私は2年半前から、駒澤大学の佐々木閑名誉教授のユーチューブ講座を視聴している。説明が一般向けに分かり易く説かれていて、いろいろ学ばせていただいて仏教に関心のある者として非常に有り難いことだと思っている。
ただ、仏教信奉者としてもこれは認められないと、思うことがある。一例を挙げれば輪廻説である。死んだ者がそのままの続きとして再生してくるなんて信じようもない。
輪廻思想は先生も信じていないと言われているが、講義としては阿含経に書かれているとおり輪廻を前提として話をされている。
信じていないけれど、学問としてはお経に書かれていることを解説しなければならない、先生もジレンマを感じておられることであろうと思う。
さて、昨日の講座は十二処に関するものだった。六根があって、六境があり、それら要素を集めたものを自分だと思っているが、その自分は錯覚である。元にである十二処は無常であり、苦であり、無我なのであるから、それが集った私というものも錯覚で無我なのであるという説明である。
ところが私はこの説明が気に入らないのである。自分はちゃんと存在しているではないか。自分は存在しないという意味の無我はどう考えておかしい。
バラバラしたものを先に持ってきて、それが無我だからつなぎ合わせて出来上がったものも無我と言っているのである。
そもそも、無我なんていうのも先に思考力を持った人間が先にいて言えるのである。無我よりも自我が先である。
十二処も五蘊も生きている人間を観察して、頭の中で分析思考したものでしかない。実際に分けることもできないが、分ければ生命は死ぬことになる、そんなものをつなぎ合わせても生き返ることはない。
では、無我とは何か。限定できないということ、肉体も精神も常に変化しているし、それだけで存在し得ないということ。つまり、無限ということ、宇宙一杯ということである。
生命体が存在するためには、空気、水、食べ物、着る物、寝るところがいる、それらは地球上にある、地球は太陽がなければ存在し得ない、太陽は銀河、銀河は宇宙、みんな揃って自分という存在がある。宇宙全体の力で生きているのである。
物と物がどうして繋がっているのかというと、電磁力と重力による。電磁力と重力はその影響範囲が無限大なのである。我々、地球を介して月や太陽に繋がっているのではダイレクトに繋がっているのである。
これが仏教で言う縁である。縁は切れない、相手を遠ざけることはできても絶対に切れないのである。
佐々木閑名誉教授 仏教講座
https://www.youtube.com/watch?v=7hfQ9gyOS-4&t=617s
そもそもの文脈が違います。
比較できないものを比較しているというか。
その時代時代によって、社会背景とか違うわけで。
おかしいでしょ。
まず、いのちありきですよ。私が生まれて一切がある、私がいなければ何もない、あるもないもないのです。
頭で考えれば五蘊に分けて考えることはできる。しかし、実際に分けられますか?分けようがにじゃないですか。
初めにいのちあがある、自己が根本。
お釈迦さんの発見は縁起だけ、後はそれをもとに理屈を考えただけ。顕微鏡も望遠鏡もなかった時代は想像だけです。
仏教の縁は有ったり、無かったり、切ったり、結んだりするような縁です。
しかし、縁は切れもなくなりもしないのです。近づけたり遠ざけたりできても切れません。
宇宙の果まで繋がっているのが縁です。
とにかく、生命を切り刻んでの無我なんてぺけですよ。
>は我はない、だから、それを寄せ集めた「私」にも我
>はないと言っている。
>おかしいでしょ。
ええ。世間一般的にはおかしいですね。
>まず、いのちありきですよ。
>私が生まれて一切がある、私がいなければ何もない、
>あるもないもないのです。
ええ。そのとおりですね。
>頭で考えれば五蘊に分けて考えることはできる。
>しかし、実際に分けられますか?
>分けようがにじゃないですか。
確かに生身の身体は分けると死んでしまいますね。
>初めにいのちあがある、自己が根本。
ここがちょっと腑に落ちませんね。
自己を想定すると苦がある
自己を想定せず、縁起のみあると観よというのが
仏教なのではないですかね。
>お釈迦さんの発見は縁起だけ、
>後はそれをもとに理屈を考えただけ。
>顕微鏡も望遠鏡もなかった時代は想像だけです。
こちら、何を根拠に「お釈迦さんの発見は縁起」だけと言えますか?
>仏教の縁は有ったり、無かったり、切ったり、結んだりするような縁です。
そもそもですが、縁を実体として捉えて良いのでしょうか。
有無を想定してはダメってのが仏教ではないかと思います。常見、断見はNG。
>しかし、縁は切れもなくなりもしないのです。
>近づけたり遠ざけたりできても切れません。
>宇宙の果まで繋がっているのが縁です。
こちらは、仏教の縁ではなく、科学の法則ではないですか?
>とにかく、生命を切り刻んでの無我なんてぺけですよ。
十二支縁起にある身体に関連する区分けはおかしいということですね。
では、無我とは何でしょうか?
その辺がごっちゃになってて、素人を惑わせるのではないですかね? ブログ全般的に見てそう思いました。
1自己が根本
2根本教説は縁起
他は敷衍、解説に過ぎない
3坐禅は宇宙一杯の生命の実現
縁起は科学的な考えと親和性がある。
例えば、なぜ縁起なのかというと、電磁力と重力は影響範囲は無限大だということ。
このことに気づくのに20年かかってます。他に誰も言わない。
仏教+科学です。整合しないものは信じる対象ではありません。
なぜ、無我というのは、坐禅していれば我を忘れます。忘己を自己の本体としたからでしょう。
>1自己が根本
ええ。まずは自己の問題としますね。
>2根本教説は縁起
>他は敷衍、解説に過ぎない
こちらはどうかと。
諸行無常、諸法無我がないのは仏教ではないのでは?
>3坐禅は宇宙一杯の生命の実現
坐禅はウパニシャッド由来ですね。
宇宙いっぱいの生命とは真我と同等じゃないですか。
ブッダは、アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマ・プッタのもとを去ってます。
>なぜ、無我というのは、坐禅していれば我を忘れます。
>忘己を自己の本体としたからでしょう。
それ、寝ているのと大差ないです。
坐禅やめると元に戻ってしまうでしょ?
自立神経が整うくらいか。
>バラバラしたものを先に持ってきて、それが無我だからつなぎ合わせて出来上がったものも無我と言っているのである。
>そもそも、無我なんていうのも先に思考力を持った人間が先にいて言えるのである。無我よりも自我が先である。
無我は真理としてではなく、苦の原因である
自我を解体するために説かれていると考えています。
無我論なしの仏教は、仏教と言えないのではないですかね。
>2根本教説は縁起
>他は敷衍、解説に過ぎない
こちらはどうかと。
諸行無常、諸法無我がないのは仏教ではないのでは?
< 否定してません。縁起の理法が元であるということです。
>3坐禅は宇宙一杯の生命の実現
坐禅はウパニシャッド由来ですね。
宇宙いっぱいの生命とは真我と同等じゃないですか。
ブッダは、アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマ・プッタのもとを去ってます。
<坐禅は一貫した修行です。
>なぜ、無我というのは、坐禅していれば我を忘れます。
>忘己を自己の本体としたからでしょう。
それ、寝ているのと大差ないです。
坐禅やめると元に戻ってしまうでしょ?
自立神経が整うくらいか。
<そういう理解なら説明しても無駄ですね。
Unknown (仏教太郎)
2022-12-04 01:28:17
>ところが私はこの説明が気に入らないのである。自分はちゃんと存在しているではないか。自分は存在しないという意味の無我はどう考えておかしい。
>バラバラしたものを先に持ってきて、それが無我だからつなぎ合わせて出来上がったものも無我と言っているのである。
>そもそも、無我なんていうのも先に思考力を持った人間が先にいて言えるのである。無我よりも自我が先である。
無我は真理としてではなく、苦の原因である
自我を解体するために説かれていると考えています。
無我論なしの仏教は、仏教と言えないのではないですかね。
<無我とは無霊魂、無自性と理解しています。自己存在の否定が無我ではない。
自己の拠り所は自己のみなり(ダンマパタ)
自灯明 法灯明
改めて言いますが、
私にとって自己生命が根本、私がいて私の周りに私の世界がある。
私も私の世界もお釈迦さんの説かれた縁起で成り立っている。
しかし、私は私のいのちを生きているのであり、生き方の全てを釈尊に従わなければならない理由はありません。
某サイトでツッコミされているようですが
おそらく、その方の救いにならないですよ。
ありのままなら仏教なんていらないし。
私は大乗仏教、禅仏教、科学の信奉者です。
勿論、初期仏教を無視する者ではありません。
縁起に対する理解が合いませんね。
初期仏教における縁起は「我」の中身の話ばかりです。
四諦、十二支縁起、八正道、五蘊説、六処説等
大乗仏教では「我」の外の世界への縁起が語られます。
そして近代科学では宇宙の有様が知られるようになりました。
それで私は宇宙の縁起まで考えたわけです。
以上のようなことから、あなたとは考え方のベースが違うということになります。
コメントを連発し私の主張を全然ご理解いただけないのですから、返事のし甲斐もありません。
尽十方界真実人体、これが自己ですよ。
宇宙力(縁起)で生きましょう。
己の苦しみなんて小さなことです。