十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

高津の富

2009年07月28日 | 道楽

 私は結構落語が好きである。中でも桂枝雀の落語が最高に面白い。最近隣市の市立図書館に出入りするようになり、桂枝雀のCD落語大全全9巻が配備されているのを順に借りて聴いているが、第一巻がなかなか戻って来なくて2ヶ月経ってやっと一昨日借りることができた。


 第一巻には「高津の富」ともう一話が入っていたが、この「高津の富」は以前テレビ番組をビデオにとって良く聴いた落語で一番籤の番号までよく覚えていて、籤に当たった男が「子の1365番」を何回も繰り返し確認する場面を思い出してなつかしかった。


 「高津の富」は高津神社(大阪市中央区)で行われた富くじのことで落語では一番籤が1千両当たる話になっている。


 借りたCDなので今日も聴いていてたが、今日配達された朝日の夕刊を見たら、富くじ発祥の地である瀧安寺(大阪府箕面市)で富くじが復活するとの記事が出ていた。何でも、同寺で430年前(安土桃山時代)から続く正月行事であったが、明治時代に刑法で富くじが禁止され福引に変わっていたそうである。もっともこの寺の富くじは金を当てるのでは商売繁盛の縁起物として渡されたもので、11月に行われる再開の行事には3人に「秘法中の秘法」で祈祷した護符が渡されるそうである。


 富くじの落語を聴いていたら、富くじの起源の話、宝くじにでも当たりそうな話になってきた。いや、昔からくじに弱いから自動車に当てられないよう気をつけよう。 

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ごくせん

2009年07月27日 | 道楽

 昨日、近くの映画館へ暇つぶしに「ごくせん」を観に行ってきた。ストーリーはお決まりの勧善懲悪。問題学級3年D組の担任、仲間由紀恵扮する「やんくみ」こと山口久美子が不良ぶってる自の分クラスの生徒がトラブルに巻き込まれて大ピンチ、そこに乗り込んで大立ち回り、相手に人倫を説く。桂枝雀の言葉を借りれば「緊張の後の緩和」そこにカタルシスがあるのである。


 主演の仲間由紀恵はチャーミングで好感を持てる女優だし、漫画的お決まりのストーリーでいささかバカバカしいが楽しめた。  

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とうとう今日衆院解散

2009年07月21日 | 共生
 スッタモンダの末とうとう衆院が解散した。 河野議長が解散詔書を読み上げた時、慣例により万歳が三唱されたが、手の挙げ方を知らない議員がけっこう多い。掌を前に向けて挙げているのが新聞写真に多く写っていた。両掌を前に向けて上にあげるのは降参のしるし、初めからお手上げでは勝てっこないな。  
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脱「悪の枢軸」

2009年07月09日 | 共生

 昨日は「善をなさんとして悪をなす」というマクナマラの言葉を書いたが、世の中には「悪と知りつつ悪をなす」輩もいっぱいいるのだから困ったものである。


 05年2月に発効したWHOのたばこ規制枠組み条約作りで、日米独3国で規制の骨抜きを図り、3国を「悪の枢軸」といわれたそうである。


 そのドイツが07年9月、公共的な場所での禁煙を定めた受動喫煙防止の連邦法が発効した。米国においてもこの6月22日、たばこの広告や成分を規制する連邦法が成立した。オバマ大統領もスモーカーだが禁煙に努力するらしい。


 一方、我が日本では「喫煙は個人の嗜好の問題で、禁煙運動はファッショ」だと言ったり、政治家どももたばこ税の減収を問題にしたばこ規制に目を塞いでいる。


 日本だけが悪の枢軸まま取り残されたが、1国だけでは枢軸という言葉も使えない。北朝鮮と同じ野蛮国になり下がってしまった。核は一瞬にしての人殺しだが、たばこは年数をかけての人殺しである。 

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人は善をなさんとして悪をなす

2009年07月08日 | 人生

 「人は善をなさんとして悪をなす」 先ごろ亡くなった米国の国防長官としてベトナム戦争を指導したロバート・マクナマラの言葉である。晩年、「ひどい過ちを犯した」と回顧録やドキュメンタリー映画で述べている。また、「人類は20世紀に1億6千万人を殺した。21世紀に同じ事が起きていいのか。そうは思わない」という言葉もある。深い悔恨を背負って後半生を生きたのだろう。


 「善をなさん」という言葉を聞くと、「善者は強くなければならない」というチャーチルの言葉を思い出す。マクナマラはこの言葉の信奉者で強いアメリカが善をなさんとして突き進んだのだろう。


 目的が善であろうと手段を間違うと、つまり、悪の行為を為せば結果は悪となるのは理の当然である。この理屈からすると、太平洋戦争の末期、いくら戦争の早期終結を図ろうとアメリカが日本に原爆を投下したのはやはり誤りである。悪魔の行為というべきであろう。


 しかるに、アメリカ人にベトナム戦争に対する反省はあっても、原爆投下に対する反省がないというのはどういうことか。善悪よりも勝ち負けに思考が偏っている国柄なのであろう。


 


 

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脳死は人の死

2009年07月05日 | 生命
 臓器移植法のA案が衆議院で可決し、参議院に送られたが慎重意見が多くて簡単にいかないようだ。死の定義することに引っ掛かっているようだが、人間としての機能を失い回復の見込みがないことを死とすればいいのであって、脳が死ねばそういう状態になるのだから脳死が死でいいのである。

 脳死を死と認めない、認めたくないという人は自分が脳死状態に陥ったことを考えればいいのである。いつまでもそんな状態を続けたいであろうか。私ならノーである。断じてノーである。

 脳死状態で生かしておくことは、その人にとって苦しみでしかではないではないか。チューブをいっぱいくっつけて寝たきり状態、正常に脳が働いていれば痛い、苦しいに違いない。その状態を長く続けることは残酷なことではないか。
 チューブだけではない、周りに親、子、医師、看護士等がくっついて動きがとれない。治療費だって多くかかって多くの人がそれを負担している。そこまで頭が働くなら「もういいよ」というに違いない。

 まあ、一昔なら脳死状態に陥れば皆、短時間のうちに死んだのである。 
 
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