書棚を整理していたら、ある本の間から大法輪2007.2号のコピーが出てきた。
内山興正老師のお弟子さんの櫛谷宗則さんが内山興正老師の在りし日の思い出を文章にしたものである。
私が安泰寺を初めて尋ねたのが昭和45年秋、宗則さんが20歳の時に出逢っていいる。また、老師が亡くなられた日にたまたま老師宅で居合わせたという縁もある。
天を仰いで歩く
ー ある日の内山興正老師
「空を見ながら散歩するのは、坐禅と一緒だね。歩くというのは、何か思いを手放しにする処がある。そして大空はつかみきれないほど深い」
一日中、机に向かい、あるいはお客様の相手でお疲れになった老師にとって、夕方一時間ほどの散歩は心待ちの時でした。着流しから作務衣に着替え、小さな懐中電灯(赤いフィルター付き)を持つと、喜々として運動靴をはかれるのでした。そして大垣の美しい平野を、京都の宇治川ぞいの土手を、信州では広々とした田圃道を、どれくらい歩かれたことでしょう。
足取りも軽く空を見上げながら、もう仏教のことも何もすべて解き放って、ただゆったりと歩く。この時問が老師にとって至福の時だったのではないがと思います。お顔はいきいき子どものように茶目ッ気たっぷりで、一緒にいると私も幸せでした。風は快く、夕空の雲は時に面白い変化をみせ、夕闇へ澄んでいくひかりのなか、言葉を交していても黙って歩いていても、そこに静けさだけがあったように思います。
「僕はねぇ、愛想のいい人間だけど本当は一人が好きなんだ」
ひとり悠々と空高く舞うトンビや鶴は、老師のあこがれでした。小さい頃から病気がちでよく床にふせって空を見ておられたという老師にとって、自由に大空を舞う姿はどんなにか心引かれたことでしょう。あこがれて、あこがれて、老師は一生求めつづけて飽くことがありませんでした。得た、分かったといって、悟りや権威の上に止まろうとはなさいませんでした。偉くならず、ただ一個の裸の人間として最後まで「生きる」ことに深まろうとなさっていたと思います。
大空は遠く限りなく、同時に何でも話せる身近な友でした。老師が愚痴をこぼすとーーー「まあいいさ、大したことはない」、キレようとする時はーーー「それもよかろう、でもくだらないぞ」、落ちこんでいるとーーー「まあそんな日もあるさ」、大空から大きな慰めをもらったと詩にも書いておられます。
それは東京・本郷のお生まれで故郷の消えた老師にとって、幼い頃と変わらない安らぎに満ちた故郷でもあったでしょう。
そんな老師のお散歩は、気分転換のためでも、健康のためでもなく、いつかそういう世間的なこととは、はるかに違う世界へ踏み入っておられたように思います。そこに坐禅に通じるものを発見し深めていかれたのでした。その頃、こんなことを書いておられますーー。
「とにかく大空は『つかめぬ』『つかみきれぬ』故に、はなはだ『物足りない』のですが、それなればこそなおのこと、私は大空を素晴らしいと思い、また仰がずにはいられないのです。
つまり、まるで磁石の針が北に向かうように、その『つかみきれぬ、物足りなさ』そのものに向かってしまうのです」
「つかみきれぬ、物足りなさ」ーーー全くソレは坐禅のソレと直通しています。
われわれはいつも「つかもう、物足りよう」という迷いの真っ只中に生きればこそ、最後にはそこですべて止めて坐らざるをえなくなります。迷いを片づけてから坐るのでも、迷いをなくすために坐るのでもなく、力尽きて坐禅の方から「ただ」坐らざるをえなくなるのです。それは坐禅という大空のつかみきれない深さでしょう。力でしょう。
お年を召してからもう全く坐禅ができなくなった老師は、坐ってただ壁に向かうように、天を仰ぎみ歩くことによって自ずと生きる姿勢を正され、新たなお気持で一日、一日を歩まれていかれたのではないかと思います。雲一つない澄みきった日はことに嬉しそうなお顔で、入り日を拝み、一番星を拝み、夕空に手を合わせるなか、老いのいのちにそっと寄り添い、安らいでおられたのだと思います。
生きることそれぐるみ大空の光のなかに包まれながら、どこまでもそれに向かって刻々歩んでいく。
われわれは坐禅の大空に向かって今日一日をつとめるなかに、あたりは夕光に包まれているでしょう。
その夕暮れの深みへ、いきつけない光のように、ほのかに澄浄(ちょうじょう)するだけです。いつか何もかもが、ただ夕光のやわらかな影でしょう。
櫛谷宗則
昭和25年、新潟県五泉市の生まれ。19歳のとき、澤木興道老師の高弟である内山興正老師について出家得度。以来、安泰寺道場に10年間安居。『禅に聞け』『澤木興道 生きる力としての禅』 (大法輪閣)、『コトリと息が切れたら嬉しいな』(探求社)、『共に育つ』等を編集。五泉市在住。