十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

お勧めサイト

2015年02月23日 | 共生

ブックマークに2つのサイトを登記しました。

「こころの時代へようこそ」

NHKEテレ放送「こころの時代」の内容全体を筆記記録し写真もところどころピックアップしてある。第1回から記録してあり労作。さきに案内した村上光照和尚の話もちゃんと掲載されていたので見漏らした人はご覧あれ。

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm


「ねずさんのひとりごと」

日本歴史におけるキラ星のごとく日本が誇るべきエピソードが満載。我々日本人としてのアイデンティティ確立のため必読したい記事。

http://nezu621.blog7.fc2.com/

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この世の浄土

2015年02月15日 | 共生

前回のエントリーで書いた一部を一度再掲する。

神道  神=人=自然  共生関係
佛教  佛=人=自然  一体関係

この関係性を端的に表しているのが、童謡「夕焼け小焼け」である。

1 夕やけ小やけで 日が暮れて
  山のお寺の 鐘がなる
  お手々つないで みなかえろ
  からすといっしょに かえりましょ

2 子供がかえった あとからは
  まあるい大きな お月さま
  小鳥が夢を 見るころは
  空にはきらきら 金の星

いつぞや、近所のお寺さん連合の主催する講演会で宗教学者の山折哲雄氏の話を聞いたことがある。ほとんどは忘却の彼方だが、一つだけ覚えていることがある。

山折氏が韓国の学者に今日子どもたちの情操教育が疎かになっていることを嘆いた時、その韓国の学者はそんなことはない。日本では昔ほどではないが今もちゃんと立派に情操教育がされているという。それが羨ましいというのだ。

「夕焼け小焼け」の素晴らしいというのである。お寺の鐘がなり、つまり佛様のちゃんとおられ、そろそろ帰ろうねと促してくださる。そして帰るべき家がちゃんとあって夕飯の支度ができている。友達と仲良く帰る、からすや小鳥も一緒、共に生きていて別け隔てがない。
月も星にも空にもちゃんと見守られている。なんという素晴らしい世界に生きているのだ。それが日常だというのです。

その話を聞いて山折氏はなるほどと同感の意を表明したそうである。

まあ、阿弥陀経に描写されたきんきらした極楽浄土なんかが素晴らしいものと思いがちだが、あればお経の作者が想像で作り上げた作りものに過ぎず、こういう世界こそ本当の浄土というべきであろう。

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宗教における人間観、自然観一覧

2015年02月12日 | 共生

 各種宗教の神佛と人間と自然の関係性を表にしてみた。日本教は山本七平氏のいうところの宗教観で日本人のほとんどが日本教の信者であり、どんな宗教もそれにアレンジされてしまうというものである。 

支配関係にある宗教は日本人には合いません。キリスト教徒がいつまで経っても1%とと言われるのがそれです。

<colgroup> <col width="86" /> <col width="126" /> <col width="86" /></colgroup>
神道 神=人=自然 共生関係
佛教 佛=人=自然 一体関係
キリスト教 神>人>自然 支配関係
イスラム教 神>人>自然 支配関係
儒教 天>人>自然 支配関係
新宗教 教祖>人>自然 支配関係
無宗教 人>自然 支配関係
日本教 (和)=人=自然

共生関係

以下、ウィキペデイア:日本教の転記

日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。

山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。

奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。

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自己の国を作ろう

2015年02月11日 | 共生

建国記念の日
今日は建国記念の日、朝から日の丸の旗を玄関に掲げました。今年は紀元2675年、西暦とは660年の差がありますね。神武天皇即位の日ということで神代の話だからいい加減なところですが、国がある以上建国もあったのでしょう。素直な気持ちで祝いたいと思います。

さて、最初から脱線ですが、神武で思い出したことがあります。昭和46,7年のことだと記憶しますが、同じ職場の先輩が競馬ファンで大穴狙い、ある時、当時ジンムという名の馬がいて当たれば万馬券、それを10枚買っていた。「そんなの当たりまっかいな」と馬鹿にしていたら、「当たったらフグ食わしたる」なんて話に発展、ところがそれが何と大当たり。「神武以来の景気や」と京橋でてっちりを御馳走になりました。初めて食べたフグは美味かったという話です。
※昭和29年3月から32年6月までの高度成長期の好景気を国始まって以来の好景気ということで神武景気と言いなぞられています。

話変わって、ここから自己の国を作ろうという話をさせていただきます。

随処に主となれば立つところ皆真なり(臨済録)
今、ここにおいて自己を主人公として確立するならば自己の周りの一切は自己のものとなる。
「我が物と思えば軽し笠の雪」
「三界は我が有するところ その中の衆生皆吾が子」(法華経譬喩品第三)
何もかも愛おしくなる、内山老師のいうところの「出逢うところ我が生命」となるわけです。

自己世界を持ち、つまり自己の国を持つことですが、そこの主として振る舞うことなのです。

誇大妄想でもいい、国を持ち、それに名前を付けることです。
物でも買えば自分の所有物だということで名前を書くでしょう。それによって所有が明確になるのです。

日本人はロボット、玩具でも名前をつけます。それでより親近感を得るのです。

先週土曜日に淀川の土手をサイクリングして休憩場所で一息入れていたらベンチに猫がいて、おばさんが「ミーちゃん」と言いながら頭を撫でているのので、「その猫、何歳ですか」と聞いたらおばさんが「知らんの、野良猫だから」と返事。どこからともやってきて日向ぼっこしていることが多いらしい。その猫におばさんは「ミーちゃん」と名付けて勝手に呼んでいるだけ。
猫は知らん顔だが、おばさんにはとても可愛く思えるようです。

しかし、藤原道長の「この世をば」わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」とこの世で自分の思うようにならないことは一つもないなんて考えたら大きな間違いである。どうせ最後は死にたくないのに死ななければならない。天から地への落差は大きい、その衝撃は普通の人間よりはるかに大きいに違いないのです。

イスラム国なんていうケッタイなものが現れたが、あれはテロリストによる悪の帝国、あんなものを作っては良くないのは明白です。

以前にも建国の勧めをしましたが、改めてお勧めします。いい名前を考えてください。名は体を表します。
 

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曹洞宗安泰寺住職 ネルケ無方 堂頭の本が出版されました

2015年02月09日 | 佛教

曹洞宗安泰寺住職 ネルケ無方 堂頭の本が新潮社から出版されました。

「迷いは悟りの第一歩」(日本人の宗教論)¥700+税

自らの体験を通しての宗教論、先に出版された「迷える者の禅修行」の姉妹編。
キリスト教のことがよく分かる本です。

http://www.shinchosha.co.jp/book/610603/

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