認知症の母親が骨盤骨折で入院中でずっと付き添いをしているが、母親の認知症は脳梗塞後の血管性認知症というやつでまだ程度が軽い部類である。
そんな母親だが、付き添っていて話の通じないことがしばしば発生する。母親の頭に展開する世界は妄想と現実が錯綜した世界である。単に妄想だけなら適当に話を合わせて付き合っていればいいのだが、現実と関連するものが困る。言っていることを否定しなければならないがそれを納得理解できないのである。
たとえば、まだ、引き続き1か月は入院していなければならないが、痛みも大分とれてきたのですぐに帰りたがる。大小便はおむつで処理している最中だがすぐにでも自分一人で便所へ行きたがる。その結果、一人にしておくと股関節部が痛いにもかかわらずベッドの柵を外して、柵が外れないように紐で固定すると柵を跨いでベッドから降りるというようなことをやってしまうのである。
内山老師の自己曼画にある言葉によって通じ合う世界というものが成立しないほどに、独自の世界が母親の頭の中に展開していることがよく分かる。
我々言葉で通じ合っているようだが、言葉だけが通じ合っているに過ぎず、たとえば、犬という言葉を取り上げても私なら飼っていた柴犬のメリーが頭に真っ先に浮かんでくる。話し相手は当然別の犬を頭に描いているわけでイメージは全然違うことは間違いない。たとえ、メリーを知る者同士メリーについて語っても印象されているもの全然違う。
まあ、言葉で通じる世界が壊れつつある母親を見ていると、人はそれぞれ独自の世界を持ちその中で生きていることがよく分かる。