江戸時代の大田蜀山人の作といわれる、
嫁は十八わしゃ二十歳 ころは三月花の頃
へらぬお金が三百両 むすこ三人親孝行
死んでも命がありますように
という凄い詩があります。
「 嫁は十八わしゃ二十歳」
20歳のときにもらった嫁は18歳だった。あのころは二人とも若くてピチピチしていた。年を取らないで18と20歳のままでおれたらどんなにか幸福であろうという、年齢についての欲望です。
「ころは三月花の頃」
日本には四季があるけれど、夏は暑くて大変、秋は忙しくて嫌だ、冬は寒くて性に合わない。夏も秋も冬もいらない。一年中、春3月の花見時のような、うつらうつらとした天候が続かないだろうかなあという、気候についての欲望です。
「へらぬお金が三百両」
300両を人に預けておいて、利子で暮らしていけたらどんなに楽だろうなあという、金銭についての欲望です。
「むすこ三人親孝行」
女の子は育てあげても嫁にいってしまう。男の子でも、一人息子じゃ心もとないし、4人、5人では育てるのが苦労だ。まあ3人ぐらいがいいところで、その3人ともが親孝行であって欲しいという、親子関係についての欲望です。
「死んでも命がありますように」
周りの者がみんな死に絶えても、自分だけはいつまで命があるようにとの、生に対する欲望です。
こんな欲望が満足されるところが、「幸福」というものなんだろう。こんな幸福願望の発せられるところに、現世利益的宗教も提供されてくる。需要のあるところに供給者も現れるというもの。
「死んでも命がありますように」の解釈は前述のようなものの他に、死んでも生まれ変わりいつまでも生き続けたいという考えもある。そこで生まれ変わりの思想も創作されることになる。あの世なんて言うものは、欲望という地盤の上に築かれた夢の世界にすぎないと私は考えるのであるが・・・。