十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

自己世界5

2013年10月31日 | 生命

自己世界は五感による世界が基本だが、以前外部からの光や音等の情報を頭で情報処理し心のスクリーンに投影しているのだと書いた。

スクリーンというと映画館のスクリーンを思い浮かべるが、あんな白い平面のものではない。どちらかというと、インジェクションマッピングの方がぴったりする。インジェクションマッピングとは、その映像を見られた人も多いと思うが建物なんかにその枠に合わせていろんな映像を投影し見せるものである。東京駅や大阪の中之島公会堂で行われたのがよく知られている。

たとえば、目の前に人の顔があるとすると、その顔から発せられた光情報を眼で捉え、その信号が脳に送られ脳で情報処理されてその結果がその元の顔に投影されてその人がそのようにあることを認識するということになる。

そうでないと距離感というものが出てこないし、一体感が得られない。

見たり聞いたりするものは、心のスクリーンに映ったもの、つまり、心の影、ないと思えばないというようなものではない。たとえば、向こうから自動車がやって来る、ないと思えばないと避けずにじっとしていれば車に轢かれるか、バカヤローとどなられるといった仕儀となる。実物はちゃんとあるが、それに自分の造った映像を載せているのである。

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自己世界4

2013年10月25日 | 生命

このブログの読者にはぜひ自己世界を持ってもらいと切にのぞむところであるが、まだもう一つピンとこない人があるかも知れない。そこでそれを実感できる一法を示してみたいと思う。

ロウソクを用意して部屋を暗くする。
ロウソクに火を灯して部屋の中でじっとしている。
ロウソクの光に照らし出された世界がそこに展開してくる。
つまりはロウソクの世界である。光の加減でその世界の様相は変化するのもよく分かるはずである。
そのロウソクを自分に見立てるのである。自燈明するのである。
どんな光を放っているかと認識力という光である。光の届いたところから反射光が帰ってくる。つまり、これは法燈明である。

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自己世界3

2013年10月17日 | 生命

台風26号は各地に大きな爪痕を残しましたが、皆様のところはいかがでしたでしょうか。被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。

今日は五感世界について、もう少し補足してみたい。

大概、この五感世界に皆,自信を持っているようで確かに見た、聞いた、これが現実だと思い込んでいる。ところが澤木興道老師の言葉に次のようなのがある。
「よう真実、真実というが俺の見た真実でしかない」
目で見た現実というのは、自分の目の癖で自分の視点からその時の光線加減によって物の表面を見たに過ぎない。
光線が目に飛び込んでも近視、遠視、老眼、乱視等眼に異常があると網膜に像が正常に結ばれない。網膜にも盲点があり剥離があったり、脳への伝達路にも脳の情報処理にも必ずしも正常と言えない。
五感というものは思っているほど確かなものではない。
そして、自分の都合に合わせて見たいものに焦点を合わせるようなことを日常茶飯に行っているのだから、まあ、いい加減なものでしかない。

それに外界の状況は把握する時、どうしても物理的壁が立ちはだかっている。たとえば、落雷を例にとってみると、まず稲妻が光り時間をおいて雷鳴が轟く、その認識にはどうしてもタイムラグが出てきてしまう。
光った時が落雷の瞬間かというと光線といえども届くまでには時間がかかっているし、網膜に結んだ像を脳に送り認識に至るまで頭の中で時間がかかっている。

太陽を見た場合だと、見えている太陽は8分ちょっと前のものだし、その時現実の太陽は既に位置を変えてしまっている。
今ある太陽は絶対見ることはできない。その位置するところは想像するしかない。

そんな太陽や雷が自分の体験する太陽であり雷である。それは自分の外の現実をいえるものではなく自分が作り出した内なる現実なのである。

そんな自己世界を生きるしかないのである。そんないい加減なものは駄目だ、何とか真実の世界を知ろうとするともうそこに自分の手が加わったものになってしまっているのである。

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自己世界2

2013年10月08日 | 生命

先に自己世界の有り様について書いてみたが、今回、分かりやすいように図にしてみた。世界がこのような同心円状であるはずもなく入り混じりのモザイクのようなものだが、図示しにくいのでこのようなものにした。空想領域なんかは現実離れした中に浮いたようなものである。。

下の方に「宇宙」と記した太線の枠の内側が宇宙とする。宇宙内では宇宙の法則が働き、それを構成する諸々のものが無数に存在する。太陽も地球も自分もその一つとして存在している。もちろんその辺に転がっている石ころも物の大小はの宇宙の一欠片としてあってその点では他の物と変わりはない。石ころは黙ってただ石として存在しているだけだが、生物は認識力を持ち自動する。最もその能力に長けたのは人間という生物である。

さて、人間はその宇宙をどのように把握しているかということであるが、まず、五感で今ここの状況を把握する。五感によりとらえられたその世界というものに我々たいそう自信を持っているところだが、見ること一つとっても1視点からその視力で興味に従い焦点を合わせたもの、そしてその表面しか見ていないのである。

その向こうはというと、過去に体験し記憶したものが広がっている。記憶はあいまいだし、過去の状況だから現状は程度の差はあれ変わってしまっている。

そこでその変化したところ、足らないところは記憶をベースに推測したものを現実の世界としているのである。たとえば、春にある場所を体験したとする、ところが今は秋、春見た桜の花はない。花のないその場所をイメージする。つまり、頭の中で加工したものを現実としているのである。
テレビでライブ放送を見ているといった場合もこの範疇に入ってくる、写真や文章による描写などもこの中に入ってくる。

その他は不明領域、つまり、見たことも考えもしない領域が広がっている、これが99.・・・・・・・%である。

宇宙は実なる世界だが、人間というのは想像力豊かな動物で想像でいろんなものを作り出し、それで自分の世界を構成する。それが一時的なものなら、単に空想を楽しむだけのものだが、持続的なそして現実のものとしてしまうのが病気であったり、宗教であったりする。

神であったり、天国とか地獄とか、死後の世界とか生まれ変わりとかはその世界の範疇である。

まあ、いずれにしても人間の認識力では宇宙という真実の世界を知ることはできない。認識力の範囲が自己の世界である。その世界の中で生きている。しかし、真実を生きていることもまた事実。

つまり、捉えようもない真実の世界の中で頭で捉えた自己世界を持って生きている。そして、大概の人はその自己世界を自己独自の世界とは思わす真実の世界と思い込みその中の1員として生きているということである。

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