てな訳でここも今年の書き込みはこれで終わりとし、次の言葉で年を越すこととします。
「これでいいのだ」(バカボンの親父 赤塚不二夫)
「ともかくもあなた任せの年の暮れ」(小林一茶)
「ケセラセラ なるようになる」(ペギー葉山 歌)
来年もよろしく。よいお年を!!
今日12月10日は世界人権デー、1948年国連で人権宣言が採択されたのを記念して制定されたものである。
人権というものは果たしてあるものだろうか。そもそも「権」という字は「仮」のものという意味で、人が約束の上で認め合ったものに過ぎない。権利、権力、人権等皆そうである。
人権の最も重要なものはやはり生存権であろうが、「俺には生きる権利がある」と言ってもそれを認めてくれる人がいなければないのと同じである。山中で出会った熊には通じない、目の前に殺しに来た無法者にも通じない。北朝鮮のような軍事独裁国家では通じない。我が日本国には死刑制度があって国家によって処刑されることもある。
人権は歴史的過程の中で権力者から獲得してきたものだが、それぞれの権力によって認める範囲が違っている。日本で認められることが人権後進国の中国では認められない。
日本でも憲法に基本的人権の定めがあるが、それがきちんと守られているかといえばそうでもない。
所詮は約束事の地盤の上の話であることをよく承知しておかねばならない。約束というものは守られるとは限らない、破られることも多いということである。アテにできる範囲しかアテにならないのである。そんな時どうするか。腹を決めておかなければならない。宗教が必要な時はそういう時である。
今日から人権週間だが、今朝の朝日新聞には何の記事も出ていなかった。朝日はこの手の関係についてはよく記事にするのであるが珍しい。
夕刊では「人脈記」という連載記事の中で漢字にまつわるエピソードを取り上げているが、昨日は「障碍」だった。
日本では身体や精神にハンデを負った人を障害者と呼んでいるが、害には災いの意味があり否定的なイメージが強い。だから碍という字を用いるべきという趣旨の運動をしている人がいるが日本では常用漢字の中に碍の字が入っておらず、一般には使えない。韓国では障碍者と書くらしいし、自治体で「障がい」とカナ表記する例もあるらしい。
しかし、障碍者と書いても問題は残るのである。障碍物とは邪魔になる物という意味だが、障碍者は物を者と入れ替えると邪魔者になってしまうのである。
現在使われている障害者というのは、もともと身体障害者と呼ばれていたのである。略して身障者だった。ところが30有余年前に精神障害者もいるというので総称から身体を外してしまったのである。これはヤバイのでないかと当時思ったものである。
障害者のことを英語ではHandicapped person(ハンデキャップド・パーソン)、これに合った言葉を考え出されるのが望ましい。しかし、安易に英語使用は御免こうむりたいものである。