この度は自己の世界に書いてみよう。
自己の世界は内山興正老師が図示した下図のようなものであるがもう少し掘り下げて考えてみたい。
まず今この瞬間、自分の部屋でパソコンをいじっているとする。そこで体験する世界といえばまず五官で捉えた世界である。眼で見、耳で聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、舌で味わい、そして触れて感覚する世界である。
その場合見る世界は自分の今いる場所から自分の視力で捉えたものであり、この周囲の状況は自分だけのものであるのは自明である。たとえ、よく似た双子が頬をくっつけあって同じ方向を見たとしても決して同じ景色とはなり得ない。
自分独自の世界を時々刻々五官を駆使して体験しているのである。独自体験する世界を自分が持っているとも言えよう。
例えれば飛行機や船舶がレーダーを映しだしたり、カーナビ付きの自動車を運転するようなものと考えればよい。
「行き先に 我が家ありけり カタツムリ」という句があるが、何処に赴こうとそこが自分の世界ということになれば、安心というものである。
さて、五官で捉えた世界は当然五官の範囲に限定されたもので、たとえば部屋のにいればそれだけの空間でしかない。それ以外のところはどうなるのか、壁の向こうにも世界が広がっているはずである。
今、見えていないものであっても当然あるはずである。それはどういうものか、過去に体験した記憶されたものが呼び出されそれによって構成される世界なのである。記憶されのは当然今ではない、過去のものである。過去の体験を今呼び起こしているに過ぎないので実際はどうか本当のところは分からない。また、記憶違いや細かいところまで記憶されているとは限らずそのディテールはあいまいなものである。
頭に記憶された情報が心のデイズプレイに投影れたものが外の世界なのである。そして、
分からないところは想像で補って、世界認識としているのである。
つまり、確かに宇宙という実世界があることは間違いないのだろうが、認識力が働いたところが世界が我々の世界なのである。
認識されたものだけで世界ができているのではないとの反論が聞こえそうである。確かに人間の認識力なんかしれたもので、知らないところが圧倒的だが、そのように認識する程度の世界となっているという話なのである。
だから、この世界は自己世界というべきものだが、皆、それが共通の世界と思ってしまっている。既成的出来上がった世界にその1員として生まれてきたのが自分だと思い込んでしまっているのである。人それぞれが独自世界を生きているのに共通世界だと思っているところに認識の齟齬があるのである。