「仏教の生命観・世界観」(12/29)で次のようなことを書いた。
仏教では生命観と世界観と分けて考えない。
人は生まれてくる時世界を持って生まれてくる。死ぬ時には世界を持って死んでいく。
生命がなければ世界もないのである
「自己曼画」(1/11)では図示した内山老師の自己曼画の第6図は次のようなものであった。
ここではもう少し説明を加えたい。
大方の人はまず出来上がった共通の世界があると考えその中でたった一人の存在として孤立している。他は皆他者であり、わずかに家族、所有物が自分に属するものと考える。しかし、それでは死に至れば属する何もかも引き剥がされて死んで行かねばならない。
そういう世界の中では真の生き甲斐も安らぎもない、ただ一時しのぎの快楽を追求するのみ。快楽を得んとすればまず金である、金さえあれば大概の快楽を手に入れることができる。そのために金の奪い合いつまりは生存競争に参加しなければならない。勝ち組、負け組という格差が生じ、勝ち組は驕り、負け組は愚図っている。というのが世の中というものである。
さて、生命体験によってある世界とはどういうものか。たとえば私は今パソコンでこの文章を作成中であるが、部屋の中にはいろんな物が見える。北側の壁には壁掛けの時計があって秒針の時を刻むのが見える。その時計は私が見て、あると認識して初めてあることになる。
「そんなことはない、あるのを見ていないからないというのであって、あるものはあるのである。」とおっしゃる。しかし、現実にその時計の存在を確認されていなければあるとは言えない。そこに認識者がいる必要がある。他人の認識は私の認識とはならない。「時計がある」と言われてあることを認めてもどのようにあるのか、全然分らない。自分が過去に体験した時計をそこに想像的においてみるだけである。しかし、これってまさに生命体験によってある世界の1コマに該当する。
世界がまさに体験世界だという例を引いてみよう。
それは雷様が教えてくれる。落雷があって閃光が走る、しばらくして雷鳴が轟く。落雷というたった一つの事実が光と音という二つのルートを通して伝えられ二度落雷を体験する。どこでどんな時にどのように出合ったのか、その人の視力は、聴力は過去の体験は等々いろんな要素が加わった形で雷が認識される。
その人のその時々のナマの体験する世界が展開しているのが理解されるであろう。誰一人体験しなかった落雷はあったことにならないのである。
もう一つ例を出してみよう。
たとえば太陽、この存在を疑う人はまずいない。しかし、たった今太陽が間違いなく存在しているかどうか。経験則上どうしても認めざるを得ないなどというのも人間の体験上引き出されてきた結論である。今見える太陽は8分20秒前のもの、過去の太陽を見てあれが今太陽と思っている。そんな太陽しか見れないのである。地下のトンネル工事をする人にも太陽はある。その太陽は過去に体験した太陽を心のスクリーンに映すことにあるのである。太陽もまた自己の生命体験の中にあるといえるだろう。
さて、大事なことは五官から飛び込んできた情報だけで認識が行われるのではない。必ず過去情報と照合し加工され認識が完成するのである。時計の話に戻すと、目から入ってくるのは時計の表面の反射光だけである。時計だと認識するのも過去の体験に拠るのだし、時計の厚み、裏の状況等見えないところも記憶の呼び出し、時刻の把握も過去の体験による。時計を知らない者にあっては針の動きが見えるだけのもの。
そう、万人共通のように思っている世界は、個々人がどこに位置するか、どのような認識力をもっているかによって実は皆違うのである。
そしたらバラバラかというとそうではなく、皆が宇宙一杯の世界を持っているのであるから繋がっているのである。いうなれば私の世界の中にあなたがいてあなたの世界の中に私がいるということになる。