「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」
小林一茶の句だが、年末になるといつもこの句を思い出します。
今年もお陰様で終えることができました。
お付き合いを頂いた皆様に感謝申し上げます。
来年もよろしくお願いいたします。
一法 拝
「追記」
ご存知のない方のために申し添えると、「あなた」とは阿弥陀仏のことです。
「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」
小林一茶の句だが、年末になるといつもこの句を思い出します。
今年もお陰様で終えることができました。
お付き合いを頂いた皆様に感謝申し上げます。
来年もよろしくお願いいたします。
一法 拝
「追記」
ご存知のない方のために申し添えると、「あなた」とは阿弥陀仏のことです。
世界ぐるみの自己を生きるというのが、私の人生上テーマである。
環境問題にも関心がある。
ユーチューブで温暖化対策の一環として、自動車の電気自動車(EV)への切り替えを各国で取り組まれているが、EV化にはいろいろ問題があるようである。
1.航続距離が短くて、頻繁に充電しなければならない。
2.充電施設が足りない。
3.寒冷地では電池性能が低下する。
4.価格が高い。
5.レアアースの資源が不足。
6.電池製造時の問題(採掘時や加工時の健康被害多くのCO2を排出)
7. 廃棄時の環境汚染、リサイクル技術が確立していない。
8.車両価格が高い。補助金制度の不平等。
9.中古車価格が低い。
10.発火事故が多い。
11.車両重量の重さによりタイや摩耗が大きくなり粉塵により大気が汚染される。
といったことが、上がられるが、最近もっと根本的なことで不都合な事実が明らかになってきた。
そもそも、炭酸ガスの排出を抑制することが対して大した温暖化対策にならないということである。
2022年ノーベル物理学賞を受賞したジョン・F・クラウザー博士が韓国で「気候危機否定」講演を行ったそうで、その中で大気中の炭酸ガス濃度はわずが0.04%人間の活動でもたらされたものはその内3%、つまり、0.0012%に過ぎないと言っていたそうである。
それがどれだけ気候変動に影響を与えるか、ちょっと考えても疑問とされるところである。
それで私も博士の言っていることが正しいのか、Bingで調べてみた。
それが次の記述
ーーーー
二酸化炭素は温室効果ガスの一種で、人間の活動によって大気中に増加しています。二酸化炭素の濃度は、産業革命以前(1750年)の平均的な値とされる約278ppmと比べて、2022年には約417.9ppm1、2023年11月には約418.7ppm2にまで上昇しました。これは、50%以上の増加に相当します。
二酸化炭素の濃度の上昇は、地球の気温を上昇させる原因の一つとなっています。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第6次評価報告書によると、21世紀末には、地球の平均気温が1.5℃以上、最大で4.4℃上昇する可能性が高いとされています3。このような気温の上昇は、自然環境や人間の生活に様々な影響を及ぼすと予測されています。
ーーーー
これによると、産業革命以前と現在を比べると炭酸ガス濃度が50%増えているということ、仮に全部を人間の活動によるものとしたら、約30%の寄与率になる。
博士の3%を10倍に見ても、0.012%にしかならない。そんな濃度でどれだけの熱つまり赤外線の放射を止められるというのであろうか。止めたところでそれ自体が熱源となって宇宙へとそれを放射するまでである。
地球の気候は、氷河期があり、間氷期があり、常に大きく変動している。
後段の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第6次評価報告書」がいい加減なものなのだろう。
博士をはじめ、多くの学者、専門家がIPCCに反対する意見を表明して来ている。
今週の初めに事実誤認し失敗した体験を話したい。
ある品物をネット通販で注文し、月曜日に配達されることになっていた。
当日、配達状況をネットで確認すると、配達先が10月末から11月初めにかけて入院した病院の病棟宛になっていた。
入院中にある品物を購入した時に住所変更をしてそのままになっていたのだ。病院に受け取ってもらって夕方取りに行く旨連絡をした。
昼近くもう一度配達状況を確認すると、持ち戻りになっている。配達人が配達場所が分からず持ち帰ったようだった。受け取りは別棟の検診センターの文書室になっていて初めての者には分からなったようだ。
配達業者に配達がされていないこと、再配達をしてもらうことを連絡しようとしたが電話がない。仕方なく翌日の再配達の依頼をネットで行った。
事情が変わったので、再度、その文書室に電話して翌日再配達にしてもらうことにした旨通知した。
翌日、配達されたことを確認して文書室まで取りに行って何とか入手した。
つまり、アカウント登録で住所を一時的に送付先に変更してしまっていて、それがそのままになってしまっていたのである。それに気づかずにいたドジな一幕だが、事の大小に係わらずよくあることではないか。
思い込み、誤認した事実に自信を持ってしまうのがヤバい。歳行って注意力が落ちているので再確認の必要性を感じた次第である。
「ちょっと待て クリック前に 再確認」
バーチャルリアリティ(virtual reality)という言葉がよく聞かれるようになった。
今年は例年より遅く来年の年賀状のあいさつ文を考慮中ですが、今年も数枚の喪中はがきを受け取りました。
服喪について、解説されているある神職のHPがありましたので、紹介します。
そうだったのかというような内容が書かれています。参考にしてください。
今回は時間について考えてみよう。
真実の世界においては、時間というものはない。時の流れがあるだけである。
普通の時間観念は、過去、現在、未来とある。
しかし、過去は過ぎ去り今はもうない、未来は来たっていないのから今はない、現在あるのかというと時間というものはない、過去と未来に挟まれた無の時間。
時の流れを羊羹に例えると、それの切り口である。切り口だから幅がない。切り口の一方が過去、もう一方が未来となる。
幅のない切り口の現在が悠久の彼方から、永遠の彼方へと動いていくのである。
事実の世界では我々の持つ認識力でそれを五感で捉え過去を記録し、未来を想像し映像化してそれで時間の認識している。
未来を想像するのも、すでに過去の出来事。み・ら・いと言っている間に時間が経ってしまう。
とすると、全ては過去ということになる。どんな映像も作らえたものを追っかけ再生しているのである。
前回は、真実と事実について雪山偈に関係して、書いてみたが、今回は般若心経について書いてみたい。
般若心経は短いお経なので読む人が非常に多い。
しかし、読むからにはその意味するところはどういうことか、本を読んだりしてするが、ほとんどの人が理解不能じゃないかと思う。
なんとなれば、阿含経の説くところの四諦等の根本的な教説を無とか空とかで否定してしまう。
そもそも仏教の話は物事を否定するから難しいのである。心経は難しい話をさらに否定する。否定するから易しくなると言うことではなく、難しさが倍加する。
さて、どのお経もそうであるが、書かれている世界は認識された世界のこと、つまり、事実のことなのである。
はじめにそれが書いてある。観自在菩薩が照見した、つまり、見た世界なのである。それは我々の見るところの世界、事実の世界である。事実の世界は消すことができる。無とか空とかがそれである。頭の中をクリーンにする話である。
雪山偈でいうところの生滅滅已と同じである。
只管打坐・身心脱落の坐禅の世界を説いているのである。
華厳経に「諸行無常(しょぎょうむじょう)是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅滅已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)」という言葉がある。
雪山偈といわれるもので、この言葉を元に「いろはうた」が作られたとされている。弘法大師の作というのは違うようである。
意味は「作られたものはすべて無常である。生じては滅していくことを本性とする。生滅するものがなくなり、静まっていることが安らぎである」
これは華厳経に書かれている、お釈迦様の前世である雪山童子が羅刹に変身した帝釈天から命を投げ出して教わったという物語である。
この話に纏わる面白い話を内山興正老師から聞いているのそれを紹介しつつ、私の見解を述べてみる。
話はちょっと古いが、ノストラダムスの大予言というやつで、世の終りが来るのではないかと本気で信じていた人が多くいた頃の話である。
老師は笑いながら、「生滅滅已つまり自分の死が世の終わりだよ」と言われていた。
諸行無常 是生滅法 これは当たり前の法則であるが、生滅滅已が問題のあることである。「生滅するものがなくなり」は岩波の仏教辞典から引いた訳だが、生滅するものがなくなりって、どういうことなのか。法、本性なるものがなくなるものなのか。真理と言われるものが消えてなくなる、そんなはずがない。
また、死と捉えるのも如何なものか。雪山童子は生滅滅已と聞いて命を投げ出している。命をなくしたところが寂滅で安楽、安楽も命あってのことでしょう。
生滅滅已できる諸行無常 是生滅法とは、真実ではなく事実なんだということ。
頭の中の出来事だということ。「祇園精舎の鐘の声」鐘の声で祇園精舎をイメージする、そのイメージのことなんだということである。
そんなイメージなら消そうと思えば消すことができる。
ある人は仏教は素朴実在論だといった、認識したものが実在だという考え方である。八正道にいう正見されたものは実在とする、つまり真実だとするのです。俺の目で見た真実、つまりは私のいう事実に過ぎないものを真実と思い込んでいるのである。
認識にかからない真実、認識された事実(頭の中のイメージ)このギャップが仏教の中ではきちんと説明されていないから皆、悩み苦労するのである。望遠鏡も顕微鏡もなかった時代に自分自身の五感に頼るしかなかった時代だから仕方がない。見えないものは見えない。
では、生滅滅已とは具体的どうすることなのか、坐禅して頭の中の生滅するごちゃごちゃをクリーンにすることなのである。
2,011年 時事通信社写真
コロナ流行以前は、よく映画を観に行っていたのであるが、流行が始まってからは全然観に行かなくなった。
流行が収まってマスクをしなくてもよいという事態になっても、観に行かない癖がつて全然観に行かなくなっていた。
ところが、この秋、漫画「沈黙の艦隊」の実写映画が上映されることになった。単行本「沈黙の艦隊」32巻もある長編漫画、見かけたのは門真市図書館、読みかけるととても面白い、全部読んでしまった。
それの映画化、見ないわけにはいない、というので、観に出かけた。32巻全部という訳にはいかないから、初めの数巻だけのストーリー。しかし、久しぶりだしまあよかったというところだった。
そうなると、予告なんかを見ていると、観たくなるのが出てくる。
で、次に見たのが、「ゴジラ1.0」、その次が「首」。
さて、映画の中味より、映画館自体が真実と事実の関係のよく分かるところなのである。
暗がりの中の自分、これが真実である、そして、映画が投影される、これが映っていることは真実だが、投影された映像は事実である。
普通の世活では真実と事実の境目は分かりにくいが、映画館では分かり易い。
映画映し出されると、自分や周りのことが無視されて、画面に意識が集中、画面の中に意識が取り込まれ、画面の中の存在と思える時さえある。
こうなると自己の真実なんて忘れられてしまう。そして、映画が終わってふと我に帰る。
現実ではない、虚構の世界の中にいたのである。映画の場合は、そのことがよく分かる。
しかし、日常の場合も自分が作り出した映像の中、つまり、事実の世界の中にいるのである。
事実の世界は真実から浮いた世界、これを浮世というのだと思う。
さて、ついでながら、映画の世界は動画と思っているが、実際は静止画集まり1秒の間に24コマ、それが連続で映されることによって、パラパラ漫画のように動いて見えるのである。
人間の目は1秒間を200コマくらいにカットして、とぎれとぎれに物を見ているのだそうである。
自分の目で直に見たと言うものでも、自信を持って言える事実ではないと言うことである。
本日12月8日は釈尊が悟りを開かれた日で、それに因んで各お寺では成道会の法要が行われた。
悟りとは、
思い、幻影の事実の世界が消滅して、真実の世界が顕わになること。
しかし、これが真実と思ったら、それはもう事実に変貌してしまうのである。
真実と事実には、タイムラグがある。真実が先で、事実が後である。前回は太陽の例を挙げたが、もう一つ分かり易い例を挙げてみよう。
落雷があったとする。初めに光が走って次に音が聞こえる。光と音の伝わるスピード、つまり、情報の伝わり方が違うのである。それぞれが事実と受け止めることになる。真実は一つ、事実は2つあることになる。
つまり、事実は全て過去なのである。
確かに見たといっても、どうせ過去に自分の目で見たものに過ぎず、自分の視力でどんな光の下でどこから見るか、限定された認識にすぎない。
私の眼なんか、近眼、乱視、老眼、白内障、ドライアイ。錯誤、歪み等まともに見えていない。
全ては幻影。ところが皆、この幻影に結構自信を持っているのである。
自信があってこそそれを元に生きているのである。事実なくして生きられない。そこがやるせない。
これに関して内山老師の言葉を紹介しよう。
「思いは幻影、行為は現実、結果は化けて出る」
思いは幻影(事実)、行為は現実(真実)、結果(真実)は化けて出る(事実)
これを仏教用語では、惑業苦という。
真実と事実について、もう少し分りやすく説明したいために今回次のように図示することにした。
六根、六境、六識は仏教用語。
六根は感覚器官。眼耳鼻舌身意。
六境は六根によって捕らえられた映像等。色声香味触法。法境は意根により知覚される概念を含むすべての存在。
六識は認識作用。
例えば、具体的に上図の実物を太陽としてみると、太陽から光が情報として眼に飛び込んでくる。それを情報処理して頭の中に映像を作る、これが色境。その作られたイメージに対して、太陽であると判断したり、言葉を当てたり、過去の記憶と照合したり、記憶したりするのが認識。
その認識されたものが事実。頭の中の存在するイメージ、太陽のイメージは過去に記憶されたものを思い出しても太陽と存在する。頭の中のイメージは無数に存在する。それを「太陽」という言葉で抽象化して一つのものとしてしている。
とにかく、真実は絶対に認知できない。認知したと思うものも情報を得たに過ぎないのである。それは真実でない以上頭の事実というしかないというのが私の主張である。
誰もが真実でない幻影的事実に自信を持ち過ぎである。
次の図は、内山興正老師が「進みと安らい」という本で図示された自己生命図である。私もこのブロクで何回となく紹介したことがある。また、これに私の考えで補足的につけたした図を示したこともある。
この図は上の図でいうと、事実の世界を言っているだけ。しかし、これが仏教の世界なのである。
六根があって、六境がある。六根+六境を十二処という。十二処に六識をプラスしたものを十八界という。十八界が仏教の世界なのである。
仏教の世界は認識世界、私の言うところの事実の世界である。真実は見えない、見えないものは言及不能、言及できないものはないものとするしか仕方がないのである。
老師の図は仏教的には間違いではではない。念のため。
(追記)
図において、分りやすくするために真実と事実を左右の分けて描いたけれど、真実は全体つまり宇宙のことで、事実の世界は真実の世界に含まれます。