今年の年頭、下のような文章を紹介したので、まず、参照してもらいたい。
道元禅師は坐禅のあり方を3つに分けておられる。それは他ならぬ龍樹祖師の言葉であるという。
その3つは、諸仏菩薩の坐禅、外道の坐禅、二乗の坐禅である。外道の坐禅、二乗の坐禅を近頃これを瞑想と呼んでいるようである。
元々漢訳仏典には瞑想という言葉出てこない。瞑想は戦後使われるようになった言葉である。文字通りとすれば「目を瞑って想う」、この瞑想をある人は精神集中だと言う。これって結局思いを固定することではないか。また、気づきだと言う人もいる。これも想いを追っているということではないのか。そのことに気づいていない。
結局、瞑想は念、想、観の測量であると結論づけたい。それは利益、有用のための手段、内山老師の言葉通りである。
ところが、残念なことに瞑想という言葉が禅門の僧侶に安易に使われていることである。どこかの大寺の管長まで堂々と使っている。汚染がここまで進んだかと思いがしている。
では、仏菩薩の坐禅とどういうものか、道元禅師の言葉を主に列挙してみたい。
只管打坐、身心脱落、修証一如(初心の辨道すなはち本証の全体なり)、不思量(念、想、観にあらず)、不得不知、発菩提心、無我、縁起、空、澄浄、無色透明、帰命、無所得、無量無辺、尽十方界、生命の実物、畢竟帰処、頭手放し。
話になりまへん。(笑)
念の為に言っておくと、瞑想が駄目というわけではない。それなりの効用もあるのは認める。やりたい人はやればいい。
でも、仏菩薩の坐禅と同列に扱ってほしくないし、ましてや、道元禅をアップデートして坐禅瞑想をなんて言葉を考え出す坊主は許せないね。
「以下再掲」
道元禅師の著書に以下のような言葉がある。坐禅にもいろいろあるということである。
『龍樹祖師いわく。坐禅はすなわち諸佛の法なり。しかも外道も亦坐禅あり。
しかりといえども外道は着味の過あり。邪見の刺あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず。二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず (永平広録 巻七)』
それについて、内山興正老師が解説されていて、以下は「自分と自己」という文章の一部引用である。
【つまり外道の人もーーたとえばインドのヨガの人なども坐禅するし、日本の生長の家の人でも、神想観といって坐禅みたいなことをやるわけです。「然りといえども、外道は着味(じゃくみ)の過あり、邪見の刺あり」と出ていますが、何か色合いがついている。味付けがしてあり、坐禅すると健康にいいとか、頭がよくなる、とかいう。インドの人たちは、坐禅して昇天の福を得ようとか、来世は天人に生まれ変わろうというのが殆どで「ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」といいます。
それから又「二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」とあります。いま南方佛教の人たちは、坐禅してだんだん煩悩を細めていって、最後にはそれを全く無にするという。これはいわゆるの「自調の心」であり、最後には煩悩を断滅してニルバーナをえようというので、そういうつもりになっています。
ところが「諸佛菩薩の坐禅」というのは、これに反して「坐禅はまっすぐにただ坐禅する」という一事に尽きます。坐禅するーーただそれだけで、何の「つもり」ももたない。これが本当の坐禅であり、これを「祇管打坐(しかんたざ)」といいます。