1月8日に書いた図を別の形で表現してみました。
実物世界はそのまんま、認識世界は見たまんま、聞いたまんま、思ったまんま。
仏教は認識世界のみ。唯識。素朴実在論。
1月8日に書いた図を別の形で表現してみました。
実物世界はそのまんま、認識世界は見たまんま、聞いたまんま、思ったまんま。
仏教は認識世界のみ。唯識。素朴実在論。
ユーチューブ動画で見て感動したものがあったので紹介する。
1919年ギリシャ軍とオスマントルコ軍の戦いで窮地に立たされたアルメニア人800人を救出した貨物船「東慶丸」船長日比左三さん、リトアニア領事館においてユダヤ人6000人にビザ発行した杉原千畝さん、満州国境で20000人のユダヤ人の入国通貨に尽力した樋口季一郎さんのエピソードが紹介されている。
特に樋口季一郎さんは日本人にとって忘れてならない人である。終戦後、ソ連軍の侵入を防ぎ北海道を守った、彼の働きがなければドイツや朝鮮のように分断国家となっていた。
これを学校で教えないんだね。残念である。
前に年賀状案文をアップしたが、当ブログの読者の方ならお分りいただけるかも知れないが、年賀はがきを交換している人には理解できないのかとも思われるので、分かり易い案文を考えた。
以下、はがき用の案文。
「生命連鎖」
お蔭様 お互い様 他人事ではない
この3つの言葉は、元清水寺の大西良慶貫主(五つ子の名付け親として有名)のことばであって、気に入っているものである。
近年、年賀状の交換を辞める人が多くなって、私もそれを考えたが自分から辞めるのを控えている。その代わり、新年になってからいただいた年賀状にだけお返しで出す形にしている。年賀葉書の購入も来年になってからである。
しかし、はがき代が63円から85円に、この値上がり幅はきついね。
とうことで、今年のブロク記事はこれで終わりにします。
拙文にお付き合いいただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。m(_ _)m
ヤフー知恵袋でのQ&A.
Q:人生は死に際が 大切か?
A:眠るが如く安らかに息を引き取る人もいれば、藻掻きまくって死ぬ人もいる、これは容体によるものです。
どんな死に方をしても死は死です。皆、平等です。
生き残っている人の評価はいろいろあるでしょうが、死んでしまった人には意味のないことです。
まあ、死ぬことが分かれば精神的にはジタバタしないようにするのは大事なことでしょう。
台風10号 西へズレたと思ってたら、上から降りてきて、大阪がど真ん中になってしもうた(980hPa)。ズレまくりだからこれからもきっとズレることを期待しよう。
ズレ先のお方はお気の毒だが・・・。てなことを言っていたら直で来るかも・・・。
嫌なやつ。
2024/8/28 23:00 進路図追加 和歌山南部まで南下
2024/8/29 21:00
なんちゅう、台風や。大阪直撃。やめてくれー。990hPs 風はともかく雨が心配。
2024/8/31 6:00
結局、元の近畿縦断コースに。わて ほんまによう言わんわ。
数日前、台風10号の進路を見てみると、居住地の大阪を通る予報なっていた。これはヤバいと気象庁、米軍、欧州の予報で3時間ごとのコースをチェックし出した。
初めはコースが東にずれて三重、愛知へ行くコースにほっとした。こっちがセーフならどこかがアウト、当たったところはお気の毒だがご互い様と割り切るしかない。
さて、コースは東は東海まで振れたが、今度は西方向に向きを変えた。近畿から四国、今は九州上陸コースになっている。そのまま北向きに抜けるかと思いきや、首を東に振るコース、北側から大阪に接近。
夏台風はコースが定まらず、厄介だ。ただ、強さがそれほどでないのが助かる。
現時点ではどこに上陸するか、だいたいのコースは定まってきた感はあるが、実際にコースに当たったところは十分に用心され被害の少なからんことを祈る。
人それぞれ独自の生命観をもって、生きているわけであるが、その生命観を極々簡単に区分けしてみた。
1 肉体が生命の本体。死をもって生命の滅びとする。
2 スピリチュアル。 精神、霊魂が生命の本質。死後もその永続性を認める。
3 輪廻転生する霊魂が本質、肉体はそれに付属する。死ねば新たね肉体に入れ替わる。
4 神、仏等超越的な存在によって造られたもの。生も死後も超越者に依存する。
5 無始無終、無量無辺の無限空間の中で縁起によりたまたま仮に寄せ集まった生命体で実体はない。(無我、空)
6 宇宙(有限空間)の中で縁起により形成された生命体、宇宙のひとかけらであり宇宙と一体的に躍動している。宇宙をわが身とすれば滅びはない。
さて、縁起は釈尊が発見された真理です。他の教説も縁起を基に考えられたものである。
ところがそれは無限空間の中では因縁という限定された縁起になってしまう。限定的な因を考えそれに付随する縁を考えるからである。五蘊説にしても、十二支縁起にしてもそうである。
ところが宇宙が有限だとすると、宇宙全体が繋がり縁起してということであり、そのひとかけら同士は相互依存し影響し合うことになるのである。
電磁力と重力は影響範囲が無限大ということからも理解できるであろう。
佐々木閑 花園大学特別教授がタイのチェンマイの近くの上座部仏教寺院を訪ね、その修行生活を動画に撮り、その有様を紹介されています。
ユーチューブで複数回に分けて、アップされるようです。
https://www.youtube.com/watch?v=vOCMVfRQNdg&t=12s
パリ五輪卓球女子シングルスで銅、団体で銀メダルに輝いた早田ひな選手(24)が「鹿児島の特攻資料館に行ってみたい」と語ったこと、日本大好きな私としては感動した。反日連中は真逆の反応を示しているが・・・。
「あの頃
あの人たちがいて
あのことがあって
今の日本があり
私たちは生きています
ありがとう」
私は当時3歳、一番小さな子と同じ年ごろ、私も守られたのある。
居住地の門真町は松下電器の本社、工場のあるところ、艦載機から爆弾の投下も何回もあった。空襲警報のサイレンがなって防空壕に逃げ込んだことをよく覚えている。
全国的のお盆真っ盛り、死者の霊の来たり帰ったり。「成仏してから死ね」なんて書いてしまったけれど、仏教に深く信奉する人以外はその気になかなかなれないのでは思うので、対比的に日本人の死生観について、上手く説明されている動画を見つけたので紹介させていただく。どうしますかね。
内山興正老師曰く「死者の霊魂とは生き残っている者の間に漂う亡き人の残映である」
https://www.youtube.com/watch?v=eCvNiRbAsBQ
仏教における性悪説と性善説と言うと、何事かと思われるかも知れないが、性悪説とは輪廻説のこと、性善説とは如来蔵説のことである。
輪廻説は生まれ変わり思想、前世の悪業を背負って現世に生まれて来る、無明、煩悩、執着による苦しみで汚れてしまった状態で生まれて来る。
一方、如来蔵説は大乗仏教の中に生まれて来た考えで、如来蔵とは如来の蔵、蔵は胎児のこと、つまり、仏の子として生まれて来ることである。
「おさな子がしだいしだいに知恵づきて、仏に遠くなるぞ悲しき」
苦しみの元は生まれてから身につけた悪癖だということである。後天的なものなら直すことできるし、来世に引き継がれる理屈もないことになる。
さて、仏教は個々の背負った苦悩を解消しようとする、教えであり営みである。
それは初期仏教では、無我であり、大乗仏教では空である。これが中途半端な教えでこれで悟りということはないと思う。
無我、空も自己存在を認めないのである。
それを説明するのに五蘊説を持ち出す。色、受、想、行、識の五蘊が寄せ集まって化和合しているに過ぎないから、実在しているわけではないというのである。
この理屈はそもそも五蘊というのがどこから来たかを無視している。生命を縁起的に頭で考えて分けたものに過ぎない。実際に分けようとすれば死んでしまう。五蘊なんてものはあり得ないものである。
もう少し分かりやすくいうと、例えば、ダイヤモンドがある、これは炭素の粒が集まったものである。本質は炭素の粒であり仮にダイヤモンドと呼んでいるだけであるという理屈になる。
しかし、幾多の縁起によって出来上がったものをダイヤモンドと呼び価値を認める、そこにそのダイヤモンドとしての自性を認めるべきでしょう。私は今ちゃんと生きていてこんな文章を書いている。私は存在しないなんて考えようもない。
「はじめにいのちありき」なんですよ。それは無限の縁起、宇宙全体の縁起により生じたもの。宇宙生命、つまり、宇宙一杯の仏の子として生まれ、他に行きようもなく宇宙の中に没する。それでいいのだ、そうでなくちゃ。
死んでからも未練たらしく生まれ変わりたい。生き方としてどうなんですかね。
「成仏してから死ね」なんて、前回書いたけれど、とにかく死んでから追善してもらって成仏なんてあり得ない、とすると生きている間に成仏するしかないのである。
じゃあ、仏とは何かというと、自己の周りに仏国土という世界を持っており、それが浄土であるということである。
内山老師の自己図(下図)のように誰でも自己世界を持っているのであり、それを清浄にすればいいだけのことである。
自己がいて自己の周りに自己の世界があるなんてことは、ちょっと考えればすぐ分かることであり、そこに余計な、馬鹿げた、錯覚を混ぜ込むから世界が汚れるのである。
では、クリーンにするにはどうするか、只管打坐の坐禅をするしかない。ちかごろ、瞑想流行りだが、いくらよいことを考えても透明清浄から比べればゴミに過ぎないのである。
只管打坐すれば、自己世界が見える、その世界が清浄になる、つまり、仏の出来上がりである。仏典に出てくる次の言葉を参考にされるがよい。
一切衆生悉有仏性( 涅槃経)
自性清浄心(大乗起信論)
坐禅自己の正体なり(正法眼蔵随聞記)
衆生本来仏なり(坐禅和讃)
修証一等(正法眼蔵弁道話)
一寸坐れば一寸の仏(禅語)
生も時なり 仏も時なり(正法眼蔵有時) *生とは衆生のこと。
とにかく、只管打坐を坐禅を体験し、死ぬ時にはそれを思い出し、坐禅でも臥禅されれば仏として死ねることになる。
仏とは宇宙一杯の存在だから、死ぬことはない。
6月25日に仏教における死後のコースについて、書いてみたが、要約すると、
1.即輪廻コース
2.49日コース(追善あり)
3.十王経コース(追善あり)
4.十三仏コース(追善あり)
5.即得往生コース
になる。
しかし、そもそも死後の世界があるのか、輪廻はあるのか、極楽浄土はあるのか。
誰も見た者はいない、とすると、生きている人間の想像、悪く言えば妄想に過ぎないのではないか。科学の発達した現代において、考え直してみる必要があるのではないか。
仏教は成仏を目指す宗教、死んで自己存在が無くなった状態で成仏なんてあり得ないというべきであろう。
しからば、成仏は生きている間に達成しなければならない。
「成仏してから死ね」ということである。
6.仏道コースというコースが必要と言うことになる。
「成仏してから死ね」とはどういうことか、次回に書いてみますが、日を置きますので諸兄も考えてみてください