若かりし頃人生の見通しが立たず悩みっぱなしだったが、内山老師の自己生命図でこれで生きていけると思った。
老師の生命図を機会ある毎に人に紹介もしてきたが、感動したという人が滅多に現れない。ここでもコメントが入ったことが一度もない。中にはケチをつける人までいる。認識世界の中にいるのにそれをそのまま真実だと思い込んでしまっているのである。この思い込みから脱却するのはなかなか難しい。
そこでここ1年ほど図を変えて説明してきたのであるが、自分でももう一つ感がある。今回改善を加えた。これが最終版である。字句等より適切なものがあれば修正はするかも知れないが、基本図は変えない。
図の解説をすると、以前のものに大きい円を描いた。宇宙である。前は余白が宇宙のつもりだったが、やはり、分かりづらい。
この、宇宙がお釈迦さんも分からない、望遠鏡もなかったし分かるはずもない。しかし、現代科学は次第にそれを解明してきた。
宇宙は原初、素粒子よりも小さなものだったが、インフレーション(急膨張)し、センチ大の大きさとなった。そこで相変異が起こって光と熱の火の玉となる。相変異とは液体が気体となるといった相が変わる現象である。その火の玉が爆発的に拡大して今の宇宙になった、ビッグバン宇宙である。最新の計算ではビッグバンから138億年、その広がりは470億光年、未だ拡大が続いている。
宇宙は今や大きく広がってバラバラしているようだけれど、元は一つの塊、それは何の塊か、それは力、パワーの塊としかいいようがないと思う。その力が宇宙全体を余すところなく覆っていて、宇宙は今もって一つの塊である。
宇宙の本質は力、宇宙力である。その力でいろんなものが生み出されてきた。宇宙としては自らを変化させているということになる。人間生命もその力によって生み出されたものである。生命力は宇宙力なのである。
だから、宇宙を生命体と見なすことができる。我々はその宇宙生命の一欠片で同じ一つの生命力を生きているのである。
そうするとその生命力は宇宙から来ると考えてしまうが実はその生命力の一翼を個々の生命が担っているのである。
宇宙生命があって我々の生命がある。我々の生命があって宇宙生命もある。一体なのである。
宇宙生命があって我々の生命がある。このことを知ることによって安らぎを得ることができる。
我々の生命があって宇宙生命もある。このことを知ることによって生き甲斐を得ることができる。自由でもある。
さて、この宇宙に実際に存在するものを「真実」と私は呼ぶ。一般的な辞書的な意味とは使い方が違うから注意。以下の現実、事実も同じである。
さりながら、その真実を我々知りうるかというとそうはいかない。知ろうとすれば五感を用いるしか仕方がない。自分の目で見たものは間違いないと皆妙に自信を持っているが、ところがこの五感がいい加減なものでしかない。何か物を見たといっても決してそのものを見たわけではなく、表面の反射光、あるいは発光を見ているに過ぎないのである。鏡で見た自分の顔など所詮は光の影、鏡を覗いた瞬間、表情を見やすい顔に変えてしまっているものでもある。
今、ここで五感で真実相をサーチして五感で捉えているものが現実と私はいうのである。私のように近乱老乾白緑の眼ではいささか心許ない。眼鏡をかければ世界が劇的に変わる。そんなものなのである。そんな世界を生きなければならない。五感という認識力に大きく依存しているのである。
真実から不確かな情報であるとしてもこの現実相から取り入れるしか仕方がない。行為もこの現実相で行われる、行為は今、ここでしかできない。今ここで真実に手を加え動かし変えていくということが行われるのである。
五官というセンサーで取り入れられた情報は頭の中で情報処理され頭の中のスクリーンに投影されそれを認識する。認識されたものは頭の中の存在であるから私はそれを「事実」という。事実は情報によって形作られたもの、情報多くは過去情報である。体験したものがいっぱい蓄えられてある。それを恣意的に組み合わせるのであるからとんでもないものが出来上がっても不思議ではない。事実は決して真実ではない。
しかし、事実がその人の世界を形成するのである。もっといえば真実と思い込んだ事実がその人の世界を構成するのである。
禅が真実と事実の接点である「今、ここ、自己」と重視するのはここである。
結論、誰でもたった1つの宇宙生命を共有し真実を生きている。しかし、その真実は知り得ない。現実においてわずかに捉えられる真実からの情報を大事にし、それで自己の認識世界を創造していくしかない。その認識世界の中で現に生きているのであり、その中の事実に基づいて真実を揺り動かしているのだということ。
(追記)図が一部違っていたので差し替えました。