの相が依拠する本質的なもの(自体)は「事(実体)」とされ、これは「自証分(意識自身が認識する部分)」として定義されています。
此若無者,應不自憶心心所法,如不曾更境必不能憶故。
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「此若無者,應不自憶心心所法」
- もし「自証分」がなければ、心や心所の働きを自ら認識することはできないはずです。
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「如不曾更境必不能憶故」
- つまり、一度も経験したことがない対象を記憶することができないのと同じように、認識の働きを保持するためには何らかの「自証分」が必要だという理屈です。
心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別領納等作用各異故,事雖數等而相各異,識受等體有差別故。
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「心與心所同所依根,所緣相似,行相各別」
- 心と心所は同じ基盤(依りどころ)を持ち、対象に似た性質を共有しますが、行相(認識の働き)は異なります。
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「了別領納等作用各異故」
- 識の働きには「了別(理解・識別)」「領納(受け取る)」といった異なる役割があるため、各々の認識の働きも異なるということです。
然心心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相見必有所依體故。
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「然心心所一一生時,以理推徵各有三分」
- 心と心所の各々が生じるとき、それぞれに三つの分(要素)があると推測できます。
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「所量、能量、量果別故」
- 具体的には、「所量(対象)」「能量(主体)」「量果(結果)」がそれぞれ別々に存在するということです。
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「相見必有所依體故」
- つまり、「相(対象)」と「見(認識)」には、それぞれが依存する実体が必要とされています。
結論
この文全体は、唯識思想における「識」と「対象」の関係について説明しており、認識(識)は外界の対象をそのまま映し出すのではなく、識の内部で「能覚」と「所覚」を分けて働き、対象と認識が互いに相依存する関係で成り立っているということを示しています。
次の漢文の意味を教えてください。 似境相所量, 能取相自證,
即能量及果, 此三體無別。
又心心所若細分別應有四分:三分如前,復有第四證自證分。此若無者,誰證第三心分既同,應皆證故。又自證分應無有果,諸能量者必有果故。不應見分是第三果,見分或時非量攝故。由此見分不證第三,證自體者必現量故。此四分中,前二是外、後二是內
この漢文は、仏教の唯識(ゆいしき)思想における「識(しき)」の四分説について説明しています。四分説は、心(識)の構造を四つの分(ぶん)に分けて考える教義で、主に「似境相所量」「能取相自証」「能量」「果」の関係を通して、識の成り立ちと働きを説明しています。
以下、各部分について詳しく解説します。
1. 似境相所量,能取相自証,即能量及果,此三體無別。
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「似境相所量」
- 「似境相」とは、「境(外界の対象)に似た相(すがた)」のことです。つまり、私たちが心の中で対象としているイメージです。この「所量」は、対象として認識されるものを意味します。
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「能取相自証」
- 「能取相」とは、対象を捉える側の働き、つまり認識する主体の部分です。「自証」は、この認識自体が確かであること、すなわち認識が自らを認識することを指します。
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「即能量及果,此三體無別」
- 「能量」とは、認識する主体のこと、「果」とはその認識の結果です。この三つ(所量=対象、能量=主体、果=結果)は一体であり、別々に存在しているわけではないという意味です。すなわち、唯識では認識の対象と主体と結果が一体であるとしています。
2. 心心所若細分別應有四分:三分如前,復有第四證自證分。
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「心心所若細分別應有四分」
- 「心」とは意識の働き、「心所」はその働きに付随する心理的な要素です。これらを細かく分けると「四分(しぶん)」に分類できると述べています。
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「三分如前」
- 先に挙げた三つの分(似境相、能取相、自証)に加え、さらにもう一つの「第四の分」を含めて説明します。
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「復有第四證自證分」
- 第四の分は「証自証分」と呼ばれます。これは「自証分」を認識する働きで、認識そのものを捉える機能を持ちます。すなわち、自分の認識そのものをさらにもう一段階で認識している働きです。
3. 此若無者,誰證第三心分既同,應皆證故。
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「此若無者,誰證第三」
- もし「証自証分」がなければ、誰が第三の分(自証分)を認識するのかという問いかけです。証自証分がなければ、自分の認識(自証分)を捉える主体が存在しなくなります。
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「心分既同,應皆證故」
- 論理的に考えると、識の四分は連続的で一体的に働いているため、各分が互いに証明し合っていると見なされるべきだと示しています。
4. 又自證分應無有果,諸能量者必有果故。
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「又自証分応無有果」
- 自証分は、その働き自体が「結果」ではなく「自分を確認する働き」に過ぎないため、通常の認識における結果(果)とは異なるとしています。
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「諸能量者必有果故」
- 一方で、通常の認識作用(能量)は、必ず認識の結果(果)を伴います。このため、自証分と一般的な認識の結果は区別されるべきとしています。
5. 不應見分是第三果,見分或時非量攝故。
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「不応見分是第三果」
- 「見分」(認識する主体の働き)は第三の分(自証分)ではありません。見分は認識そのものを表しますが、必ずしも結果に含まれるものではないためです。
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「見分或時非量攝故」
- また、見分は認識に含まれるものですが、常に正しい結果をもたらすわけではないこともあるため、結果とは別に捉えるべきです。
6. 由此見分不證第三,證自體者必現量故。
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「由此見分不証第三」
- 見分は第三の分(自証分)を証明する役割を持っているわけではありません。見分は外界の対象を認識する働きであって、自己認識にまで及ぶわけではないためです。
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「証自体者必現量故」
- 自証分は自己を証明するものであり、必ず現量(実際の直接経験)として働きます。
7. 此四分中,前二是外、後二是内。
- 「此四分中,前二是外、後二是内」
- 識の四分のうち、最初の二つ(似境相=対象、能取相=認識)は外界の対象と関わるものであり、後の二つ(自証分=自己の認識、証自証分=自己認識を確認する)は内面的な意識の働きとされています。
まとめ
このテキストでは、唯識思想に基づき、識の働きを四つの要素(四分)に分けて説明しています。四分は以下の通りです:
- 似境相:対象に似たイメージ
- 能取相:その対象を認識する主体の働き
- 自証分:認識そのものを確認する働き
- 証自証分:自証分をさらに認識して確証する働き
この四分構造により、唯識では「心が対象を捉え、自己を認識する構造」を明確にし、外界の対象(所縁)と識の内的な働きの関係が説明されています。