本ブログは”共生山一法寺”という看板を掲げているが、どういうつもりなのかその言葉の意味するところを書いてみたい。
今日地球環境の悪化、核兵器の拡散、テロの連鎖、資源の枯渇、人口増、貧富の格差の拡大、種の絶滅等地球規模の危機が人類に迫ってその恐れから「共生」ということが盛んにいわれるようになった。「共生」が今日的生き方のキーワードとなっているのである。
確かに危機を回避するために共生を意識し生活の中で実行するというのは好ましいことである。しかしここではすでに気づかれていると思うが、あらゆる命はすでに共生関係にあるということをまず言いたいのである。
”彼あるがゆえに我あり、我あるがゆえに彼あり、彼なくして我なく、我なくして彼なし”なのである。彼とは単に知り合いの人間という意味に留まらず宇宙内の一切のものである。
一切のものとのっぴきならない関係性を有する、つまり、繋がっていて切れない絆があるのである。誰でも親近感を持つものには繋がりを感じるが、そうでないものには繋がりを感じなし、嫌悪するものには繋がりを切ろうとする。切ろうとするのは切れるだけの関係しかみていない、”金の切れ目が縁の切れ目”なんていうのも金だけの繋がりしかみていないからである。
生命としての縁はないといえばないような、切れば切れるようないい加減なものでなく、切りようのない縁で繋がっているのである。
日本人に今一番嫌われている人物といえば多分北朝鮮の金正日だろうが、彼の存在がなければ誰も存在し得ない。誰しも彼によって生かされているのである。逆に私があなたがまた彼を生かしているのである。
もっというと例えばエイズやC型肝炎などのウイルスに侵されているとしてみるとウイルスは命を奪う憎き存在なのであろうが、実はそれだけではないのであってその存在があればこそ今生きているのである。殺そうとするものに生かされている道理があるのである。
身に巣くっているウイルスも存在すべく存在しているのであって、否定できない。否定すればその存在に関わったものが全て否定されることになるからである。
嫌いなものを好きになれということではないし、害になるものは駆除してしかるべきであるが、そのベースに共生関係が存在していることを知っておくことが大事と考えるのである。
あらゆるものとすでに共生関係にある、だから共生していく、それを深めていく、その趣旨で共生山と呼称している。