曹洞宗安泰寺のドイツ人住職ネルケ無方さんの本が新しく出版されたので紹介します。
『日本人に「宗教」は要らない』というタイトルがついている。ドイツの宗教的生活との対比から日本においてはわざわざ宗教を持ちださなくても宗教的に生きているとの視点から書かれていてなるほど外国からみると日本の宗教、生活がそのように見えているのかと認識を新たにしたところが多い。
日本人のええ加減なところが、丁度良い加減というような話である。
作品紹介
曹洞宗安泰寺のドイツ人住職ネルケ無方さんの本が新しく出版されたので紹介します。
『日本人に「宗教」は要らない』というタイトルがついている。ドイツの宗教的生活との対比から日本においてはわざわざ宗教を持ちださなくても宗教的に生きているとの視点から書かれていてなるほど外国からみると日本の宗教、生活がそのように見えているのかと認識を新たにしたところが多い。
日本人のええ加減なところが、丁度良い加減というような話である。
作品紹介
花園大学学長、竜安寺大珠院住職だった盛永宗興老師(1995年示寂69歳)の大珠院での提唱をアーカイブしたものを所持していますが、この度、ある読者の方から要望で頒布させていただきました。
ヤフーのストレージに保管していますが、今回そのため公開処理しましたので、ついでですから希望の方にダウンロードしていただけるようにしたいと思います。希望の方はメッセージをいただければURLをお知らせします。
(追記)HPブックマークから入手できます。
十牛図(7話)、証道歌(8話)、禅海一瀾(5話)、碧巌録(3話)、臨済録(3話)以上26ありますが、これは私が直接聴講したものでなく知人からもらったもので全てが揃っているわけではなく回の続きでないものもあります。その点お含みください。
老師とは知人に連れられて大珠院で一度お目にかかっただけですが、なかなか話の上手な方でこれらの提唱もなかなか素晴らしいもので一聴の価値はあるものと思います。
ソチ五輪でやっと金メダル、羽生選手やったね。
これだけはっきり日の丸を掲げてくれたのは初めて。嬉しいね。
写真は今日の産経新聞のネットビューから写したが、よく見ると吾輩の額が映っているのがご愛嬌。
白地に赤く
日の丸染めて
ああ美しい
日本の旗は
青空高く
日の丸揚げて
ああ美しい
日本の旗は
戦中に生まれて「日の丸行進曲」なんかをよく聞いて育ったせいか、国旗の日章旗には特別の思い入れがある。
スポーツの国際大会などで、国旗に寄せ書きなんかをしているのを見かけるとぶん殴ってやりたくなるのである。今回のオリンピックでもその風景が見られた。
国旗は国の象徴、戦中は日章旗を仰ぎ見て日本の国を思い命をかけ、多くが命を落としたのである。それをないがしろにするなんてという思いだが、遺品などに寄せ書きしたのが出てくるを目にすることがある。何たること、そんなことだから日本は負けたのだと思ってしまうのである。
若い読者諸兄にあっても、日の丸が焼かれたり、足蹴に泥だらけにされるのを見れば腹立たしさを感じられると思う。そんなことを自らの国民がしているのである。あれら人達は日本人の精神を失っている、あるいは知らないのであろう。
日の丸は日出る日本、つまり太陽を表していて、それはお日さま、お天道さま、天照大御神なのである。
そして、日本の精神、昔でいえば大和魂は三種の神器にて表される。
鏡は誠、玉は愛を、そして剣は勇気を表す。誠と愛と勇の3つが渾然一体となったものが大和魂なのである。
それを日の丸にはそれが、白地は誠、丸は愛、赤は勇でちゃんと3つの精神が一体的に表されていることを知っていなければならない。これは知(誠)、情(愛)、意(勇)が完全にバランス(大和)していることである。
まあ、だから、大いなる和の精神の日の丸を掲げて侵略戦争なんてあってはならないことであったのである。
このブログでは自己の世界を持つということをテーマにしているが、読者諸兄は自己の世界を既にお持ちだろうか。
そんなものは持っていないという人も実はちゃんと持っているのである。
1自分だけ
2自分と所有物
3自分と家族
4自分と属する集団、その縄張り、人脈、テリトリー等
どこかに生命線と呼ぶべきラインを引いていてそれの内側を自己世界としているものである。そこまでは自分と一体感を持ち自己同一性つまりアイデンティティーを有しているのである。
たとえば、長嶋茂雄は引退式の時「我が読売巨人軍は永久に不滅です」なんておかしな言葉を残したのは有名だが、長嶋にとっては巨人軍と一体であり、巨人軍が永久なら自分も永久というような心情があるのである。
前の大戦でも兵隊が国のために命をかけて戦ったのも国との一体感があったからである。祖国への思いに深いものがあった。
しかし、先日テレビを見ていたら自分の国を誇りに思うかとアンケートで主要国の中で日本は最低ラインで50%を切っていた、100%に最も近く最高値だったオーストラリアの半分という情けない数字。一体感があればどこか誇るべきところに気がつくはずだし、自分のことしか考えていないのだと思う。
で、とにかく広く自己の世界を認識しそれとの一体感を持つことが大切である。
自己の世界と言ってもいいし、自己の国と言ってもいい、是非それを持ってどんな世界を創造して行くかその中に生き甲斐も喜びも得られるはずである。
佛様は皆、自己の世界、国と持っている。阿弥陀佛は極楽浄土、薬師如来は瑠璃光浄土、毘盧舎那佛は蓮華蔵浄土、
釈迦如来は娑婆世界(寂光浄土)、観音菩薩は補陀落浄土といった具合である。
佛教の最終目的は成佛にある。その前提として自己世界を持つこと。これは誰でもできることなのである。
このブログは元々私の独り言を書くということで出発しましたが、途中、いやがらせとしか思えない無用のコメントが舞い込むようになり、コメントは内容チェックの上公開するようにしてまいりました。
しかし、折角コメントをいただいていたのに見逃すことが続いたので、この度、即、公開という形に変更いたしました。
ついでに、トラックバックの制限も外しました。
なお、ご利用に当たっては当方並びに閲覧の方に迷惑にならないようにしていただきますようよろしくお願い致します。
久しぶりのアップです。
今日は節分、各所で節分行事が行われ家庭においても楽しい一日を持たれることと思う。
その筆頭は豆撒きだろうが、以前にも述べたが豆撒く時の掛け声は「福は外」にすべしというのが私の主張だ。
「福は内」と福を求めるのは貧乏根性、運命は根性に応じて展開してくるという法則があるのだから、貧乏根性を披瀝しても福なんかやってくることはない。
「福は外」は足ることを知り、少しでもそれをお裾分けする気持ちを有すればそれだけで豊かになれるいうものである。
また、太巻きの寿司を恵方を向いて食べるという風習が関西にはある。全国的にはどうかは知らないが多く行われているようである。
恵方は歳徳神のいる方向ということで、今年は甲(きのえ)の年だから東と東北東の間あたりの方角に当たる。これも皆がそっちを向いて巻寿司を丸かじりする図を考えてみたら欲呆けておかしなものだが、それが楽しいのだから仕方がない。
吾輩も折角だから今日は太巻きも食べるが、やり方を変えている。つまり、恵方とは逆向きの方向に向いて食べる。尽十方界真実人体だから、あえて恵方はとらない。そもそもそんなものがあるわけがない。関西人が恵方を向けば関東人のケツを向くことになるのでもある。