7回目の交響楽団奏者達による吹奏楽演奏会の開催案内のHPが公開されたので紹介したい。
なにわ《オーケストラル》 ウィンズに、私の知人のクラリネット奏者西川香代さんが出演するので、今年も聴きに行くつもりである。チケットは発売開始後日をおかず売り切れるので行かれる時は早めに手配されることが望ましい。
5月3日(日) 4:00 大阪ザ・シンフォニーホール
5月4日(月) 6:00 東京芸術劇場
7回目の交響楽団奏者達による吹奏楽演奏会の開催案内のHPが公開されたので紹介したい。
なにわ《オーケストラル》 ウィンズに、私の知人のクラリネット奏者西川香代さんが出演するので、今年も聴きに行くつもりである。チケットは発売開始後日をおかず売り切れるので行かれる時は早めに手配されることが望ましい。
5月3日(日) 4:00 大阪ザ・シンフォニーホール
5月4日(月) 6:00 東京芸術劇場
正法眼蔵洗浄の巻に「身心をきよむるのみにあらず、國土樹下をもきよむるなり」とあるが、入浴は単に身体を清めることだけでなく、自身の取り巻く世界をも清める行為とある。
ところで、我が家のユニットバスの壁パネルの模様に写真のような観音菩薩の姿が見える。数えてみたら11体。
前後左右どこからでも観音さんが見てござるから、行儀の悪いことはできないのが有難いことである。
敵なり、悪者がいるため、それに対抗するために必要とされる職業がある。自衛隊員、警察官なんかそうである。
自衛隊は仮想敵国があればこそ存在意義がある。金正日は日本からすれば難儀な人物だし、中国なんかも軍事的に日本にちょっかいかけてくる厄介ものだが、そのおかげで自衛隊も存在しうるのである。
警察も犯罪者が存在するためにそれを捕まえるため必要な存在である。泥棒が警察に捕まって「お前ら、ワシ等がいるから御まんまが食えるのだ。」と言ったとか。警察の存在も犯罪者に依存しているところがある。
敵と味方、善と悪が持ちつ持たれつ共存しているのが世の実相なのである。
それはそうと、ウイルスを作る奴はけしからん奴だが、ワクチンを作っているソフト会社は有難がっているのではないか。高いソフトを買わされる我々ユーザーこそいいツラの皮である。その元凶はというと欠陥だらけのOSを作っているマイクロ・ソフトだが、その親玉で数兆円もの金を儲けたビル・ゲイツなんて大泥棒である。そしてその盗んだ金をばら撒いて慈善のつもりでいるのは笑止千万。そんなのを有難がったり、エライを思っている人も世の中には大勢いるんだろうねえ。
寒さに負けずほぼ毎日ロードバイク転輪号を駆っている。短距離しか走っていないので総走行距離はあまり伸びず現在2800Kmといったところ。
昨日、雨上がりの淀川堤防を川上に向って走っていたら、彼方に虹が・・・。雲があるため半分にも足りなかったが、大阪で虹を見たのは10年以上も昔のこと、小さな感動を覚えた。
いつも写真の橋を越えてもう一つ向うの橋の近くから折り返すのが定番のコースである。
ある坊さんから聞いた話。
その坊さんが寄り合う機会があってそれに参加した時、地元の坊さんの会話を聞いて驚いた。
坊主A:近頃葬式が少のうなって、寺のやりくりが大変、難儀なこ
っちゃ。
坊主B:うちもそうや。皆、寿命がのびて死なんようになったから
のう。しかし、いずれは皆死ぬのだから、遅れるだけの
ことだわさ。
坊主A:まあ、そういうこっちゃな。
実際にどういう風に言ったかは忘れてしまったので、坊主A,Bの会話は私の創作、どっかの方言入り混じりでけったいな会話になっているが、坊さんが葬式が減って今までの生活が維持できないとぼやいていて将来に期待しているという話なのである。
死人が出れば死体の始末をつけなければならない。さすれば寺も葬儀屋も必要な存在であることは間違いない。平生は死人の出るのを待っているのであるが、待っているが待機の意味ならいいとして、収入を得んがために待っている、期待している、となると如何なものか。
葬式の連絡が入って「しめた!」と思わぬ坊さんがどれだけいるだろうか。
今日、ある病院へ患者見舞に行った時に、往時のことを思い出したのでそれを書いてみる。
一時期とある公立病院に事務職として勤めていたことがある。その時の出来事。その病院はご多分にもれず毎年収支は赤字が続いていた。公立病院とて赤字を出し続けるわけにいかないので、監督機関から経営改善が至上命題として下りてくる。
収入面では入院患者を増えなければ改善が見込めないのであるが、その病院の利用率は大体が70%台、多い時で80%で偶に90%になる時もある程度、年間通せばやはり70%台に収まるものだった。
ある時院長室にいたら、総婦長が入ってきて「利用率が100を超えました!」とにこにこしながら報告に入ってきた。院長もそれを聞いて「よかった、よかった」と大喜び。
傍らでそれを聞いて私も院長も総婦長も経営改善に苦労していたことを知っていたので労をねぎらう意味で「よかったですね」と相槌を打ったものである。
その後自席に戻って、数字の動きを見るうちに気がついた。「おいおい、患者が増えたといって喜んでいいのか」ってこと。どの患者も痛い、苦しい思いをしている、そういう人が増えたということを喜んでいいのか、素直に喜べないなあという思いが浮んできたのである。また、医療制度からみても負担が増大することは問題でもある。
しかし、患者が来なければ病院はやっていけない。病院がつぶれれば医療サービスの低下を招く。
医療事業というのはそういうジレンマを抱えているのである。そんなジレンマを感じず金儲けだけの医療関係者が結構多いように思われるが・・・。
医療関係者は患者の痛み、苦しみを取り除くということに日夜邁進する。それは尊いことなのであるけれども、その裏で患者のその痛み、苦しみが飯の種になっているを自覚して業務に従事しなければならないと思う。
(注)利用率が100%を超えるのは、朝1人が退院、その病床 に午後1人入院したような場合、2人とカウントされるからである。当然診療報酬も2人分払われるのである。
【ローマ15日共同】ローマ法王庁(バチカン)は15日、イタリアの科学者で天文学の父とされるガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)をたたえるミサを死後367年たって初めて、ローマのサンタマリアデリアンジェリ教会で行った。バチカンは17世紀、ガリレオの地動説が聖書に反すると宗教裁判で有罪としたが、法王ベネディクト16世が昨年12月、初めて地動説を公式に認めた。ミサは「名誉回復」の象徴。(2009年2月15日(日)18時23分配信 共同通信)
前法王が進化論を認め、現法王が地動説を認めた。宗教の持つ悪弊の一部が正され、神の領域がぐっと狭まった感じである。元々神なんてものは人間が考え出したものであるから、人間の考えでどうでもなる代物なのである。
ところでローマ法王ベネディクト16世は先月24日、ナチスドイツ時代のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を否定する発言をした英国人のリチャード・ウィリアムソン司教らの破門を撤回すると発表した。イスラエルのユダヤ人当局者は、これに強い不快感を示しているとの記事があり、法王に対する風当たりが強くなっているようである。
ベネディクト16世はドイツ出身。ドイツ出身のローマ教皇は950年ぶり。保守的な考えの持ち主であると言われ、同性愛や中絶に否定的である。若かりし頃はヒトラーユーゲントにも入隊、戦争も体験した。
法王は映画「スター・ウォーズ」に出てくるシスの暗黒卿、ダース・ シディアスに容姿が似ているため、「暗黒卿」とか「老魔法王」と呼ばれるそうである。
千の風になって(考)2に追記します。
実際には水が全て海に流れ込むわけでないし、かき混ぜて均等にするわけにもいかない。広範囲にわたって均質化するには相当長期間を要する間違いない。
一方、人体を構成するのは水だけでない。残りの30~40%は酸素、窒素、炭素、カルシューム、その他ミネラルなどがあるが、それらも微粒子として分散し新たな命の構成要素となるのである。
四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)の教えの集諦について、かくの如くの考えを取り入れると滅諦への繋がりがよくなるのではないかと思量する。
千の風になって(考)にコメントをもらったのでもうちょっと考察を膨らませてみたい。
人が死んだらどうなるか。構成要素がバラになる。バラになったものが新たな生命の構成要素となる。その循環が地球上で地球的広がりの中で行われているのは容易に想像がつく。それがどの程度のものか、深く追求されたことはないと思う。
分りやすくするために水を例にとって考えてみよう。ネットを閲覧していたらいいのがあった。
コップ一杯の水を全世界の海水に混ぜるという記事。
コップ一杯180ccの水を海水に注いで均一になるようにかき混ぜたとして、そのコップで水を汲んだら元のコップにあった水の分子はいくつ戻ってくるか。 答えは700個というもの。
さて、死体に含まれる水分子の量は体重の60~70%、痩せた死体が多いだろうから、50Kgの人の60%として30Kg。コップの水の166.7倍。700個にこの倍数を掛けると116,690個
次にそれを生まれたから死ぬまで人体を循環する水分子の数も考えてみよう。
一日に必要な水分摂取量は2.5Lといわれている。
2.5L×365日×80年=73000L(Kg)
コップ一杯当り 700個×73000/0.18=28389万個
水分量30Kgの人には 473億2446万個
子供など1日2.5Lも摂取しない人も多いし、話半分としても途方のない数となる。
御釈迦さんの寿命は80年、その身体を廻った水分子がそれだけ常時自分の身体に来てるとなると感慨が深い。
「千の風になって」に話を戻すと、雪や鳥を〇としたのは、ご理解いただけると思う。
光と星はそうはいかない。人間が出した空気中の水分や炭酸ガスの影響の屈折が変わったりすることは考えられるが、無視できるものでしかないと思う。とても太陽光や星になるとは言えない。
「千の風になって」は2006年に秋川雅史の歌声でヒット、秋川はこの曲で紅白に3年連続で出場を果たした。
この歌は人が死んだらどうなるか。従来の宗教の説く死後の世界で個体として生きるという考え方、個体が別の個体として生まれかわるという考え方、また、死んだらお終いという考え方もあるが、それらとは別のあり方を示している。
多くの人に共感を呼んで、経済的事情もあって墓なんかいらないと人も増えているようである。かくいう私も墓無用論者である。「遺骨」なんて有難がっているが、要するにカスである。骨なんてものは生きている時は新陳代謝して老廃物して捨てられてしまうもの、10年も経てば全部入れ替わってしまうのである。
そんなものに手を合わせてみても仕方がないと思う。
そこで、歌詞を検討してみよう。
≪私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています≫
ここまではOKだが、次がおかしい。
≪秋には光になって 畑にふりそそぐ≫ ×
≪冬はダイヤのように きらめく雪になる≫ 〇
≪朝は鳥になって あなたを目覚めさせる≫ 〇
≪夜は星になって あなたを見守る≫ ×
星や畑にふりそそぐような光にはなれない。親に死なれた子供に「お星様になった」というようなメルヘンになってしまっている。
雪や鳥になるのはあり得る話であって、これは私の採るところで「そうだ、そうだ」と言いたい。
”一滴の水も大海に入れば大海となり、一塊の塵芥も大地に埋もれば大地となる”
我々はどこから生まれてきたのか、母なる大地、大海から生まれてきたのである。大地、大海は命の根源。死ぬとはその大地、大海に帰ること、つまり大地、大海になることである。その大地、大海から新しい命が生まれてくる。鳥も雪も風も生まれてくるのである。
星や畑にふりそそぐような光は地球の外からの話なのでそうはいかないから否定せざるを得ない。
毎年の年賀状には内山老師をまねて人生詩もどきのものを書いてきた。平成16年の年賀状には次のようなのを書いた。
宇宙一杯の生命
物質の最小単位である素粒子には四つの力が働いている
強い力、弱い力、電磁力、重力である
うち、電磁力、重力の影響範囲は実に無限大である
一個の素粒子は宇宙のあるゆるものと繋がっているのだ
ゆえに
一個の素粒子は宇宙全体の力で支えられ、
一個の素粒子の力によって宇宙全体が支えられている
素粒子の塊である私の命は宇宙一杯の広がりをもっているのだ
私の命の中に日月星辰森羅万象一切のものが存在しているのだ
この詩もどきはへたくそであるが、言っている事は大したことを言っているのである。
そもそも、仏教は自己が根本、その中味は縁起である。
縁起とは仏教の中心思想で一切のもの(精神的な働きも含む)は種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えで因縁生起の略である。
ところが一般に縁起の考え方が限定的で漠然としているようである。 十二因縁にしても普通言われるところは縦の流れが繋がっているだけだが、それぞれに周辺条件があるわけだし、その条件にもそれぞれ縁起があるのである。。
もう6,7年も前になるが、本屋を覗いた時科学本の中に四つの力のことが書かれていた。驚いたのは電磁気力と重力の影響範囲が無限大であることである。
無限大ということはどういうことか。この自分と遠く離れた星々ともダイレクトに繋がっているということである。地球上のものは地球に引っ張られ地球という塊として太陽に引っ張られるということではないのである。力の総和が見かけ上地球の中心にあるだけで直接太陽とコンタクトしているのである。
太陽の中の1素粒子と自分の中の1素粒子はいかに微小な力であったとしても相互作用している。その結びつきは分離不可能である。
「此れ有るがゆえに彼れ有り。此れ起るがゆえに彼れ起る」という縁起もこの力あればこそなのである。何故縁起なのかその答えは四つの力があるからということになる。
(参考)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)から
素粒子の相互作用、自然界の四つの力、相互作用とも。
(おことわり)一部記事の貼り付けを行いましたが、文字色の変更ができず背景色と同系の色なので読み取りが困難です。削除いたしました。上のリンクから直接ウィキペディアをご覧いただければと思います。
gooブログがテンプレートの種類や機能を追加したので気に入ったのに変更しました。前の山の写真は綺麗ことは綺麗だったのですが、人気を感じず共生山という山号にはぴったりこなかったので変えたいと思っていたところでした。
元々宇宙に関心を持っているので今回は星のデザインを選んだ次第です。
それと「ひとこと」欄も使用することにしました。ちょっと思いついたこと、感じたことを書き込んだり、澤木興道老師が”寸鉄人を刺す”言葉が多く残されていますのでそれらを紹介する欄と致したい。こちらには皆さんのひとこともお願いします。
内山興正老師から生命の実物、つまり世界ぐるみの自己を教わった。ただ、当初は自分とは関係なく世界が動いていてそれを体験するだけ、繋がりがもう一つ感じられなかった。
見えるものは確かに自分の体験だし、自分のありようで見えるものもそのようにある。それは確かに自分の世界だと思えるし、以前のように自他の別がはっきりして孤立していた時とは明らかに違ってはきたがすっきりしない状態が続いた。
長年宿題として抱き続けてきたが、これを解決したのが、やはりお釈迦さんの縁起という考え方、
「此れ有るがゆえに彼れ有り。此れ起るがゆえに彼れ起る」
具体的には「三億分の一の確率」で書いたように、世界は非常に微妙精緻にできていてちょっとした物事の動きが伝播し、それが増幅されるような仕組みなっていることに気がついた。
この世の一切のものは皆のっぴきならない関係で皆繋がっている、たとえば、あなたと私、あなたがいなければ私はいない。私が存在しなければあなたの存在もない。今日の日本でもっともとんでもない人間といえば、麻原彰晃でしょうが、私がいて麻原彰晃がいる、麻原彰晃がいればこそ私もいる。繋がっているのである、のっぴきならない関係なのである。
そんなことと思われるかもしれないが、証明は簡単である。自分というものを否定してみればいいのである。生まれてからのことを全て否定してみればいいのである。自分だけでなく自分が関わった一切のものである。それは全宇宙を否定することになるのは容易に想像できると思う。
過去にもヒトラー、スターリン、毛沢東、トルーマンなんてとんでもない人間がいたが、彼らが存在しなければ私の存在はない。また、御釈迦さんや道元禅師といった方々もいなければ私の存在はない。
とにかく、過去現在未来、存在するものは全てのっぴきならない関係で繋がっていて無限の広がりを持っているということなのである。
釈尊は自己探求の末、本来の自己を悟られその我を「無我」と言われたのであるが、「我が無い」とはどういうことか、なかなか解りにくいところである。
後秦(こうしん・384年~417年・五胡十六国の一)のころ、鳩摩羅什三蔵(くまらじゅう・さんぞう 法華経をはじめ多くの経論を翻訳、三論宗の開祖)を師とする肇(じょう)法師という優れた僧がいて、その肇法師の有名が言葉があるが、この言葉で無我の意味がよく分る。
聖人に己なし、己ならざるところなし
天地同根 万物一体
己なしとは、己ならざるところなし ということなのである。何から何までぶっ続いていて自他の別がない。天と地も根源を同じくし万物は一体である。とすると己というものがなくなってしまうということである。
肇法師は仏法ひとすじ優れた人であったが、王の怒りにふれ処刑されることになった。7日間の猶予を乞いその間に「宝蔵論」という論書を書き上げた。
こうして肇法師は斬刑に服したのであるが、次の遺偈(いげ)残している。
四大元無主 五蘊本来空
將頭臨白剣 猶似斬春風
四大(地・水・火・風の元素で成り立つ人間の身体)に元より主無し。よって人間の五感も本来空である。まさに頭を差しのべて白刃に臨めば、さながら春風を斬るに似ている。
日本でも切腹させられるような場合、この遺偈を思い浮かべて刑に臨んだ人も多かったのではないかと思う。
明日2月3日には節分、季節を分ける日とか、もうすぐ春です。節分行事「豆まき」について、10年前にニフティのフォーラムにアップした文章があります。「福は外」の提唱です。
皆さんのお宅では節分行事をされますでしょうか。土地土地でいろんな習慣があるようですが、どこでもあるのが豆まきですね。豆まきの時はどんな掛け声をされるのでしょうか。一般的には「福は内、鬼は外」ですが、そう言わないところも結構あるようです。
東京雑司が谷の鬼子母神 「鬼は外」といえば祭神を追い出すことになるので「鬼は内、福は内」
奈良市中院町の元興寺 元興神(がごぜ)という鬼がいて悪者を退治する言い伝えがあることから「鬼は内」
奈良県吉野山の蔵王堂 「福は内、鬼も内」といい、鬼を集めて、お経の力で改心させるというもの。
愛知県の大須観音 「福は内」だけ。鬼の面が寺宝なので「鬼は外」は唱えない。群馬県鬼石町 昔、鬼が投げた石でできた町と言われており、鬼は町の守り神。近年では、全国から追い出された鬼の安住の地をうたっており、「福は内、鬼は内」という。
(地域情報誌くりちゃん2月号から引用) といろいろあるようですね。
共通するところはどこも「福は内」は唱えるが「鬼は外」とは言わないところですね。 ところで私の家では「福は外」と唱えて豆まきを致します。何故、「福は外」なのか。ちょっと説明しますと、以前住んでいた近くに成田不動尊関西別院というのがあって毎年芸能人なんかを年男年女に招いて派手に豆まきを致します。そこの掛け声が「福は内」だけなんです。寺の境内に鬼なんぞおらないというのがその理由でございます。なるほどと思ったのですが、よく考えてみるとお寺さんが「福は内」というのも又おかしな話ではないか。福を授けるというなら「福は外」ではないのかと思いましてね。
そもそも「福は内」というのは内に福がないということで貧乏根性の表れでありましょう。幸い我が家はささやかではありますが恵まれてもいる。恵まれているならここは気持ちだけでも世間様に福をお分けするべきではないかということで「福は外」と掛け声することにしたのです。もう20年以上も前からそのやり方で豆まきをしております。
節分に 福を数えて おすそ分け 福は外 福は外
「福は内」とやるよりも「福は外」とやる方が気分が爽快になりますよ。で、今年の豆まきは寺も里も「福は外」で行きましょう。日本中が「福は外」とや>るようになればもっと住みいい社会になると思うのですが。
「福は外」!「福は外」!!^\(^o^)/~
「ニフティでのレスへの回答」
何故「福は内」なのでしょうか。これは「福がない」「福が足りない」ということが前提になっています。つまり、貧しいわけです。豊かでない。これは物心両面でいえるわけです。「福は内」と叫ぶことは、自分は貧乏です、心が貧しいですということを広言しているのです。
そのようなところには貧乏神がやってきます。貧乏神にとりつかれますと、年がら年中「福は内」です。外の福を内に入れても皆貧乏神が持って行ってしまいます。 貧乏神とは心の貧しさのことです。足ることを知らないということです。足ることを知らないのですから貧乏神の蔵は底無しです。入れても入れても入ってしまう。どこまで行っても「福は内」、その度ごとに貧乏神はシメシメとほくそ笑んでいる。
さて、「福は外」ですが、これは「福がある」のが前提になっています。ないものは出せませんから。福の神はちゃんと家の中にいるのです。福の神とは知足です。「福は外」と言って福が出ていってなくなってしまう、なんてことはありません。福の神の蔵もまた無尽蔵ですから。 生きるとは息をすることでもあるわけなんですが、呼吸で大事なことは呼気なんですね。吐く息で力が出てきます。吐ききれば自然に空気が入ってくる。呼だけに気をつけておればいいわけです。逆に吸気に集中すると肝腎の呼気がだめになってしまいます。力が出ません。まあ、似たような理屈はここにもあります。
節分に 福を数えて おすそ分け 福は外 福は外
福豆を歳の数プラス1個食べますね。福豆の数だけ福の数を数えてください。どれだけ恵まれているか。その恵みを気持ちだけでもいいから外の人にもお分けする。 我ながらいいの作りましたね。笑点ならさしずめ座布団5枚。^_^;山田クーン。
次は「鬼は外」ですが、これも鬼が内にいることが前提です。鬼というのは天の邪鬼というくらいですから、言ったことと反対のことを平気でやらかします。豆で追い出してもすぐ戻ってくる。また、鬼は外には住めないのです。心の内が棲家なのですから。鬼との戦いを止めて居住権を認めてあげることです。すると、鬼はおとなしくなります。 え、「鬼は内」ですか。鬼は外にはいない。呼び込んでも意味がないということでした。
と、いうことで今年の節分は「福は外」で決り!
「福は外」!「福は外」! )^o^((^○^)(~o~)§^。^§