十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

オウム真理教による地下鉄サリン事件から20年

2015年03月26日 | 人生

オウム真理教による地下鉄サリン事件(平生7年3月20日)から、早20年経った。驚天動地の大事件でそれに続く上九一色村のオウムの本拠地に対する警察による大捜索は今も結構記憶が鮮明に残っている。

多くの死傷者が出て今なお被害者や関係者の傷が癒えていないと聞く。
何故、あのような事件を起こしたのか、首謀者の麻原彰晃が何も語らないゆえ闇の中だ。

教団が大きくなるにつれて麻原の権力欲が増大してきて、それがとんでもない形で突出してきたものなのであろう。

しかし、表立っては救済という言葉を使っていた。その救済がポアという言葉で伝えられていた。「救済するぞ、救済するぞ」と団体で唱えて示威していたのを憶えている。

彼らによるポアの理論は次のウィキペディアの引用のとおり。

「ポア」とは本来ヨーガの用語で、「死に際して、その魂高い世界に移し変える(転生する)こと」を意味していた。

ところがオウム真理教では魂を高い世界(アストラル世界、又は更に上のコーザル世界)に転生させるためには、積極的にその魂の持ち主の生命を(実際に)奪っても構わないという「殺人正当化の教義」を意味することになった。

(オウムから見て)「悪業を積む者」は、そのまま生かしておいてはさらに「悪業」を積み、来世の転生先でその分苦しまなければならない。それを避けるためには一刻も早くその生命を絶たなければ(殺害しなければ)ならない。そうすることで、これ以上「悪業」を積むことがなくなり、また「グルとの逆縁」ができるので本人のためにも良い。また殺人を実行した弟子は、「被害者の魂を救済した」ことになるので、「功徳」を積むことになる、という理論である。 (引用終了)

これってオウム流の「自未得度先度他」だ。

澤木興道老師の言葉に、次のようなのがある。正確には憶えていないので言葉通りではないが意味的にはあっていると思う。
「小乗佛教にあっては行為が善意に基づくものであれば結果が良くなくても善行と認められる。しかし、大乗佛教では結果が良くなければ善行とならない。うっかりしていたでは済まされない」

自未得度先度他というのは、ちゃんと見通しの立った者に説かれるべき言葉であって、簡単に誰彼なしに説かれるべき言葉でないのだ。生兵法は大怪我のもと。

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自未得度先度他

2015年03月21日 | 佛教

今日は彼岸の中日なので、彼岸関連で「自未得度先度他」、読みはじみとくどせんどた、書き下しにすると「自れ未だ度るを得ざるに先ず他を度す」となる。

涅槃経を始めいろんな経や論書に出てくる有名な言葉である。
特に道元禅師がが好んで使った言葉で道元門ではよくいう。

同じ意味の和歌も禅師が作られていたのを読んだことがある。今正確に覚えていないが、意味内容は覚えているので書いてみると、「草深い庵に居ても寝ても覚めても思うことは我より先に人を度すことだ」

最近も安泰寺住職ネルケ無方和尚が、「読むだけ禅修行」と本を出版したが、その中にもこの言葉があり解説が書かれている。
太字で書かれたところ3箇所を、引用すると次のとおりになる。

「人より先に佛になってはいけないということです」
「自分のことを後回しにして、他人のために何かしようという思い自体が、実は悟りなのです」
「「自未得度先度他」という「こころ」を起こすことは、全人類が地球上、いや宇宙いっぱいの生きとし生けるものと、調和し、生活できる社会の実現への第一歩です」

いやいや、その精神や良し、素晴らしい、お経や道元禅師お言葉だから恐れ入りましたと言いたいところだが、ヘソの曲がった我輩としてはそのまま有り難く受け取るわけにいかないのである。

「人より先に佛になってはいけない」 こんなことを言っていたのでは誰も佛になるものはいない。「お先へどうぞ」の譲り合いで前へ進むことはできない。初期仏典に「他人によって解脱が得られるものではない」とある。
レディーファーストは何も女性を尊重しているようでそうではない。実は女性を弾除けにしている行為という、たしかにそういう理屈はある。
訳の分からん者に先導されたのではどこへ行き着くか、分かったものではない。やっと極楽の門にただりついたと思ったら、角の生えた門番が立っている、ここはどこかと聞いたら地獄の一丁目だなんてことになりかねない。

「自分のことを後回しにして、他人のために何かしようという思い自体が、実は悟りなのです」
これはいくら何でも言い過ぎ。いくら高邁な思いでも思いであれば煩悩である。だから、「思いの手放し」をするわけである。

「「自未得度先度他」という「こころ」を起こすことは、全人類が地球上、いや宇宙いっぱいの生きとし生けるものと、調和し、生活できる社会の実現への第一歩です」

どうぞ、どうぞもいいけれど自分自身が見通しをちゃんと持っていることが大切なんだと思う。

そもそも、いったい他を度すってどうするんですか。度すことできたんですか。「自未得度先度他」て言っておられるお坊さん方に聞きたい。

とにかく、人間朝起きてから晩寝るまでずっと自分自身にかかり切りになっている訳でこいつの始末をつけないことにはどうにもならないのである。

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囲碁会

2015年03月09日 | 道楽

退職者親睦囲碁の例会がいつもの碁会所であったので参加した。
天気が悪く行きは何とか傘なしで行けたが、帰りは結構な降りだった。

1月期はリーダーのMさんが病気で動けず、世話役である私の判断で中止してしまったが、楽しみにしている人もいるので申し訳ない気持ちだ。

しかし、手合を決めたりするのをMさんが一手に引き受けていたので最弱の私がやりくりするのはどんなものか、また、入院中のリーダーにやり方を聞きに行くこともできなかったし已む得ない措置だったと思う。

さて、本日の成績はまず4子局で完勝、9子局で完敗、相手が強すぎる。5子局で逆転負け、先番で逆転勝ち。2勝2敗。
持ち点に変動なし。全然強くなっていない。図書館で本を借りる時はいつも碁の本を混ぜて読んでいるが全然効果がない。

家に帰ってきたら、叔母から電話が入っていたので、こちらからかけ直した。話をしていると、なんと妹の孫娘、小学1年生が先生について囲碁を習っていて最近大阪市内のとある場所で大会がありそれに参加したとのことだった。

アッカーン。小学生からやり出したらあっという間の強くなる。65歳も年下にもう負けちゃっているかも・・・。

さて、今年のNHK杯はなんと17歳一力7段と20歳の伊田8段が決勝戦を戦うことになった。井山ら並みいるタイトルホルダーをなぎ倒しての出場は立派。来週が楽しみである。

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病気自慢7

2015年03月06日 | 共生

2,3日前から就寝時に背筋部に痛みが発生、寝返りする時に痛んで目が覚める。思い当たることはなかったが唯一石油の温風ヒーターの灯油を入れ替えた時タンクの重みでか?しかし、あれぐらいでどうかなればちょっと重いものは何も持てなくなるなあとか思っている。

湿布薬はあるのだが、一人では手が回らず貼れそうもない。ふとんの上に膏薬をおいて見当をつけて寝る方法でとも考えたが、辛抱できる程度だったので様子を見てみたら大分軽快してきた。自慢に1つ追加。

おとといのNHKTV「ためしてガッテン」では、耳鳴りを取り上げていたがそういえば自分も耳鳴りがしている。特に寝る前なんかに静かにしていると、シーンとするような音がする。音無しの状態がシーーンと表現されるのは耳鳴りもことかも知れないと思える。

耳鳴りの原因は聴力の衰えらしい。聴力は周波数帯によってばらつきがあり、高齢になるほど高い周波数が聞こえにくくなる。その耳の能力が落ちた所を脳の視床が感度をあげようとし、脳内で飛び交ういろんな信号を拾ってきてそれが音と認識されることが耳鳴りだというのだ。

耳鳴りが気になって寝られない時は、簡易にはTV,ラジオをつけっぱしにして何か音が聞こえる状態にすればよいということだった。ひどい場合は周波数ごとの音の可聴状態を測定してそれに合わせた補聴器(10万円以上する)をつければよいとのことだった。

で今回、2病追加で69種。歳の数だけあるという感じ。

耳鳴りなんて有り難くないことだが、内山興正老師にこんな言葉がある、「教わった大事な言葉は常に耳鳴りさせておかねばならない」
言葉は音声だから目よりも耳からの方が印象深いことが多い、大事な教えならその時の声もちゃんと記憶に残っているものである。

<頭、顔部>
脱毛症、白髮、健忘症、脳貧血、黒子
<眼部>
近視、乱視、老眼、白内障、ドライアイ、網膜穿孔、網膜変性症、閃輝暗点、濾胞性結膜炎、飛蚊症、結膜炎、緑内障
<耳部>
中耳炎、耳鳴り
<呼吸器系>
感冒、インフルエンザ、蓄膿症、鼻炎、咽頭扁桃炎、気管支炎、胸膜炎
<口腔、歯科系>
虫歯、歯周病、口内炎、口唇ヘルペス、歯欠損、顎骨脱臼
<消化器系>
逆流性食道炎、胃炎、胃ポリープ、食中毒、十二指腸虫症、腸炎、大腸ポリープ、痔疾、回虫、肝臓病、胆石、
<循環器系>
高血圧、冷え性、腹部大動脈石灰化、高ガンマグロブリン血症、足動脈狭窄、
<泌尿器系>
慢性腎臓炎、腎臓結石、前立腺肥大症
<骨格>
橈骨骨折、肋骨亀裂骨折2回、腰椎椎間板ヘルニア、踵骨亀裂骨折、顎脱臼、手足の脱臼、各所捻挫、脊柱管狭窄症
<皮膚>
擦り傷、切り傷、虫さされ、水虫、皮膚炎、両母趾巻き爪、日焼け炎症
<筋肉>
五十肩、こむら返り、背筋痛

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暗夜行路

2015年03月04日 | 生命

志賀直哉の小説に暗夜行路というのがある。文学的素養がなく、文学を読んだことはあまりない。
私の最大テーマである自己世界の説明をこの題名を拝借してより深めてみたい。

真実というのが誰でも知っていて皆、絶対といっていいほど自信を持っている。ところが誰も何も分かっていないのだということが私の主張である。

真実からやって来る情報は、情報源の持っている情報の微々たるものでしかない。それを五感で感じ取る。子どもの時に興じた犬棒かるたに「葦(よし)の髄から天井を覗く」というのがあった。視野の狭いことを言うのだが、それどころではない。真実というのなら対象物丸ごと知らないとそれを分かったとはいえない。人間は60兆の細胞でできているという。それを全て把握できるかというととてもできる話ではない。たった一つの細胞だって見えやしない。アバウト、いい加減で納得している。

見たり聞いたりするものは、五感に由来するので正確ではなく、歪んでいる。私の眼のように近乱老乾白緑変という欠陥を持っていれば、ぼやけ、歪みは明白である。

そこへ恣意的に思惑を挟み込んでくる。見るべきものを見ないで、より好みする。

そんな中では錯誤も伴ってくる。

限定された情報により、曖昧、歪み、恣意、錯誤により頭の中に事実として取り込まれる。

その事実を排列して自分の世界としている。それを唯一のものとしている。
自信たっぷりなのである。

さて、暗夜行路だが、真実世界は知りようがない無明である。つまり、闇夜、暗夜と同じ。その中で動き回らなければならない。暗夜に動くためには明かりがいる。今なら懐中電灯、昔なら提灯だ。それで照らすと照らされた世界が現れる。光は遮るものがなければどこまでも飛んで行く。その光が物に
当たって跳ね返って来るのをキャッチする視力に限界があるからその世界も自ずから限定的なものになる。

まず、照らし出す世界があってその先は来たことがあるなら、記憶されたイメージを呼び出して世界の継ぎ足しをする。それの先は地図や案内板なんかの情報を活用し想像の行路を考える。それが尽きればそれこそ闇の中だ。
道が分岐していればどちらに行けばよいか分からない。

とにかく、人生は一寸先は闇、闇夜を歩く準備をしておかなければならないということである。

終着点はどこか、そこに行く地図、コンパスを用意しておかなければならない理屈である。
 

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衆生無辺誓願度

2015年03月02日 | 生命

「われを排列しおきて尽界とせり」

これは正法眼蔵有時の巻の一節だが、われが真実を体験したところつまり私の言う事実を並べて世界というものができているという。

たとえば、幽霊を考えてみよう。私にとって幽霊なんか出会ったこともないし、信じてもいない。つまり、配列しようのないものである。私の世界には幽霊は存在しないということである。しかし、その存在を本気で信じている人がいる。その人は他人から聞いたというだけでそれを信じてしまっている。つまり、その体験、思い込みの事実を自分の世界の中に配列してしまっているのである。

しかし、私にとっても幽霊という言葉を知っている以上その言葉を知るという経験の程度は自分の中に事実として存在していることになる。言葉さえ知らないということではない。

「真実✕心意識=事実、 事実✕心意識=<事実> 、<事実>✕心意識={事実}・・・・・・

いくらでも増殖することができるのが厄介なのである。ちゃんと整理できているかどうか。厄介物を配列してはいないか。

これを整理するのが佛道修行なのである。

衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、佛道無上誓願成

衆生無辺誓願度とは自分の外の誰かさんを済度しにいくという話ではなく、自分の頭の中のゴジャゴジャを整理するという意味である。もちろん、誰かさんを済度するということを否定するわけではなく、それもまた自分の中の事実を整理するという意味なのである。

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真実と事実

2015年03月01日 | 生命

澤木興道老師の言葉に正確には覚えていないがこんなのがあった、「真実、真実とよく言うが、どうせ俺の見た真実に過ぎない」

前にも自己世界図のところで書いたけど、真実というものは知りようがない。五感で捉えたものも頭の中のイメージでしかないと書いた。

今回、もうちょっと理解を深めるために真実と事実の違いを一覧にしてみた。
しかし、ここでの真実も実は私が頭の中で整理したものなので、私の頭の中の事実になってしまっているのでそれを知っておいてもらいたい。

 真実         事実

 身体         頭 
 無我         自我
 実際                イメージ
 外界         内面
 物           心
 無意識        意識
 全体         部分
 唯一         多数
 即今         過去、現在、未来
 当処         浮動
 秩序         無秩序

PCにたとえると分り易い。真実はハード、OS。事実はアプリ、データ。

事実は真実の中、それぐるみ真実だし、真実によって事実が生じるものなのだが、その事実によって真実が動かされている。

真実からの僅かな情報によりバーチャル世界を作り上げ、その中にいるにもかかわらず真実世界の中にいるように錯覚しているのである。そのバーチャル世界の外には真実世界があることはいうまでもない。

真実はたった一つ、しかし、事実は山ほどある。富士山だって実物は一つだが、記憶された富士山は一杯ある。過去現在未来、写真、映像、記事、絵、等なんだってありで、そんなのでバーチャル世界ができているのである。そしてどこへだって飛んで行くのである。 

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