道元禅師の普勧坐禅儀に坐禅のやり方や心構えが説かれているが、解釈がバラバラで戸惑いが見受けられる。
そこで、この度整理をしてみた。
一番の問題は、坐禅は非思量と言っている人が非常に多い。それが坐禅以外のところへも話が広がっている。私の知るところ一番の犯人は澤木興道老師である。老師の言葉を集めた「禅に聞け」には、非思量、非思量、と幾度となく出てくるが、不思量と言う言葉は少ない。
この文章を書く当たって拾ってみた。不思量は4回、その内3回は普勧坐禅儀の思量箇不思量底そのままである。非思量は13回出てくるが坐禅儀とは全然使われ方が違う。
思量箇不思量底は不思量を狙ってやれと言っている。底がついている、これを見逃している人が多いのではないだろうか。底は通底のこと、地盤、根本を言うはずである。
不思量とは「心意識の運転を停め、念、想、観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。」ということ。
なのに、思いが湧いてくる、それに関わるなというのが非思量というもの。それを特別な境地を受け止めてしまってどんどん話を広げてしまっている。
どこまでも坐禅する上での心得をしなければならないと思う次第である。
<style type="text/css"></style>只管打坐と冥想の違い | |||
不思量 | 非思量 | 思量 | |
頭手放し | 思い手放し | 思い手掴み | |
無意識 | 思い(断片) | 意識 | |
坐禅(只管打坐)
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坐禅(覚触)
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分散 | 集中 |
通常 | 冥想 |
頭手放し、思い手放しは内山興正老師の言葉である。初めは頭手放しだったのがいつの間にか思い手放しになってしまった。思い手放しは思いが出てからの話で、坐禅は思い以前こそつまり不思量を狙いとしなければならない。
内山老師も失敗されたようである。
諸兄は「坐禅は不思量底」を腹に落としておかれたい。
覚触は、思いが湧いたり、眠気が出てきた時に、元の状態に戻すこと。
下図は内山興正老師の本「坐禅の意味と実際」中の老師の書かれた挿絵である。
「追記」
私が禅仏教に親しむきっかけは澤木老師の「禅とは何か」という本を読んでからである。
面白かったので、澤木興道全集を読んでみようを本屋で数冊まとめて購入していたら、声を掛ける人がいて安泰寺の日曜参禅会のチラシを貰ったのである。
それから、昭和45年秋から安泰寺の坐禅会に参加し、内山老師から教えを受けるようになった。
恩師を批判するのは心苦しいが、恩に報いる行為でもあると思っている。